杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

観音と苦行像

2008-02-14 01:03:44 | 映画

 私は学生時代、井上靖の小説が好きで、舞台となった町をよく歩きました。琵琶湖の湖北、滋賀県高月町もそのひとつ。『星と祭』という小説に出てくる高月町の渡岸寺十一面観音は、学生時代に出会った仏像の中でもとりわけ深く、心に残っています。京都や奈良のメジャーなお寺ではなく、湖北の里のひっそりとした寺に、かくも美しい観音様が隠れ棲んでおられたのかと感動したものです。

  

 2006年秋、東京国立博物館で開催された『仏像・一木にこめられた祈り』展を、樹木医の塚本こなみさんと一緒に観に行ったとき、展示フロアのセンターポジションで神々しく立つ渡岸寺十一面観音に、20数年ぶりに再会しました。なんだかすごいメジャーなステージに上がって、手の届かない存在になってしまった、という印象でした。

 その直後、映像作品『朝鮮通信使』の脚本を書く話をもらい、わずか1ヶ月で初稿を上げるハメになり、観音像の記憶はどこかにふっとんでしまいました。

 

  1ヵ月後、監修の金両基先生に初稿を見てもらったところ、「この本には感動が足りない」と意外な指摘を受けました。韓国朝鮮文化研究の重鎮で、人権問題活動家としても知られる先生のことですから、指摘を受けるとしたら、記述の誤認や表現的な問題だろうと思っていたのです。プロデューサーは予算や日程を気にして、記述に問題がなければこのままで行くと言いましたが、山本起也監督は闘志に火がついたようで、「感動が足りないと言われた本で、演出は出来ない」と書き直しを断行。私は初稿に入れなかったエピソードを検証しなおし、追加のシナリオハンティングに飛びました。

  

  その中に、朝鮮通信使の接待役として活躍した対馬藩お抱えの儒学者・雨森芳洲(1688~1755)の故郷・滋賀県高月町がありました。独学で朝鮮語をマスターし、国際感覚を身に着けていた芳洲と、日本の国粋主義の象徴的な存在だった時の幕閣・新井白石(1657~1725)との対立は、朝鮮通信使の専門書に必ず出てくる有名なエピソードで、これだけでも1本の映画が出来るくらいです。45分という尺の制限を課せられていた段階では、家康とかかわりのないエピソードは削るしかないという判断で、芳洲には触れずじまいでした。

  とかく史実の羅列になりがちな歴史ドキュメンタリーで、「感動」を与えるとしたら、それは、やはり、その当時の人間の考えや心の動きをていねいに描いて、彼らも自分たちと同じように悩み、対立する者と理解しあう努力を重ねて苦境を乗り越えたんだ…というような共感を、観る者から引き出さなければなりません。芳洲も白石も、著書や日記類が数多く残っており、人物像が明確だったという利点がありました。しかしこの作品のメインには扱えないし、有名なエピソードが多いだけに中途半端にも扱えない。正直に言えば、手を出さないほうが無難だったわけです。

 

  雨森芳洲の史料を保管する高月町観音の里歴史民俗資料館は、渡岸寺のすぐ横にあります。資料館を訪ねる前、私は監督を誘って渡岸寺十一面観音に会いに行きました。仏像にさほど関心がなさそうだった監督も、「きれいな仏様だなあ」と感嘆し、しばらくじっと見上げていました。20数年前に初めてお会いしたときは古い御堂の中にひっそり立っておられたのに、今は、新設された立派な宝物堂の中。“祈り”の対象から“鑑賞”の対象になってしまったような気がしましたが、それでも横に座った監督の、連日の疲労をしばし忘れて癒しを感じているような表情に安堵しました。その後、資料館の学芸員・佐々木悦也さんに、芳洲の名著「交隣提醒」をじっくり解説していただき、脚本に使えそうなエピソードをいくつか上げてもらいました。

  

 脚本の直しにわずかな光明が見え始めたのを感じ、資料館を後にしようとしたら、展示フロアに置かれた〈釈迦苦行像〉の前で、監督が、「俺、これ持って帰りたい」とつぶやいています。十一面観音の秀麗な姿態とは対照的な、骨と皮ばかりになった悲壮なお姿ですが、彼の眼は釘付けになっていました。・・・監督は監督なりに“苦行”の中にいるんだな、と気づかされ、声をかけるのをためらいました。

  

