悲しいより悔しい。
父の時もそう思った。
ベッドの上の小さくなったデイヴ。
点滴の血管確保ができなかったのだろう。腕には青黒いアザがいっぱい。
腹水が溜まっているので、息苦しそうだったけれど、
わたし達の顔を見た途端、すきっ歯を見せてニィッと笑って迎えてくれた。
夕飯の残りみたいなおかずを、美味しい美味しいと、いつものようにパクパク。
彼の渋いバリトンは聞かせてもらえなかったけれど、
病院に入ってから1番の上機嫌だったと、ロビーで見送ってくれた息子のガブリエルが言った。
病名と、それがどれくらいの程度かだけを知ってる彼は、
初めに診てもらった癌専門病院の医者が口にした、新薬の治験を受けたがっている。
その薬は、まだ認可されていないものの、かなり良い結果を出しているらしい。
「その薬で、数年、それが無理だったらせめて数ヶ月……」
そう言ってため息をつく彼を見守るわたし達の頭の中に、『2週間』の数字がグルグル回っている。
彼の息子と娘は、必死になって、父親を受け入れてくれるホスピスを探している。
多分、明日までには受け入れ先が見つかるらしい。
見つかったら今度は、デイヴに話さなければならない。
デイヴはそれを受け入れることができるだろうか。
わたしの父は……受け入れられなかった。
彼は、担当の若いバカ医者から、心ない言葉の暴力をシャワーのように浴びながら、
それに対する憤りと、自分を蝕む病気への悔しさを支えに、辛い抗がん剤の治療に耐えた。
民間療法のキノコの粉や水を内緒で飲み、新聞を端から端まで読み、
その頃センセーショナルに登場した免疫細胞療法がアメリカで受けられるという記事が載った新聞をギュッと握りしめ、
わたしにアメリカに行けるよう手続きしてくれ、と頼んだりした。
どないしてでも生きたい!
その時の父の気持ちを、わたしはちゃんと理解して、受け取ってあげられなかった。
アメリカなんか、保険も無いのに、そんな高額な治療を受けられるわけないやんか。
そんな長い時間、飛行機に乗ることもできひんねんから。
なんでもかんでもやりたいのやろけど、諦めなあかんこともあるねん。
わたしの口から出た冷酷な言葉に、父の胸の中を膨らませていた希望が、音をたてて萎んでいくのが見えた。
自分の命なのだ。誰からもとやかく言われたくない。
けれどもその時のわたしには、冷静に、親身に、父の身になってあげる余裕が無かった。
医者から矢継ぎ早に出されてくる、あと何日という数字に振り回され傷ついた。
皆が揃って心身共に疲弊してしまい、とにかくあの担当医から父を離そうということになり、
わたし達のホスピス探しが始まった。
けれどもすべてが遅かった。
父は病院に残り、亡くなる前日まで怒っていた。
わたしの後悔と無念は、父が亡くなった日から長く長く尾を引いた。
なんとか気持ちを整理したくて、いろんな人のエッセイを読んだ。
その中の、絵門ゆう子さん(2006年4月3日永眠)のエッセイから……。
「余命」という言葉には世の中からの退却を願いたい。「余りの命」なんて本当に失礼。余命を言う医者も、聞きたがったり受け止めたりする患者も愚かだと思う。そんな言葉で暗示にかかって何のプラスになるのだろう。
人は、いつ死ぬかなんて考えず、毎日「今日、死んでもいい」っていう気持ちで生きることだけ考えていればいいと私は思う。がん患者だってがんで死ぬとは限らないわけだから、「あとどれだけ生きられるか」という発想そのものが無駄。
デイヴ、わたしはあなたに何ひとつしてあげられないばかりか、
こんなとりとめもない話をこうしてブログに載せたりしているだけなのだけど、
あとどれだけ生きられるかなんてことで悩むのはよそうよ、時間がもったいないよ。
明日、ホスピスの話を聞いてどんなにショックを受けるか、わたしには到底計り知れないけれど、
怒りたいだけ怒って、泣きたいだけ泣いて、地団駄踏んで悔しがって、自分を空っぽにしてみてよ。
過ぎては消えていく時間の長さを変えることはできないけれど、
その時を過ごしている心の質は、考え方次第で変えることができるかもしれないよ。
また、おかず持っていくからね。塩分とか気をつけて作るからね。
ほんでもって、魔法の手で、あちらこちらペタペタ触るからね。
ホスピスで、最長滞在記録作ってギネスに名前を載せようよ。
そいで、蹴っ飛ばされて退院して、ワインで乾杯!
デイヴらしいと思わへん?
