杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

静岡市文化財資料館記念講演『海を渡った朝鮮通信使』

2012-10-21 21:28:42 | 朝鮮通信使

 昨日(10月20日)は静岡市文化財資料館企画展『朝鮮通信使~駿府における家康の平和外交』の記念講演会に行ってきました。講師は望月茂さん。元学校長で現在は静岡歴史民俗研究会会長・静岡市文化財資料館運営委員を務めておられます。

 県内の朝鮮通信使研究家Imgp0869には一通り面識があったつもりでしたが、この先生は初めて。講演を聴いた印象では、朝鮮通信使よりも日本の城郭史のほうがお詳しいようで、秀吉の朝鮮侵略の話、とくに朝鮮半島での秀吉軍の戦い方や城構えについて詳しくお話されました。

 

 

 

 会場のアイセル21の1階ホールは満席に近い盛況ぶりで、このテーマへの市民の関心の高さに驚きました。今、このタイミングで『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』を上映できたら、完成時(2007Photo年)よりもインパクトがあったかも。同じ市の企画なんだから、うまくコラボさせてくれてもよかったのになぁ・・・。

 

 

 ちなみにしつこいようですが、こちらの作品は静岡市立図書館でDVD貸し出ししてますので、興味のある方はぜひ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 秀吉の朝鮮侵略については、以前、京都の佛教大学四条センターの歴史講座で詳しく勉強しました(こちらを)。今回の望月先生のお話で、加藤清正らが永久基地のつもりで朝鮮半島で建設した倭城の曲輪や石垣のスライドを見せてもらい、大陸に攻め込もうとした武将たちのモチベーションについていろいろ考えさせられました。

 

 四条センターの歴史講座で笠谷先生も触れたように、明や朝鮮国との外交を現実的にとらえ、出兵には反対の立場をとっていた武将(小西行長、宗義智ら)と、恩賞狙いの好戦家(加藤清正ら)の思惑が入り乱れ、のちに僧の慶念が「歴史上、この戦争より悲しいものはない」と嘆いたほどの結果に。戦いの経過についてはこちらを見ていただくとして、望月先生によると、文禄・慶長の役に出兵した兵の生存率52,3%。この数字は、どう考えても戦争として大失敗ですよね・・・。

 

 

 

 加藤清正が築いた蔚山倭城は、開戦11ヵ月後、まだ完成前に籠城せざるを得なくなり、飢餓に苦しんだ清正軍の兵たちは、馬を食べ、人肉を食べ、最後は藁を煮出してしゃぶるしかなかったとか。それでも何か戦果を持ち帰らなければと必死になって、朝鮮の人々の耳や鼻をそぎ落として塩漬けにして持ち帰りました。

 佐賀県の名護屋城博物館に保存されている”鼻受取状”は、『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』でも実物を撮らせてもらい、京都の豊国神社の前にある”耳塚”も撮影させてもらいました。鍋島藩が描かせた朝鮮出兵の絵図も映画で紹介しましたが、あの絵図は、戦功を称えるというよりも、「二度とあのようなおろかな戦争はしてはいけないと、いましめとして描かせた」と。

 

 

 

 

 慶長の役の最中の1598年8月18日、秀吉が亡くなり、五大老(実質指導権を握った家康)が同年10月15日に朝鮮半島からの撤退命令を出します。それから第1回の朝鮮通信使(回答兼刷還使)がやってくる1607年までの9年間というのは、日本、いや東アジアの外交史の中でも特筆すべき時代だったと思います。

 

 実際に渡海した武将や僧も“忌むべき戦争”と自覚していた、正義なき侵略戦争・・・。国土を蹂躙され、多くの同胞を殺され、被慮として日本に連れ去られた朝鮮半島の人々が、そうたやすく日本を許すとは思えませんが、背後には明国が控え、北方からは新興勢力(女真族=のちに明を倒して清国を樹立)の脅威も迫っていた朝鮮王朝としては、日本が退いたのなら、どこかで政治的に落とし所を定めねば、という状況。冷静に状況判断を行った家康、実際に加藤清正軍と刃を交わした経験を持つ朝鮮側の松雲大師、講和を円滑に進めるため国書の偽造という奥の手を使った対馬の宗義智・・・この3者の外交交渉は、政治ドラマ、いや人間ドラマとして、想像するだけでもゾクゾクとします。

 

 

 

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 そんな、朝鮮通信使の歴史を紐解くたびに、東アジアの外交摩擦は、昨日今日始まったことではないんだ・・・と思い知らされます。そして歴史教育の重要性。日本の歴史教科書では、文禄・慶弔の役のことをかつては「朝鮮征伐」と教え、その後、「朝鮮出兵」とし、今では「朝鮮侵略」に改訂された、と望月先生。過去の歴史を冷静に見つめる大切さを、朝鮮通信の歴史は教えてくれると思います。

 

 静岡市文化財資料館での企画展は11月25日(日)まで開催中ですから、ぜひ一度足をお運びください。