 井上靖は『星と祭』で、十一面観音をこんなふうに紹介しています。

「十一面観音さまは、頭上に戴いた仏さまたちとごいっしょに、それぞれ手分けして、衆生の悩みや苦しみをお救いになろうとしているお姿でございます。十一の観音さまのお力を一身に具現しているお姿でございます。観音さまはご承知のように如来さまにおなりになろうとして、まだおなりになれない修行中のお方でございます。衆生の悩みや苦しみをお救いになることをご自分に課し、そうすることによって、悟りをお開きになろうとしていらっしゃる・・・」

 

  仏像も、歴史上の人物も、映画監督も、それまで私にとっては次元の違う世界の、堅固で完璧な存在でした。しかし実際は自分と同じように悩みや苦しみと向き合い、乗り越えようと努力している…と思うと、「感動」を書く気力が湧いてきました。

 古い御堂でひっそりたたずんでいた頃の観音さまは、未熟な私にとっては実際のところ、“鑑賞”の対象に過ぎなかったのかもしれません。今なら、観音さまがどんな場所におられようと、そのお姿に素直に合掌できるかもしれません。15日の上映会が終わったら、もう一度、お会いしに行こうと思っています。


朝鮮通信使のディープな史料

2008-02-12 17:39:28 | 映画

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 映像作品『朝鮮通信使』は、2007年、徳川家康駿府入府400年を記念し、静岡市の『大御所四百年祭』事業の一環で製作された作品です。ちょうど、家康が招聘した朝鮮通信使の第1回使節団の来日400周年と重なることから、市内公立学校の歴史教材、あるいは公民館の生涯学習教材として、家康と朝鮮通信使の功績を伝える映像作品を作ることになりました。

 当初、学校の授業で使えるよう、長くてもせいぜい50分、テレビ放映される場合も想定して民放1時間枠に収まる45分程度でまとめるよう指示されました。

  静岡では2002年のサッカーW杯日韓大会の年に、朝鮮通信使関連の文化事業や国際交流事業が各地で開催されました。この前後、県内各地の郷土博物館・史料館の研究員が、地元に残る朝鮮通信使ゆかりの史料を、相当数まとめておいてくれたおかげで、今回、私たちも短時間に脚本を書き上げることができました。とはいえ、朝鮮通信使の研究は、全国的にも発展途上のジャンルで、私たちの2ヶ月足らずの取材期間中も、〇〇家の箪笥の奥から、通信使に献上した品の書置きが見つかったとか、あの本に書かれてあることは裏が取れていないらしいとか、情報が行ったり来たりしていました。

  

  公的な博物館や美術館の正規の所蔵品ならまだしも、やっとホンモノの在り処がわかった絵巻物が、実は持ち主が素性を知られたくないから撮影不可とか、写真なら貸すが所蔵者名を出さないでくれとか、骨董業者が仲介に入っていたりとか、すごーくディープな世界らしいこともわかりました。

 「古美術の世界では、朝鮮通信使関連のモノは高値が付くらしいので、狙われないように、所有を内緒にする収集家が多い」「うちの博物館でも朝鮮通信使の展示会を企画し、個人所有者に出展依頼をするとき大変な苦労をした」という声もあちこちで聞きました。博物館に個人所有者の連絡先を訊いても「うちからは教えられないんです…」と断られ、そこを何とか…と粘ると、「〇〇市〇〇区の〇〇さん(苗字だけ)、としか言えません。後は自分で調べてください」と、まあ、こんな具合。

  

  アタマに来たことも何度もあります。黒子の市民エキストラが手に持った人物絵の元は『駿州行列図』という屏風絵。富士山や清見寺らしき景色の前を通信使一行が通り、街道沿いの民衆が表情豊かに描かれた、この作品にはうってつけの史料でした。ところ所有者は兵庫県尼崎市の個人。仲介に入った尼崎市教育委員会からは「公的施設での無料上映会ならいいが、有料上映会やテレビ放映は絶対不可。DVDも有料販売は不可」と一方的な通知です。作品はおかげさまで好評で、全国各地から「上映・発売しないのか」と問い合わせをもらいましたが、この行列図のせいで、多くの上映や頒布の機会を失う結果になりました。

 某国立大学所有の、対馬が偽造した家康の国書の撮影許可が下りなかったことも悔やまれます。この作品の大きなポイントになる第一級史料で、本や美術書には掲載されているのですが「映像は加工される可能性があるからダメ」と言われ、電話では埒があかないと思い、私は直接、静岡市長名の依頼書を持って大学の窓口に行きましたが、相手にされません。ところが後に、NHKで放送された朝鮮通信使の特集番組では、しっかり映っているではありませんか。このときはさすがに静岡全市民をないがしろにされたような屈辱感を覚えました。