父の時もそう思った。
ベッドの上の小さくなったデイヴ。
点滴の血管確保ができなかったのだろう。腕には青黒いアザがいっぱい。
腹水が溜まっているので、息苦しそうだったけれど、
わたし達の顔を見た途端、すきっ歯を見せてニィッと笑って迎えてくれた。
夕飯の残りみたいなおかずを、美味しい美味しいと、いつものようにパクパク。
彼の渋いバリトンは聞かせてもらえなかったけれど、
病院に入ってから1番の上機嫌だったと、ロビーで見送ってくれた息子のガブリエルが言った。
病名と、それがどれくらいの程度かだけを知ってる彼は、
初めに診てもらった癌専門病院の医者が口にした、新薬の治験を受けたがっている。
その薬は、まだ認可されていないものの、かなり良い結果を出しているらしい。
「その薬で、数年、それが無理だったらせめて数ヶ月……」
そう言ってため息をつく彼を見守るわたし達の頭の中に、『2週間』の数字がグルグル回っている。
彼の息子と娘は、必死になって、父親を受け入れてくれるホスピスを探している。
多分、明日までには受け入れ先が見つかるらしい。
見つかったら今度は、デイヴに話さなければならない。
デイヴはそれを受け入れることができるだろうか。
わたしの父は……受け入れられなかった。
彼は、担当の若いバカ医者から、心ない言葉の暴力をシャワーのように浴びながら、
それに対する憤りと、自分を蝕む病気への悔しさを支えに、辛い抗がん剤の治療に耐えた。
民間療法のキノコの粉や水を内緒で飲み、新聞を端から端まで読み、
その頃センセーショナルに登場した免疫細胞療法がアメリカで受けられるという記事が載った新聞をギュッと握りしめ、
わたしにアメリカに行けるよう手続きしてくれ、と頼んだりした。
どないしてでも生きたい!
その時の父の気持ちを、わたしはちゃんと理解して、受け取ってあげられなかった。
アメリカなんか、保険も無いのに、そんな高額な治療を受けられるわけないやんか。
そんな長い時間、飛行機に乗ることもできひんねんから。
なんでもかんでもやりたいのやろけど、諦めなあかんこともあるねん。
わたしの口から出た冷酷な言葉に、父の胸の中を膨らませていた希望が、音をたてて萎んでいくのが見えた。
自分の命なのだ。誰からもとやかく言われたくない。
けれどもその時のわたしには、冷静に、親身に、父の身になってあげる余裕が無かった。
医者から矢継ぎ早に出されてくる、あと何日という数字に振り回され傷ついた。
皆が揃って心身共に疲弊してしまい、とにかくあの担当医から父を離そうということになり、
わたし達のホスピス探しが始まった。
けれどもすべてが遅かった。
父は病院に残り、亡くなる前日まで怒っていた。
わたしの後悔と無念は、父が亡くなった日から長く長く尾を引いた。
なんとか気持ちを整理したくて、いろんな人のエッセイを読んだ。
その中の、絵門ゆう子さん(2006年4月3日永眠)のエッセイから……。
「余命」という言葉には世の中からの退却を願いたい。「余りの命」なんて本当に失礼。余命を言う医者も、聞きたがったり受け止めたりする患者も愚かだと思う。そんな言葉で暗示にかかって何のプラスになるのだろう。
人は、いつ死ぬかなんて考えず、毎日「今日、死んでもいい」っていう気持ちで生きることだけ考えていればいいと私は思う。がん患者だってがんで死ぬとは限らないわけだから、「あとどれだけ生きられるか」という発想そのものが無駄。
デイヴ、わたしはあなたに何ひとつしてあげられないばかりか、
こんなとりとめもない話をこうしてブログに載せたりしているだけなのだけど、
あとどれだけ生きられるかなんてことで悩むのはよそうよ、時間がもったいないよ。
明日、ホスピスの話を聞いてどんなにショックを受けるか、わたしには到底計り知れないけれど、
怒りたいだけ怒って、泣きたいだけ泣いて、地団駄踏んで悔しがって、自分を空っぽにしてみてよ。
過ぎては消えていく時間の長さを変えることはできないけれど、
その時を過ごしている心の質は、考え方次第で変えることができるかもしれないよ。
また、おかず持っていくからね。塩分とか気をつけて作るからね。
ほんでもって、魔法の手で、あちらこちらペタペタ触るからね。
ホスピスで、最長滞在記録作ってギネスに名前を載せようよ。
そいで、蹴っ飛ばされて退院して、ワインで乾杯!
デイヴらしいと思わへん?