村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

447.平成30年年頭「せんせーいは本当に先生ではない」異文化体験こそ大事

2018-01-12 08:39:59 | 人生
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ

出来た・出来ます
平成30年年頭「せんせーいは本当に先生ではない」

多くの変化を体験して来なかった人と多く体験してきた人では大きな差がある
それが、異文化体験をしてきた75歳の私の今の実感である。
転職も引っ越しも楽ではなかった、異文化・異体験は生易しいものではない
変化は、不安で面倒でつらいが、私は何故か、あれこれ変化を続けてきた
東京の浅草生れで育ちが今、滋賀の田舎に一人暮らしている、我が夢の跡だ
ある時は社会から見放され、一人ぽっちで落ち込むようなこともあった
75歳になるまで、絶え間なく、何だかんだと変わってきた自分である

友人知人と比べて、現在、唯一私が良かったことは、異文化体験の多さだ
通常引っ越しや転職などの変化はあまりしないほうが楽と思われている
東京から大阪更に京都に移り住んだことは、物の考え方を大きく変えてきたし
松下電器から零細企業・ベンチャー企業・コンサルタント会社への転職も同様
人生とは無難を求める事ではなく、険しい道を切り開き、歩み続けることなのだ

・長く東京だけに住んできた友人知人と久しぶりで話すと違和感を覚えてしまう
・松下電器を10年で辞めた私には、定年まで勤め続けた人に違和感を覚える
・都会だけで暮し続けてきた人と話すと違和感を覚えてしまう
・大企業だけで長年勤めてきた人にすごい違和感を覚えてしまう

相手の人に何も罪はないが、私は、大きな違和感を感じてしまうのである
違和感によってその人との会話は、空回りする。ほとんど共有点が見いだせない

引っ越しや転職以外にも、次のような、いろいろな体験をしてきた
物書き・大工・資産運用・運動・会話・付き合い・家事・山暮らし・庭造りの体験
否応なしに異文化体験をすることになるものを選び、積極果敢に体験すべきである

大工も好きなのだが当然、大工が出来ない人とは共有点が全く見いだせない
住む環境を日々自分で自由に変えられるので大工はすごい武器となっている
75歳の今も毎日大工をしている私、道具も揃っており何の苦痛も感じない
大半の人は家を変えようとしても出来ない、仕方なく家に自分を合わせている
自分で出来ない、しないが当り前になっているが、人生に大きなマイナス
日本人は大工を楽しみや趣味にしない、私にしてみると、何とももったいない
グルメとかゴルフとかゲームとかは今の私には大した興味や価値感も持たない
そんなものは大した異文化体験にはならない。趣味を一度反省すべきなのだ
もっと異文化・異環境・異質なもの・異郷に入り込むことに楽しみを持つべきだ

生れながら東京だけしか知らない人は、考えの幅が極めて狭く、深くもない
その東京人は日本の中心に住む最先端の人と思っているらしい
日本に住むが、正確には東京ぺー(田舎者)でしかない、真の日本人でない
日本人だったら少なくとも東京だけでなく、せめて関西くらいには住まないと
関西に移り住んだ私には東京人=日本人だなどと、全く思わなくなった
東京の同窓会などに出ても、東京ぺーとの会話にさほど興味も価値も感じない

私は会話好きなので、いつもどんな人とも楽しく話すのではあるが
経験の幅が狭い人は手に負えない、会話も、何となく限界を感じてしまう
特に上目線で、あれこれ言ってくる人は、「あーこの人の人生は?いったい?」
と哀れささえ感じてしまう。そういう人は苦手で厄介、子供のほうがましなくらい
本人はマジで自分が常識人・良識人・知識人と思い込んでいるから面倒だ

話は脱線するが、
人々は美人や有名人に凄い関心があり、追かけする人もいるとか
私には全く関心はない、何故そんなくだらんことに価値を見出すのだろう?
私が万一そういう人と出会えば、見るだけで、それ以上には興味がない
なーんでか?
美人や有名人も、どちらも私にとっては、価値0の存在でしかない
そういう人は意外に世間が狭く我儘で付き合い難いし、深みもない
世の中にはそういう者を必死に追っかけ回す暇な者がいる
有名だろうと美しかろうと、自分に関係ない価値のない者に過ぎない

もし付き合うことになったとしても、適当にあしらっておく程度で
間違っても「嬉しいー」とか「握手して下さい」なんて思うことはない
「罪を憎み人を憎まず」のように「事を観て人を観ない」
例えば野球の試合も
プレーを楽しむが、そのプレヤーが誰かとか格別尊敬したりヒイキはしない
人をヒイキするということは、人を毛嫌いすることにも通じる

