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新国「ウイリアム・テル」(11月26日)

2024年11月27日 | オペラ
開館以来27年を経た新国立劇場だが、この間に本舞台で取り上げられたロッシーニは「セビリア」と「ラ・チェネレントラ」2演目のみという寂しい状態だった。しかし3演目目にまさかこの作曲家最後の大作「ウイリアム・テル」が選ばれるとはいったい誰が想像したことだろう。まさに大野和士オペラ芸術監督の快挙である。本格舞台初演は1983年の藤沢市民オペラによる邦語訳版だったが、今回は日本舞台初演となるフランス語版である。(2010年にアルベルト・ゼッタが東フィル定期でフランス語版を抜粋の演奏会形式で演ったことはあった。先般早逝された牧野正人さんがテルを朗々と歌っていたことを懐かしく思い出す。)今回は大野監督自ら指揮する東フィルがピットに入り、演出はヤニス・コッコスである。何よりもロッシーニの音楽が凄かった。感情の機微はあまり音楽に投影されず、アジリタの技巧中心に感情を表現するという典型的なロッシーニ・スタイルを完全に過去のものとし、メロディーとハーモニーが感情を切々と表現するロマン派の領域に入った音楽にほぼ全編が貫かれているのだ。ロッシーニの後期はとりわけこのようなスタイルに移行してゆくのだが、この演目はセリアではなく圧政に苦しむ民衆が自らの意志で自由を獲得するという人間ドラマなので、顕著にそうした性格が音楽に顕われることになるのだろう。ただオーケストレーションの厚みとかハーモニーの多様性というような部分ではまだまだ完全なロマン派になり切っていないのは事実だが、時代を超越した大きな進歩が聞き取れたことは大層の驚きであった。歌手で良かったのは何と言ってもまずアルノルド役のルネ・バルベラで、最後まで驚異的と言って良いほどの充実した歌唱を聞かせた。その恋人のマティルド役のオルガ・ぺレチャッコはいささか疲れがあったのか低い音が響かなかったし、この作品唯一のアジリタ・アリアでも歯切れの良さを欠いた。テル役のゲジム・ミシュタケは終始安定的で全く不安の無い立派なタイトルロールだった。そして彼を含めてその息子の安井陽子と妻の齊藤純子の「家族トライアングル」が良くバランスした充実した歌唱と演技だった。だから民衆を代表する家族にスポットがあたりドラマに大きな説得力を与えた。悪代官役の妻屋秀和とその家来役の村上敏明も憎々しく役を演じ、テルの同士フュルスト役の須藤真悟もいつもながらに実力を発揮した。指揮の大野はほぼ過不足なく長丁場を停滞なく進めはしたが、私はRAI(イタリア放送協会)の放送終了の音楽にも使われている(いた?)第四幕のあの感動的なワーグナーを思わせるフィナーレのテンポにいささかの味気なさを感じてしまった。コッコスの舞台は美しく穏当なもので十分な説得力を持っていた。そして序曲の最中から描写的背景を舞台化することで、全体の中でしばしば違和感を禁じ得ない有名な序曲を本編と一体化して聞かせることに成功していた。ただバレエで女性蔑視的な表現が長々と繰り返されたことには、意図的だとは言え辟易とした。村人の解放を喜ぶべきフィナーレがそれだけでは終わらず、爆撃された廃墟が投影され消えていったのは、歴史は繰り返すという今でこその教訓的メッセージと受け止めた。ほぼ全曲にわたり大活躍した新国立劇場合唱団にも大きな拍手を送りたい。実はこのオペラは「オランダ人」や「ローエングリーン」や「タンホイザー」以上に合唱オペラだったのだ!ホアイエと5階情報センターで開催されていたロッシーニ研究家水谷彰良氏監修のとても充実した個人コレクションを中心とする展示は、貴重な初版楽譜や実筆書簡等の数々を閲覧できる絶好の機会を与えてくれて観劇の臨場感が大いに高まった。