  

  監督や他のスタッフが、林隆三さんと市民エキストラが登場するイメージシーンの撮影準備に追われる中、私は一人、権威をふりかざす公的機関や有名寺院のお偉いさんから、得体の知れない骨董屋の主まで、さまざまな相手と史料の撮影交渉をしました。もともと気の小さい性格の私には、胃に穴があくような毎日でした。

  

  通信使は1607年から1811年までの約200年間で12回、来日しています。しかも対馬から日光まで全国各地に史蹟や史料が残っています。それを45分でまとめようというのです(結果的には70分になってしまいました)。静岡で作る作品ですから、静岡県内に残る史料を中心に、郷土史巡りのような内容にしてもよかったのですが、朝鮮通信使の存在自体、よく知られていないし、家康が通信使を招聘するまでの前段階をしっかり描かなければ、家康の真の功績も伝え切れません。そして通信使の重要な史料は全国にちらばっています。

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 藤枝宿本陣屋敷の一部を移築した藤枝市与左衛門の原田家所有『朝鮮使節進献の鷹の処置につき書状』(写真)は、家人が蔵の中から偶然見つけ、あやうく焚き木にしてしまうところだったという史料です。1年前のちょうど今頃、藤枝市郷土博物館から「新しい史料が見つかったらしい」と聞いて、助監督の村岡麻世さんと原田家を訪ね、ご夫妻に藤枝の郷土史を含めていろいろなお話を聞くことができました。

 

 島田市金谷でも、個人が所有する『朝鮮人来朝大井川河越人足役高帳』という古文書を、やっとのことで見つけ、夜遅い時間にお宅へお邪魔したにもかかわらず、快く撮影に応じてもらいました。通信使一行が大井川を渡るとき、周辺の村々から人足5506人が借り出されたという記録です。

 この2つは、史料としての価値がどれほどのものか、わかりませんが、地元の民家にさりげなく、国賓だった朝鮮通信使の史料が残っていたという事実は、通信使と民衆の身近で深いかかわりを如実に物語っています。しかし、この2つは編集の段階でカットされてしまいました。苦労して撮影許可を取り、実際に撮影したにもかかわらず、カットされたシーンは他にもたくさんありました。

 この手の作品を、2時間も3時間もダラダラと長くはできないし、骨董市場で価値がありそうな一級史料を優先しなければならない事情も解ります。

 ただ、脚本家兼交渉人としては、再編集して静岡版だけでも作ることができたらどんなにやりがいがあるか、と思います。通信使の史料は、これから先も、ちょっと古そうなお宅なら、蔵か箪笥の中からひょこっと出てくるかもしれません。


映像と活字のはざまで

2008-02-11 16:37:15 | 朝鮮通信使

 米グラミー賞の朗読アルバム部門で、民主党大統領候補選のオバマ上院議員が受賞しましたが、グラミー賞に朗読の部門があったんですね。初めて知りました。

 ちょうどグラミー賞授賞式を見ながら、スルガ銀行系列のシンクタンク・企業経営研究所の中山勝さんから頼まれたテープ原稿の書き起こしをしていました。同所発行の経営情報誌には、全国的に話題の企業経営者にインタビューするコーナーがあり、2ヶ月に1度ぐらいのペースでテープ起こしを頼まれます。

 会議や講演のテープ起こしというのは、ライターにとっては低予算のわりに面倒極まりない作業ですが、どんなに安くて時間のない依頼でも断らずにトコトンこなした経験が、自分の筆力を鍛えてくれたと思っています。さすがに20代の頃に比べると、聞き取るスピードは鈍りましたが、企業経営研究所からの依頼は、インタビューの内容そのものが面白いだけに楽しんでやらせてもらっています。

  

  話し言葉を活字にするのは、テープ起こしの経験からさほど苦になりませんが、音読する台本を書くというのは、映像作品『朝鮮通信使』で初めて体験しました。初めての映像脚本が、このテーマというのは、よくよく考えれば無謀な挑戦だったと思います。