人は己自身を磨くより外見・肩書を磨き、裕福を見せたがるが空しい
汚くて良くはないが、人は少しでも素晴らしいように見せたがる
周辺を見回すと、多くの嘘誤魔化しで溢れているから無理もないが
美人や有名人は嘘誤魔化しの最たるものだから、付き合わない
長年嘘誤魔化しをついている人には、それが当たり前になってしまう
私が強調したいのは、つらくても、不安でも
溜まりに溜まった固定観念を打ち破るために、多くの異文化体験をすること

転職や引っ越しなど、多くの異なった体験を重ねる人は案外少ない
日本でも、海外留学を含め異文化の体験をするシステムや風土が欲しい
 ・都会の子は田舎や山に暮らさせる
 ・東京の子は関西に暮らさせる
 ・大企業の人を零細企業やベンチャー企業で働かせる
・・・・・・

あまりよい例ではなくて誠に恐縮だが、先生には共通点がある
話していて、何となく違和感を感じる人が、その人が先生である場合が多い
 (誠にすみません。例として挙げた私が悪いので気を悪くしないで下さい)
ずーっと学校の教師をしてきた人は正直、社会が狭く先生気分が抜けない
人に教えるとか模範的な言動をすることが身についてしまっている
先生、先生と言われて何十年過ごしてきた副作用なのだ
「阿保・能無し」みたいに厳しく扱われ続けて来た私達とは大違いなのだ

卒業した一流大学教授も、世間知らず・社会知らずで、尊敬できなかった
上に立ち続けてきた人は、上目線が抜けない
「私は正しい」「私が教えてやる」の意識が心の底にある
社会の荒波に揉まれてきた社会人には「子供みたいな事言っている」になる
残念ながら考えが狭く浅く、理屈ぽく、意外にいい加減で頑固でだらしない
要するに苦しみ悩み、物事を深く考えて来なかったようなのだ
一見真面目な感じなのだが、実は真面目ではない、浅い・狭いだけ
言ったことを少しでも否定すると、強く反論し、気を悪くする

話すほど、その人の良さがにじみ出てくる人は素晴らしいが
世間の多くの人は例外なく、話すほど、だんだん面倒臭くなる
人は自分が一番可愛い、自分が褒め讃えられることを期待している
そういう我がままを表に出しすぎると、鬱陶しくなり、会話の場はしらける
日本人であれば、そういう欲望くらい抑えなければ、大人とは言えない
そんな程度のことが出来ない人は単なるお坊ちゃん・餓鬼んちょなのだ

有名映画俳優や歌手は切符の買い方やバスの乗り方を知らないという
先生=学校教師・大学教授・政治家・師匠・各種教育機関の教師・医者
ちやほや、おだてられるのは心地よいが、それに慣れた人は駄目になる
華々しい人生を送ってきたように思っているが、何とも人間的にはお粗末
親も子供が生まれると先生的にならざるを得ないが、特に第一子は不幸だ
上司や先輩も要注意、上に立つ者は謙虚で一生、研鑽や修養が大事だ

上司は、頭の低い、適度に謙虚な人のほうが良いし、部下から慕われる
才気ほとばしり四六時中文句ばかりの迷惑な上司がいませんか?
親も同様であって、必しも立派な親から立派な子供が育つとは限らない

私は最近思うことあって、子供や若い人との接し方を大きく変えてきた
私も75歳、昔ならあの世にいる年齢、そんな私が自己主張してどうなるのだ
娘や息子に対して子供の発言を全て肯定的に受入れ返事を返している
ところが歳とると、人の発言に頓珍漢な解説したり・ケチをつける人が多い
子供が大きくなったら、子供の意見をいちいち否定せず、褒めてやること

物事に対して何かと上目線・批判的な人を私は”せんせーい”と称している
せんせーい的な人は一見立派そうで、尊敬されているが、私は距離置く
日本の望ましい指導層は、もっと幅広く体験したり自己修養を積むべきだ
最近のせんせーいは、経験が狭く・堅物・頑固・面白みない・煩い人が多い

せんせーいタイプの人とは学校教師だけではなく:
 学校教師・医者・評論家・政治家・役人・コンサルタント・芸術家・重役
自分が、せんせーいタイプと自覚したならば反省し矯正しないといけない
 自分の過去を思い切って洗い直し、断捨離して、ミニ悟りを開いて欲しい

※参考まで、ミニ悟りの結果、人はどうなるかを説明すると:
 怒らない・自己主張しない・差別しない・謙虚・諦めない・整理整頓


昔は三世代同居でかつ子供も多く近所さんや親せきなど親以外にも
いろいろ面倒見てくれる人が周囲に沢山いたが、現代は親しかいない
親は、親としての経験不足、虐待も増え、子供にとっては迷惑な話だ
現代は親は、レベルが子供とさほど差がない、親が親でなくなっている
都会で便利な暮らしにどっぷりつかり、自分で何かをやることが少ない
棚一つ・簡単な電気の修理・片づけくらいのことすらきちんと出来ない

