杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

風流と慰霊のはざまで~安倍川花火の今昔

2012-07-25 08:47:06 | 歴史

 7月の最終土曜日、今年は28日(土)に安倍川花火大会がありますね。私は暑い時期の人混みがどうも苦手で、先日の京都祇園祭ですっかり懲りてしまって、今年もたぶん自宅の窓から遠目に眺めるだけの予定ですが、最近、仕事で安倍川花火大会の歴史を調べる機会があり、意外な事実に驚かされました。

 

 

 

 江戸時代の『駿府名細記』に、「7月26日夜、安弁(あべ)河原花火あり。8月朔日(ついたち)まで町により出すなり」とあり、『駿国雑志』の年中行事7月26日の項にも「今宵二十六夜待ち有り。安弁河原に於いて大花火揚げあり。見物の諸人群をなせり。もと月を待つ間の遊戯也」とあります。

 

 つまり、江戸時代から安倍川花火があって、お月さまが出るのを待つ、“月見の余興”として人々に親しまれていたんですね

 もともと静岡は花火作りが盛んな土地柄で、曲金あたりに花火師が多く住んでいたようです。軍神社、八幡神社、きよみずさんの花火も有名ですね。これらは安倍川より規模が大きかった時代もあったそうです。

 

 

 花火は徳川時代、泰平の世にあっても武家の伝統として砲術・火術の秘法を守ろうと譜代の若者たちが継承してきたものです。徳川ゆかりの駿府城下で花火作りがさかんだったというのもうなずけますね。

 

 

 

 大正時代、本通り9丁目に小田万蔵という指物師が住んでいました。彼は、かつての修業先で世話になった親方や職人仲間が関東大震災で亡くなったことから、安倍川のほとりに慰霊碑を建てようと駒形の感応寺住職に相談します。しかし震災供養塔を安倍川に建てることに賛同してくれる人は少なかった。懸命に奔走した結果、弥勒や呉服町の篤志家や感応寺はじめ日蓮宗8カ寺の関係者が協力してくれることになり、寄付金を集め、身延山久遠寺81世日布上人が「南無妙法蓮華経関東震災横死者供養塔」という文字を書いてくださったそう。大正14年9月1日、諸霊供養塔とともに安倍河原に塔が建ち、記念に打ち上げ花火が上がったそうです

 ・・・7月にお祭りとして上げる花火とは趣旨は異なりますが、震災慰霊のために安倍川で花火が上がったというトリビアは、今回、初めて知って感慨深くなりました。

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 小田万蔵さんはこのとき29歳。いろんな意味で“男気”があった人なんでしょう、借金や事業失敗を繰り返し、奥さんに愛想を尽かされ、静岡にいられなくなって、昭和39年に名古屋で亡くなりました。遺骨は故郷に戻り、感応寺に葬られたそうです。

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 戦前の安倍川花火にも“名物男”がいたそうです。本通り8丁目の石屋の福井さんは、毎年、自分で火筒をかついでやってきて、景気づけに一発上げないと気が済まないと言って手製の花火をドーンと打ち上げたとか。やっぱり職人さんの“男気”が祭りを盛り上げていたんですね。

 

 

 安倍川花火大会は今年で59回目というカウントが付いています。59年前の第1回というのは、昭和28年8月、「第1回東海花火大会」という名称で執り行われました。きっかけは、戦後復興の願いを込めた市民の町おこし。静岡市は昭和20年6月の静岡大空襲で約2千人が亡くなり、安倍川河川敷で火葬にされたのです。

 

 

 昭和22年ぐらいから静岡市内各地で“復活祭”と銘打った市民行事が行われるようになり、安倍河原でも、悲劇の舞台からの復興・復活を願い、静岡市西部商店街発展会が音頭をとり、昭和28年、花火大会の実現にこぎつけた、というわけです。

 

 第1回は商店街発展会が20万円の募金を集めて観光イベントとして開催し、第2回・第3階は、地場産業である木工業者さんたちが協力し、「木工祭花火大会」という名称で、駿府城公園の中で開催されました。

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 4回目から「安倍川花火大会」という名称になり、安倍川河川敷に会場を戻し、新通学区の協力を得て市民花火大会として開かれ、5回目からは田町学区、対岸の長田北学区と長田東学区が加わり、全5学区協働の一大イベントとして発展していきます。今も安倍川花火大会の実行委員会は5学区合同の自治組織で、大会実行委員長は静岡市自治会連合会の市川源一会長が務めます。

 

 

 …私、安倍川花火大会って静岡市(行政)主催のお祭りだと思っていたんですが、市民が始めて市民が運営するお祭りだったんですね。

 

 

 

 

 もちろん、60~70万人もの花見客を動員する大規模イベントですから、市や警察との調整等が不可欠ですが、この規模のお祭りを市民自主組織が運営しきっているというのは、全国的にも極めてまれなケースだそう。初代会長の蒔田忠兵衛さん、3代目会長の酒井源太郎さんといった歴代会長がその基盤を作り上げました。基本的にボランティアでしょう。震災時に寄付やボランティアで活躍する方も素晴らしいですが、日頃から地域で地道にこういう活動をしている方も、本当に尊いなと思いますね・・・。

 

 たとえば、花火大会終了後の後片付けの市民ボランティアのパワー、これはものすごいものがあります。

 

 花火終了直後から実行委員会が一斉に片付け・清掃を始め、翌朝も未明から掃除。6時ごろからは地元の中学生たちもボランティア清掃に汗を流し、見事なまでにまっさらな状態に戻します。ウン十万人単位のお祭りですから、市の行事だったら専門の清掃業者を入札で選んで・・・となっていたかもしれませんが、市民の自主組織が「何かトラブルがあったら来年から許可が下りないかもしれない、絶対に手を抜かず、まっさらに戻すんだ」という緊張感を持って臨むのです。そのパワーはお役所組織では生まれて来ないと思います。

 

 

 

 大がかりなスターマインや尺玉を上げてくれるスポンサー集めも、お役所だったら限界があるでしょう。民間の花火大会でも、規模が縮小したり大会そのものが取りやめになってしまった例もあります。それでも「続ける」ためには、「続ける意味・意義」をつねに振り返る必要があるでしょう。

 

 

 6年前から、静岡市仏教会の協力で、花火大会が始まる前に戦没者慰霊祭を行うようになり、昨年は東日本大震災犠牲者を弔うという尊い使命も加わりました。

 

 大正時代に関東大震災慰霊の碑が建ち、花火が上がったという史実も、この場所で花火大会を続ける大きなモチベーションになると思います。

 

 

 

 

 私はこれらの史実が記録された安倍川花火実行委員会の記録を、長田図書館で見つけましたが、静岡市内ではこの1冊しか残ってなくて、しかも12ページ程度のペラペラ冊子。・・・これでいいのかなあと心配になってきました。・・・こういうことってちゃんと伝えないと、次世代の担い手が育たないし、いつ「景気が悪いからや~めた」ってことになり兼ねないでしょう。

 

 

 

 

 

 お祭りが、過去の自然災害や人災(戦争や事件事故)がきっかけになっているケースは多いでしょうし、京都祇園祭でもそのことを実感しました。今後の自分の取材テーマになるかも、って感じています。

 

 

 今年の安倍川花火大会は28日(土)。14時から戦没者&東日本大震災犠牲者の慰霊祭は執り行われます。詳しくはこちらを。

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