 朝鮮との問題が絡む、時代背景の複雑な歴史モノ。フツウに読めない固有名詞や地名、漢文やハングル読みがたくさん出てくるし、難しい表現は避けようと無理に端折ってしまうと意味が通じなくなるし、ナレーションやテロップは、クドクドした解説調の長文にはできないので、どこまで噛み砕いてわかり易くするか等々、問題は山積で、映像の専門家である山本起也監督と、活字出身の私とでは、しばしば意見が対立しました。

  

 そんなとき、私は監督から、文字で説明しようとせず、映像の力が伝えるものに視聴者の判断を委ねよ、というこの分野の大切な鉄則を教えてもらいました。これは、今、自分が創ろうとしている『吟醸王国しずおか』にも示唆を与えてくれています。長崎県対馬の最北端にある韓国展望台で、対馬と韓国がこんなに近いということを、文字やナレーションではなく、50キロ先の釜山の遠景をポンと見せることで伝えようと、雲が晴れるのを何時間も待つ監督の姿(写真)が、それを如実に教えてくれました。

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 今のテレビ番組を観ると、ナレーションやテロップが多すぎるように思えます。情報をわかり易く伝えようとするあまり、視聴者の判断力や想像力を低下させているように感じてなりません。もちろんジャンルにもよると思いますが、視覚と聴覚という、活字にはない情報伝達手段を持つ映像の強みを、ちゃんと考えて使うべきだと、素人なりに感じます。

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 『朝鮮通信使』は林隆三さんの朗読やナレーションの力にずいぶん救われました。この作品に隆三さんをオファーしたのは山本監督自身です。当初、プロデューサーは、静岡出身の若手女優が通信使ゆかりの場所を訪ねて歴史を学び、国際交流の大切さを知る、という、まあ、テレビ番組にありそうなシナリオを想定していました。

 監督も私も、当初はその女優の事務所を説得できるようなシナリオを書くよう指示されましたが、事務所からは色よい返事が来ません。私たちは脚本の方向性が定まらないまま、シナリオハンティングに出かける羽目になり、取材先の長崎県対馬で、監督が、この作品のテーマに本来ふさわしい、重厚な存在感を示すことの出来る俳優として、知己のある隆三さんのマネージャーに直接電話を入れ、口説いたというわけです。

 マネージャーの久保田倫世さんは静岡出身。偶然、旅番組で隆三さんが対馬を訪ねたばかりだったため、対馬でのコーディネーターを紹介するなど親身に協力してくれました。久保田さんが紹介してくれた対馬観光物産協会の財部純臣事務局長という方が、これがまた、どこにでも顔の利く凄腕ネゴシエーターで、本来、手続きに時間のかかる文化財の撮影申請も、特例措置で可能にするなど、大変な力を発揮してくれました。

 この作品に、隆三さんを迎えることの出来た幸運は、多くのスタッフが感じていると思いますが、脚本づくりと撮影交渉にあたり、すべてが初体験で右往左往した私自身、ひときわ深くかみ締めています。

  

  『朝鮮通信使』後は、書く文章も、必ず音読し、より一層、リズムやテンポを大切にするようになりました。すると、不思議なもので、「真弓さんは声が落ち着いているし、話し方が丁寧だからMCをやってほしい」と頼まれることが増えました。地酒の宴会司会程度なら昔から経験がありますが、真面目な講演会やフォーラムの司会となると、プロの司会者やナレーターさんの手前、恥ずかしくてとても表ざたには出来ません。

  

  そういえば、山本監督も美声の持ち主で、話し方もきれいで説得力があり、女優が決まらなかったら、「監督が自分でレポーターをやったらどうですか」と冗談で話したぐらいです。いずれにしても、「伝えるものがあり、伝える手段を大切にする」姿勢に、映像作家も朗読者も活字ライターも違いはないかもしれません。


波瀬正吉と呑む贅沢

2008-02-10 19:37:54 | 吟醸王国しずおか

 9日午後から10日朝にかけ、『開運』の醸造元・土井酒造場(掛川市大東町)で開催された「花の香楽会~蔵見学&日本酒講座」に飛び入り参加してきました。

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 『花の香』という酒は、明治初期まで旧大東町土方で造られていた地酒で、醸造元の子孫である鷲山恭彦さん(東京学芸大学学長)が、土井酒造場に依頼して昨年、復活させたもの。静岡県の新しい酒米・誉富士と地元産コシヒカリを原料に、地域の有志を中心とした楽会員が、田植えや稲刈りや酒の仕込みや酒器の製作などを体験し、地域の酒文化を再認識する活動をしています。Dsc_0058

 

