昨日はね…。
「あ…。あたし、間違えてたね。ごめんね」ってことがたっくさん、それこそ沢山ありました。というか気付きました。
こんな醜態曝してごめんなさい。とばかりに、どうにか取り繕って講義に出掛け、「待ってたよぉ~」なんて嬉しい一言に、あぁ、ここには私って人間を待っててくれる人達がいるんだぁ~って思いつつ。
でも、あたし、先が見えない女ですから…。みたいな自嘲の念に、仕事をする上での自分は、一応認められているのかも知れないけれど、人としての自分は終わってるんだろぉ~なぁ…。なんて思ってました。
講義の最中なんてさ、私は一体、何を求めて何を与えて何を得ようとしてるのかしら?って、口だけが独りでおしゃべりする中、頭では違うことを考えてて。
終わってみてね、フト。今日は母校で講話が行われる日だなぁ~なんて思いだしたのですよ。多分、いつもならば疲れた~って帰宅するところが、何故だか足が向いてね。
そこでのお話が、まるで今の自分に向けて話されているようで…。ちょっとまて、自分、自分のことだけで精一杯で、周りをみていなかったんじゃないの?って思ったわけです。
で。その後に、そのお話をされた先生にね。
「わたし、この間、一緒に居ても先が見えないって振られたんです」って、話してみたのです。当然のコトながら、今までそんな自分のプライベートを語ったこともなかったし、先生も「は?何やってんだ?」ってきょとんとしていたけれど(笑)
そしてね、先生の言った一言が・・・。
「良い人と廻り合ったなぁ~」で。
私は、とっても「は?」って意味不明だったけれども。先生曰く、「きっと、相手は、細心の注意を払って傷つけずに済む言葉を選んだんだろう」って言ったのですよ。それを言った相手の方がもっと傷ついただろうって…。
「そして、お前はきっと。その相手を責めずに居ただろう?それが、お前の仏性だよ」って。
人間には、それぞれに、それぞれが持つ波があるそうです。そのうねりは人それぞれで、その波が重なる時が人が人と出会う時なのだと先生は言ってました。そして、その波がずれる時が、それこそ違和感を感じる時なのだと…。
その違和感を、具体的に「これ」って言えるものは、人間は認めることで許せるんじゃないか?って。その違和感が、違和感だけで言いようがないことも多々あって、それを感じる人のほうが、実は苦しいし無意識に重荷を背負わせているんだよって言われた時にですね…。
あ。私は。大切だと思っているいる人に、すごいものを背負わせてしまって、しかも、その言葉尻だけを捉えて、彼に言わせてしまったのだと気付きました。彼は「少し、時間が欲しい」と言ってくれたのです。でも、その時の私は、結論を急いだんですね。
一連の流れの中で、私は、随分と無意識に彼を傷つけていたのですよ。その時々の心のチクチクにすら気付かないで、自分を押し通した私が、「私、傷つきました」なんて言える筋合いないじゃない…。とちょっと愕然としましたねぇ…。
そんなことをお話してみてね…。
「今更、私はどうしたらいいんですか?」って聞いたのね。すっごくアホみたいな質問だったんだけどさぁ。
先生は。
「お前は、すごく純粋だから。そのパワーが全て自分に向かっている時、人は怖くなるかも知れない」って言ったのです。
これまた。「あ」って思いました。
私ね、指導教授に随分と言われて来たのですよ。「君は凪の時には、全てを受け止めて自分に吸収してしまう、波が立っている時には、うねりが大きすぎて全てを飲み込んでしまう」と。
「だからこそ、それが良い悪いじゃなく、個に向かわずに全てに向かうことで、その能力を最大限に発揮しなさい」って…。
そして、そしてね。
少し前、初めて会った人に、初めて会った場で「心の襞が沢山あって、どんな人なのか解らない雰囲気」って言われたのです。それを友人に話てみたら、「そんなうねりが沢山あるからこそ、それに魅かれるし、その襞に取り込まれてみたいって思う自分が居るよ」って言ってくれて。それは、とてもアリガタイ一言だったのだけれども…。
結局のところ、私という人間は、自分が思うよりも、かなり人に影響力を行使してしまうのかもしれません。その割に、見せない部分は完璧に隠しているから性質が悪いなぁ~って苦笑と共に自分の負を自覚しました…。
