杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

一縷、千鈞を繋ぐ

2021-08-09 09:22:46 | 白隠禅師

 8月7日(土)、長野県飯山市で開催された正受老人三百年遠諱記念展と、記念講演会『正受老人を想う』に参加しました。講演会の講師は臨済宗円覚寺派管長・花園大学総長の横田南嶺老大師です。

 横田老大師のご講演は何度か拝聴していますが、禅の深い話でも一般人にも解りやすく、落語を聴くように親しみやすく、“深い話を軽やかに、でも後からジワジワ染み入ってくる” という、私が物書きとして理想とする表現を話術で実践されている方。記念事業は没後300年にあたる昨年開催予定だったのがコロナ禍で一年延期。今回も感染拡大状況下で県外から参加することに躊躇しましたが、開催ならば横田老大師のお話は何度でもうかがいたいとの思いで、車で往復8時間、ひとっ走りしてきました。

 

 正受老人(1642~1721)は2017年のこちらの記事で紹介したとおり、白隠さんを厳しく指導し、大悟に導いた禅僧。真田信之を実父、飯山藩主松平忠倶を養父に持つ人で、13歳のとき「そなたには観音様が憑いている」と言われ、16歳のとき、階段から転げ落ちたのがきっかけで悟りを得て仏道へ。江戸で修行の後、故郷の飯山に戻って藩主が建てた正受庵の住持となり、80歳で亡くなるまで生涯を過ごしました。67歳のとき、当時24歳の白隠慧鶴がやってきて、わずか8カ月の修行期間ながら、のちに「此の人なくして白隠なし」と言わしめたのでした。

 2017年の白隠禅師遠諱250年記念『正受老人と白隠禅師』展を鑑賞した際、ひととおりのことは学んだつもりでしたが、今回、横田老大師のお話をうかがって老人のお人柄が一層深く理解でき、また「一縷、千鈞を繋ぐ」という言葉を知って、この師弟の存在価値を改めて噛み締めました。

 

 まずは、正受老人の呼び方。講演会主催者の飯山市教育委員会は、地元で昔から定着している「しょうじゅろうじん」呼称で、私自身も何の疑いもなく、ずーっと老人を「ろうじん」と呼んでいましたが、横田老大師は「ろうにん」とおっしゃいました。仏門では、教団組織から離れ、一庵主として生涯を送った人のことを老人=ろうにんと呼ぶということを、今回初めて教わりました。

 「正受」は、楞厳経という経典にある「正受三昧」という言葉から。老人の正式なお名前は「道鏡慧端禅師」です。今回の三百年遠諱事業で臨済宗大本山妙心寺(京都)では、達磨大師(禅宗初祖)、百丈禅師(禅院体制を確立)、臨済禅師(臨済宗開祖)、大燈国師(大徳寺開山)、無相大師(妙心寺開山)等の歴代祖師の位牌を祀る祖師堂に、道鏡慧端禅師の位牌も安置することになり、入牌祖堂法要が厳かに執り行われました。

 信州飯山の一庵主にすぎない正受老人が、禅宗の歴史に名を刻む祖師の扱いを受けたのは、正受老人が育てた白隠禅師が、江戸期に衰退していた臨済禅の教えを復興させ、禅宗中興の祖となったからに他なりません。ところが、白隠さんが正受老人のもとで修行したのはわずか8カ月。この間、松本の別のお寺にも修行に行っていたので、実質6カ月ぐらいだそう。正受老人から「もう一度修行に来なさい」と念を押されても、白隠さんは正受老人が生きている間は一度も訪ねませんでした。・・・改めて考えてみると、24歳の白隠慧鶴が8カ月で一体何を経験したのか、がぜん関心が湧いてきます。

 

 正受庵を訪問する前、越後高田の英厳寺で早朝、坐禅中に遠くの寺の鐘の音を聞いて突然悟りを得た慧鶴は「雲霧を開いて旭日を見るがごとし」の心境となり、正受庵を訪ねるときには「300年来、俺ほど痛快に悟った者はいないだろう」と自信満々だったそう。初対面で慧鶴が自作の漢詩を見せたところ、押し問答となり、老人は慧鶴の鼻頭をおさえつけて「鬼窟裏死和(穴蔵禅坊め)」と罵倒します。

 老人からさまざまな公案(禅問答)を出され、答えに窮すると「鬼窟裏死和」と罵られ、論戦問答の徹底抗戦に挑んだときも拳で何度も殴られ、堂外の階段から蹴落とされてしまった慧鶴。苦悶の日々を送る中、飯山の城下へ托鉢に出かけ、町の老婆から「あっちへ行け」と追い払われても恍惚として立ち続けます。怒った老婆に竹箒で殴られたところ、気を失ってダウン。目が覚めたとき、公案の真意が理解できたと直感し、正受庵に戻ると、その表情を見た老人が「お前さん、解ったな」とひと言、声を掛けたそうです。・・・なんだか昭和のスポ根漫画の一コマみたいですね!