 会員は、東京学芸大の学生やOBをはじめ、遠州全域から集まる地域おこしや地場産品づ くりの担い手たち。私は事務局杉村政廣さん(酒のすぎむら)から誘われてのオブザーバー参加でしたが、県中遠農林事務所所長の松本芳廣さん、地酒コーディネーター寺田好文さん、掛川駅これっしか処店長の中田繁之さん、旭屋酒店(浜松市)の小林秀俊さんなど顔なじみの面々もいて、すっかりくつろいで楽しく過ごせました。

 古民家のモデルルームのような立派な鷲山家の囲炉裏部屋で、手打ちそばや自然薯、かまど炊きの麦飯に採れたて野菜などを肴に、鷲山さん、土井酒造場の土井清幌社長、杜氏の波瀬正吉さんらを囲み、車座になって夜通し呑んで語り合いました。

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  とりわけ、鷲山さんの教え子でソプラノ歌手として活躍する小田麻子さんが即興で歌ってくれた「ふるさと」に、鷲山さん(真ん中)、土井社長(左)も立ち上がって一緒に歌いだし、波瀬さんが目を閉じてじっと聞き入る姿は、滅多に見られないお宝光景でした。

 この時期に蔵の外で、社長と一緒にこんなふうに呑んで過ごせるなんて、「そう滅多にはないよ」と波瀬さんも嬉しそう。土井さんとは40年来の名コンビで「社長とは裸のつきあいができる」と明言します。「真弓ちゃんがうちの蔵に初めて来たのは何年になるね?」と聞かれ、「平成元年の春です」と応えると、「わしは昭和43年だよ」としみじみ。土井社長はこの年に結婚し、当主として蔵を継ぎました。現在の『開運』の名声は、社長と杜氏の二人三脚の努力の賜物に他ありません。

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 現在、波瀬さんは75歳。静岡県の杜氏では、『初亀』の滝上秀三さんと並んで最高齢。「能登杜氏には自分より年上の現役がいるし、まだまだ新しい道具や機械も試してみたいし、もっといい方法はないかいつも考えているからなぁ」とツヤツヤした顔で応える姿に、過酷な酒造りの労働がすっかり板につき、身体の一部と化したような職人の背筋の通った生き方を感じました。

 

 波瀬さんのような造り手と向き合うと、日本酒が、いや日本のモノづくりが、労働を尊び、何歳になっても向上しようとする職人の精神に支えられていることを、『吟醸王国しずおか』の映像でぜひ伝え、残さねばと痛切に思います。

 「花の香楽会」の雰囲気は申し分ありませんでしたが、私にとって、この夜は、波瀬さんと『開運』を酌み交わせたことが何よりの贅沢であり、波瀬さんの現場の姿や、ふるさと能登での暮らしをぜひ映像に収めたいとお願いして快諾をいただけたことが、何よりの収穫でした。


つまんでごろーじ

2008-02-09 11:09:34 | 吟醸王国しずおか

 2月5~8日、東京ビッグサイトで開催された第65回東京インターナショナルギフト・ショーの『ニッポンいいもの再発見!2008』に、静岡県商工会連合会・しずおかうまいもの創生事業委員会が、『つまんでごろーじ~静岡の酒とつまみの玉手箱』を出展しました。

  玉手箱の中身は、静岡県のオリジナル酒米・誉富士100%使用の特別純米酒(富士錦酒造)、東伊豆稲取の地きんめ煮付け&きんめの卵の味噌漬け(きんめ鯛料理なぶらとと)、由比桜えびの酒粕漬け(望仙)、浜名湖のカキの佃煮(山長)。誉富士純米酒以外の酒肴は、本邦初公開の創作珍味です。

  

  過去ブログで紹介したとおり、私はこの事業のアドバイザーとして、静岡文化芸術大学の米屋武文教授、フードコーディネーターの石神修さんとともに、企画立案、商品開発、ネーミング、広報物の制作等を担当し、さまざまな準備をお手伝いしてきました。事業に参加する4業者は県商工会のほうですでに選定されていたので、私としては、業者さんたちの強みや、4者を束ねることでどんな静岡らしさがアピールできるか、誰に、どんな目的で買ってもらうかを考えてきました。そして今回のギフトショーでの初お披露目。

 私は7~8日の2日間、ブースに詰めてPRとアンケート調査をお手伝い。ひとつの商品をゼロから生み出し、ユーザーの反応を確かめるまでの工程を体験するという機会はめったにないので、とても勉強になりました。

