真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

羽田まで先生を送る

2006年10月03日 14時59分02秒 | 虫プロ
昭和42年1月5日 手塚先生は大阪へ出かけなければならなかったが、例のごとく原稿があがらず編集者はいらいらしていた。秘書の島方社長室長は、雑誌担当の編集者と、先に羽田空港へ行き搭乗手続きを手塚先生の代わりにしておくことにして、なんとか、原稿を描く時間を延ばそうとして出かけていった。
 飛行機の時間に、とうとう40分しかなくなっていた、なんとか飛行機に間に合わせてほしいと、車に乗り込んだ、車を運転したのは須崎さんではなくわたし。

 私が、前に、2スタと3スタの間の家の息子さんが、船橋サーキットへいってホンダのS8でレースをしていた。トラックにS8を乗せ準備しているときなどレースの話を聞いていた、それに影響されて国内A級ライセンスを取っていたからであった。
 環七を飛ばして初台から首都高速に乗った、驚いたことに、先生はそんな車の中で未完成の原稿にペンを入れていた。 高速にあがると、アクセルを踏みっぱなし、はじめの大曲をタイヤをきしませて師の車プリンスグロリアは猛スピードで羽田へと向かった。その間も師はペンを走らせ続けていたのでできるだけ車が揺れないよう運転はした。出発ぎりぎり羽田のロビーに車は着いた。駆け足で入り口に向かいながら、手塚先生は待ちかねていた編集者に原稿を渡した。絵の乱れもなく原稿は、仕上がっていたのであった。 これにはおどろいた。あんなに飛ばした車の中である、当然車の中に墨汁がこぼれたあとがあるだろう、しかし、何の汚れも蜜からなかった。

冷静になると、何とか間に合わせたが、無茶な運転をしたことで、もしものことがあったらどうなったのかと背筋が寒くなり、それ以後、人を乗せての無茶な運転はやめた。
あるとき手塚先生のお父さん北風さんと出かけることがあった。いつも運転を褒めてくれ、出かけるときに運転を頼まれることが多かった、そのお父さんが、会話の中で「うまい運転とは助手席の人が、安心して居眠りをするのがうまい運転だよ」と話された。何気ない会話の中で話された言葉であったが、この無謀運転をしたことで公開していたので、その言葉が、脳天をぶち抜いた。「肝に銘じ」安全運転に心がけようと心に誓った。

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