そして。そしてね。
最後に先生は言いました。
「これはね、悪いことじゃないよ」って。善い悪いは人間がその時々を判断するだけであって、今回、私に起こったことは、遠からず自分が自覚しなければいけないことだったんだろうって。
「それを自覚させてくれた相手が、善い人で良かったなぁ~」って一言に。彼に心底、感謝とゴメンナサイって思いましたね…。
でね。何で自分がココに来たのかって意味が少し解ったような気がしました。多分、きっと、事は随分と前から起こっていて、それが具体的に見えなかったり感じられなかっただけだったんだろうなぁ~って。それを具体的に見せて感じさせてくれたのが、彼であり、先生だったのだわって思うと…。
廻り合わせって不思議だなぁ~って単純に思いました。
で。本日。
課題のミルトン・メイヤロフ「ケアの本質」を採点しておりましてね。
みんなの書いたものに想いを馳せてみると、それは全てが自分への問いかけのように感じてね…。
「あるがままの相手を見つめる一方、私は、あるがままの自分をもみつめなければならない」
って、受容と自己覚知の難しさに。でも、この両方を正しく見ないことには両者の関係は発展のしようがなくてさ。相手と自分の価値観がまったく異なる場合、受け入れがたいって違和感を覚えたとしても、その違和感を覚えた自分を認識して、「なぜ受け入れがたい」って思ったのかを理解することが大切なんだよねぇ。って改めて気付きました。
受容する妨げになっているものは何なのかを理解することを、私は妨げてしまっていたのだと思います。だからこそ、自分の失敗から目をそらさずに、ちょっとばかりの勇気を持ちたいなぁ~と。
自分から学べない人間は、他人からも学べないのでしょう…。
そしてね。自分を信じるふりを自分を疑うことは、相手を信じているふりをして相手を疑っていることなんだって思いました。
自分を大切にするって、まずは、自分を信じなきゃね(笑)
相手のことだけを観すぎて敏感になっていて。当の自分を見失っていたのですね、私…。
「あ…。あたし、間違えてたね。ごめんね」ってことがたっくさん、それこそ沢山ありました。というか気付きました。
こんな醜態曝してごめんなさい。とばかりに、どうにか取り繕って講義に出掛け、「待ってたよぉ~」なんて嬉しい一言に、あぁ、ここには私って人間を待っててくれる人達がいるんだぁ~って思いつつ。
でも、あたし、先が見えない女ですから…。みたいな自嘲の念に、仕事をする上での自分は、一応認められているのかも知れないけれど、人としての自分は終わってるんだろぉ~なぁ…。なんて思ってました。
講義の最中なんてさ、私は一体、何を求めて何を与えて何を得ようとしてるのかしら?って、口だけが独りでおしゃべりする中、頭では違うことを考えてて。
終わってみてね、フト。今日は母校で講話が行われる日だなぁ~なんて思いだしたのですよ。多分、いつもならば疲れた~って帰宅するところが、何故だか足が向いてね。
そこでのお話が、まるで今の自分に向けて話されているようで…。ちょっとまて、自分、自分のことだけで精一杯で、周りをみていなかったんじゃないの?って思ったわけです。
で。その後に、そのお話をされた先生にね。
「わたし、この間、一緒に居ても先が見えないって振られたんです」って、話してみたのです。当然のコトながら、今までそんな自分のプライベートを語ったこともなかったし、先生も「は?何やってんだ?」ってきょとんとしていたけれど(笑)
そしてね、先生の言った一言が・・・。
「良い人と廻り合ったなぁ~」で。
私は、とっても「は?」って意味不明だったけれども。先生曰く、「きっと、相手は、細心の注意を払って傷つけずに済む言葉を選んだんだろう」って言ったのですよ。それを言った相手の方がもっと傷ついただろうって…。
「そして、お前はきっと。その相手を責めずに居ただろう?それが、お前の仏性だよ」って。
人間には、それぞれに、それぞれが持つ波があるそうです。そのうねりは人それぞれで、その波が重なる時が人が人と出会う時なのだと先生は言ってました。そして、その波がずれる時が、それこそ違和感を感じる時なのだと…。