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  パッケージはこのとおり。酒は、ウイスキーか焼酎みたいなどっしりした角ボトル(500ml)に詰め、3つの酒肴を文庫本ぐらいの箱に収め、全体で箱入り4合瓶よりちょっと丈長ぐらいの大きさにしました。

 「つまんでごろーじ」とは静岡弁で“つまんでご覧あれ”。実は、私が最初、提案したネーミング案では「ちっとらっつ(静岡弁で“ちょっとずつ”)」が、コンセプトにぴったりで響きもユニーク、と委員会満場一致で決まったのですが、よく調べたら三島のほうで芋焼酎の新商品として使うことが先に決まっていたらしく、泣く泣く断念。商標の問題では、昨年度の同事業で開発したお茶ギフトで、静岡のあるマーケティング業者が提案したネーミングがトラブルを起こしたため、方言といえども慎重にならざるを得ない、という事情がありました。パッケージのデザインは「ちっとらっつ」のイメージで創ってもらっていたので、多少の違和感があるかもしれませんが、いざ、ギフトショーでお披露目したところ、かわいい、面白い、女性でも買いやすい、とお褒めをいただき、ホッとしました。

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 味のほうは、手前味噌になりますが、絶賛の嵐でした。静岡の人でも、金目鯛の卵の味噌漬け、なんて食べたことないでしょうし、桜えびを粕漬けにするのも、望仙さんの完全オリジナルですし、カキを佃煮にして商品化するのも初めて。日本酒は苦手、という試食者も、「これはお酒を呑まずにいられない」とついつい手を出すという感じです。何度も試作・試食を重ね、味噌味、酒粕味、しょうゆ味で3拍子そろえようというアドバイザーの呑ん兵衛3人組の、半ば個人趣味的なコーディネーションで、業者さんには無理をお願いするかたちになりましたが、お客さんからの高評価に胸をなでおろしたところ。

  このうまいもの創生事業が、地方の中小業者の全国販路展開補助金事業のため、今回は首都圏を中心とした全国の流通業者向けに、パーソナルギフト提案としてお披露目したわけですが、個人的には、静岡の人に、「地元にこんな酒と肴があるんですよ、ふるさと自慢として、県外の親戚やお友達に贈ってみませんか」って言いたいですね。

  

  7日昼には『初亀・瓢月ボトル』のデザインをした書道家大橋陽山さんと東京都写真美術館で、夜には、ギフトショー会場にかけつけてくれたdancyu編集長の里見美香さんと、オール静岡酒の隠れそば処・眠庵(神田)で、静岡の酒を新しいユーザーや客層に伝えていくための情報のあり方、提案の仕方についてトコトン語り合いました。大橋さんと里見さんには、ついつい、『吟醸王国しずおか』の製作費捻出のため、国や県の補助金制度をあたり、さまざまな壁にぶちあたった一方で、『つまんでごろーじ』が、国の補助金を易々とゲットして完成した過程に関わり、複雑な思いがしたことを吐露してしまいました。

  

  8日夜、クタクタになって帰宅し、メールをチェックしたところ、TVレポーターや司会等で活躍中の神田えり子さんが、自身のブログで『吟醸王国しずおか』に温かいエールを送ってくださっていること、コメントを寄せてくださった読者の方々の激励の存在を知り、心のタンクにみるみるエネルギーが注入されました。涙が出るほど嬉しかったです。本当にありがとうございました。

 そーいえば、SBSで『吟醸王国しずおか云々』って番組、放送されたんですね。磯自慢さんから「阿藤快が30分ぐらい来て、ちょろっと試飲して帰ったよ~」って聞き、成岡さんからも「視聴率重視のテレビ番組だから、数字が取れる飲食店情報のほうがメインで、酒は添え物扱いかもよ」と聞いていたので、映画づくりとは違う次元の作り方なんだなあと思い、そのまま忘れていましたが、どーだったんでしょうか?

 

  ちなみに私はこの番組には何も関わっていません。昨年夏ごろ、SBS関係者に『吟醸王国しずおか』の企画を相談したことがあるので「パクられたかもよ」と心配してくれる人もいますが、“ちっとらっつ”と同様、“吟醸王国しずおか”も、静岡の方言か固有名詞みたいに万人共通で親しまれるようになったとしたら、それはそれで、素晴らしいことです。

 そう、肝心なことを忘れてはいけません、今年は当面、“つまんでごろーじ”の万人共通語化を目指してがんばらねば!