 

 その後、正受老人から「私の後を継いでこの庵に住しなさい」「お前が私と同じ年齢になったとき禅を盛んにしている姿を見たい」と言われる師弟関係になったのですが、越後の修行仲間が慧鶴を追って正受庵にやってきて、托鉢修行もせずに食を貪る様子に「このままでは清貧な老人の行道の妨げになる」と考え、慧鶴は仲間を引き連れて駿河に帰ることにしました。

 別れの日、老人は慧鶴に「全力を尽くして優れた弟子を2人育てなさい。ホンモノの法嗣が出来れば禅は甦る」と激励したそう。師弟は再会することなく、13年後、白隠慧鶴37歳のとき、正受老人は80年の生涯を閉じました。晩年、老人は慧鶴が再訪しなかったことについて「そんなもんだ」と答えたそうです。素っ気ない言い方ですが、なんだか禅っぽいなぁ。

 白隠慧鶴は42歳のとき、法華経を訓読中、コオロギの鳴き声を聞いて真の悟りを得たといわれますが、このときの心境は「正受老人の平生受用を徹見」。老人が日頃、実践していたことの意味にようやく気づいた、と横田大老師は解説されました。

 

 

 最古の仏典の一つで、釈迦の論語集とも言われる『法句経』に、

〈愚かな者は生涯賢者に仕えても真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることがないように。〉

〈聡明な人は瞬時のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。〉

という教えがあります。

 また雲外雲岫禅師(1242~1324)が弟子に伝えた『宗門嗣法論』に、

〈法を嗣ぐ者には三有り。怨みに嗣ぐ者は道に在り。恩に嗣ぐ者は人に在り。勢いに嗣ぐ者は己に在り。〉

と書かれています。

 横田大老師は「仇のように怨みに思う関係にこそ真の教えが伝わる。厳しい世の不条理に耐えるためにも」と解説されました。現代風の「褒めて伸ばす」というような指導方法とは真逆で、師が弟子に怨まれるくらい徹底して厳しく鍛えなければ、江戸当時、形骸化し衰退していた禅の真の教えは伝わらない・・・そんな覚悟が正受老人にあり、慧鶴には瞬時に真理を知る舌が備わっていると見抜いたのですね。

 

 鎌倉期に栄西禅師や聖一国師をはじめ、中国大陸からやってきた多くの優れた渡来僧によって確立された禅は、室町~戦国の時代、朝廷や武士階級の手厚い保護で守られてきました。禅の教えの厳しさが、厳しい時代を担う人々の琴線に触れ、生きるよすがとされたのでしょう。泰平の世となった江戸時代に必要とされなくなったというのも自然の道理だったのかもしれません。そんな時代に在っても、心ある修行者は「一縷」の望みを「千鈞を繋ぐ」ような思いで、法嗣の灯を守り続けていたのです。

 

 そして幕末。日本が再び、厳しい変革の時代を迎えたとき、朽ちかけた正受庵の再興に力を尽くしたのが、かの山岡鉄舟でした。ご存知のとおり、徳川慶喜の江戸城無血開城の意を命がけで駿河の地で西郷隆盛に伝え、日本の行く末を、まさに「一縷、千鈞を繋ぐ」思いで実践した人。維新後は旧幕臣でありながら西郷の推薦で明治天皇の侍従となりました。

 清水の鉄舟寺を訪ねると解るように、山岡鉄舟は白隠禅師に「正宗国師」の称号を与えるよう明治天皇に進言したほど禅の道に精通した人でもあります。当然、「此の人なくして白隠なし」と言わしめた正受老人の顕彰にも尽力し、明治初期当時、廃仏毀釈のあおりで廃寺となっていた正受庵の再興を長野県令に直談判し、庵は明治17年(1884)に再興が認められました。

 飯山市美術館で開催中の正受老人三百年遠諱記念展で、ひときわ印象に残ったのが、正受庵の襖に揮毫されていたという鉄舟の計8幅の墨蹟。鉄舟の同志である高橋泥舟の書も多数展示されていました。2人は再興の費用を捻出するために熱心に募金活動も行ったということです。

 

 振り返れば、正受庵を建てたのは遠州掛川から信州飯山へ移封した松平忠倶公であり、再建したのは駿府ゆかりの山岡鉄舟であり、正受老人の名を禅宗史に刻んだのは駿河生まれの白隠慧鶴禅師。飯山市美術館で展示物に見入っていたとき、声を掛けてくれた係の男性に「静岡から来ました」と話すと、その男性はパッと明るい表情になり、大本山妙心寺で執り行われた入牌祖堂法要の内部資料まで見せてくれました。・・・飯山まで来て本当に良かった、と胸をなで下ろしました。

 

 正受老人三百年遠諱記念展は飯山市美術館で9月12日(日)まで開催中です。詳しくはこちらを参照してください。

 

 

 

 

 

 

 

 



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