その違和感を、具体的に「これ」って言えるものは、人間は認めることで許せるんじゃないか?って。その違和感が、違和感だけで言いようがないことも多々あって、それを感じる人のほうが、実は苦しいし無意識に重荷を背負わせているんだよって言われた時にですね…。
あ。私は。大切だと思っているいる人に、すごいものを背負わせてしまって、しかも、その言葉尻だけを捉えて、彼に言わせてしまったのだと気付きました。彼は「少し、時間が欲しい」と言ってくれたのです。でも、その時の私は、結論を急いだんですね。
一連の流れの中で、私は、随分と無意識に彼を傷つけていたのですよ。その時々の心のチクチクにすら気付かないで、自分を押し通した私が、「私、傷つきました」なんて言える筋合いないじゃない…。とちょっと愕然としましたねぇ…。
そんなことをお話してみてね…。
「今更、私はどうしたらいいんですか?」って聞いたのね。すっごくアホみたいな質問だったんだけどさぁ。
先生は。
「お前は、すごく純粋だから。そのパワーが全て自分に向かっている時、人は怖くなるかも知れない」って言ったのです。
これまた。「あ」って思いました。
私ね、指導教授に随分と言われて来たのですよ。「君は凪の時には、全てを受け止めて自分に吸収してしまう、波が立っている時には、うねりが大きすぎて全てを飲み込んでしまう」と。
「だからこそ、それが良い悪いじゃなく、個に向かわずに全てに向かうことで、その能力を最大限に発揮しなさい」って…。
そして、そしてね。
少し前、初めて会った人に、初めて会った場で「心の襞が沢山あって、どんな人なのか解らない雰囲気」って言われたのです。それを友人に話てみたら、「そんなうねりが沢山あるからこそ、それに魅かれるし、その襞に取り込まれてみたいって思う自分が居るよ」って言ってくれて。それは、とてもアリガタイ一言だったのだけれども…。
結局のところ、私という人間は、自分が思うよりも、かなり人に影響力を行使してしまうのかもしれません。その割に、見せない部分は完璧に隠しているから性質が悪いなぁ~って苦笑と共に自分の負を自覚しました…。
そして。そしてね。
最後に先生は言いました。
「これはね、悪いことじゃないよ」って。善い悪いは人間がその時々を判断するだけであって、今回、私に起こったことは、遠からず自分が自覚しなければいけないことだったんだろうって。
「それを自覚させてくれた相手が、善い人で良かったなぁ~」って一言に。彼に心底、感謝とゴメンナサイって思いましたね…。
でね。何で自分がココに来たのかって意味が少し解ったような気がしました。多分、きっと、事は随分と前から起こっていて、それが具体的に見えなかったり感じられなかっただけだったんだろうなぁ~って。それを具体的に見せて感じさせてくれたのが、彼であり、先生だったのだわって思うと…。
廻り合わせって不思議だなぁ~って単純に思いました。
で。本日。
課題のミルトン・メイヤロフ「ケアの本質」を採点しておりましてね。
みんなの書いたものに想いを馳せてみると、それは全てが自分への問いかけのように感じてね…。
「あるがままの相手を見つめる一方、私は、あるがままの自分をもみつめなければならない」
って、受容と自己覚知の難しさに。でも、この両方を正しく見ないことには両者の関係は発展のしようがなくてさ。相手と自分の価値観がまったく異なる場合、受け入れがたいって違和感を覚えたとしても、その違和感を覚えた自分を認識して、「なぜ受け入れがたい」って思ったのかを理解することが大切なんだよねぇ。って改めて気付きました。
受容する妨げになっているものは何なのかを理解することを、私は妨げてしまっていたのだと思います。だからこそ、自分の失敗から目をそらさずに、ちょっとばかりの勇気を持ちたいなぁ~と。
自分から学べない人間は、他人からも学べないのでしょう…。
そしてね。自分を信じるふりを自分を疑うことは、相手を信じているふりをして相手を疑っていることなんだって思いました。
自分を大切にするって、まずは、自分を信じなきゃね(笑)
相手のことだけを観すぎて敏感になっていて。当の自分を見失っていたのですね、私…。