長い人生で多くの異文化を体験することは、意識を根底から変える
厳しい異文化体験を多く積むことは、修行・修養・修練に近い
在家の一般人がミニ悟りが出来る唯一の修養方便だと私は強く思う
過去や固定観念を、都度、何度も何度も捨てないといけない


禅などで言うところの、無・空や破・断・離・除・断捨離みたいなもので
本心から謙虚になり、一生「自分の至らなさ」と真剣に向き合うようになる
禅などの修行をしない一般人はせめて多くの環境変化を体験すべきだ
そうすることで固定観念を捨て、より広い心を取り戻すことが出来るのだ

先生は子供や生徒相手で常に指導的に振舞い・発言する癖が抜けない
元々、先生になるくらいだから頭はそんなに悪くはなく、やや頭でっかち
はっきり言わしてもらうと”口から出まかせ”の先生癖も抜けない
自分はきちんとしている、正しいと安易に思い込み過ぎている
自分以外は、生徒・教えてやる対象に見えてしまうので、
そういう付き合い方しか出来なくなっている
長いこと先生をやっていれば、嫌でも、誰でもそうなるのは当り前なのだ

せんせーいに限らず、いろいろな仕事で
人は皆過去の経歴や役職や経験を良かれ悪しかれ引きづってしまう
私も55~70歳、経営コンサルタントで先生と呼ばれた時期があり、
偉くなった錯覚したが、10年間だけだったので危くセーフというところ

世界各地で起きている紛争も、その地域の閉鎖性が原因なのだ
その閉鎖性のせいで「自分は正しい」と思い込み他を安易に排除する
トランプや金正恩なんかもその典型、料簡が狭過ぎ大した人間ではない
すぐに怒る・利己的・自己中心・破廉恥・排他的・料簡が狭い・・・
所謂、せんせーい的なタイプの人間で、世界に大きな害を及ぼしかねない
自分の生きてきた環境に基づく固定観念が人の思考を束縛・抑制する
すなわち人の心には固定観念が住み着くのだが、その狭い固定観念が
悪さをする、そして感じの悪い人・頑固な人・鬱陶しい人になってしまう

歳を重ね、いろいろ体験して初めて人間の心の狭さを実感する
しかし人間は、自分の心の狭さを実感できていないものなのだ
私からは「何とも可哀そう」としか思えず、だからと何もしてあげられない
言うこと聞かない子供に対するのと同様、対処のしようがなく、意味もない
何だかんだ、私が言えば油に火を注ぐようなもので、喧嘩になるだけ
クレーマーなんてのも困った人の最たるもので、そんな人が増えている
「自分は正しい」と思い込んでいるが、「最も嘘誤魔化しの人」なのだ
人というのは嘘誤魔化しの固まりなのだが、そうでないと思い込んでいる

元先生だろうと、元重役だろうと、元政治家・学者であろうと、謙虚であり、
「自分は、未熟な駄目人間である」と生涯自覚すべきなのであるが
世の中に謙虚な人は少ない。謙虚に見えて、中身は謙虚さのかけらもない
長いこと、立場上、上に立ち、教え続けてきた人の末路だ

最近女が強くなったと言うが、単なる思い上がり、謙虚さの喪失になりかねない
同権だからと横柄になってはいけない、同権とは思い上がることではない
男は女の人と心の底から真摯に向き合えない、女性は”せんせーい”なのだ
女が男より長生きなのは、せんせーい的な表れの一つだと私は思っている
男女同権と言っても、男も女も、謙虚さは人にとっての大事な資質要件だ

日本人は本来謙虚だったのだが、本心から謙虚で立派な人は少なくなった
謙虚でない人の特徴は、経験の幅の狭い人で、いわゆるお坊ちゃん
お坊っちゃんは感じが悪く、扱い難い人なのだが、本人は気づかない

”せんせーい”は、社会でも尊敬の対象のように思われているが
実態は、そうではない、お坊ちゃん、手に負えない子供に近い
はしゃぐと思うと、泣くし、笑い、怒るし、駄々こねる・・・・
立派な大人は、常に平常心で、喜怒哀楽を露骨に出すことはない
学校の先生に限らず、何らかのものを長年上に立ってきた人の癖
長男タイプとかお坊ちゃんタイプというのは、なかなか直らない
ある意味,本人にとっては、可哀そうな話、困った話、面倒な話なのだ

昔の私は、そういう困った人と争おうとしたが、最近は争う気もしない
世間の狭さ、経験の狭さ、自己中心が悪いのでその人が悪いのではない
禅の修行は、まず自分を全否定すること・空から始まる
先生は、先生様のような扱いで日々暮すから、嫌でも天狗になってしまう
  「せんせーいと言われるほどの馬鹿でない」

禅僧を目指すような高いレベルの人でもなかなか悟れず一生かかる
ましてや中途半端なせんせーいお坊ちゃんは手に負えない
我儘で、周囲と円満でない人は、歳とって認知症になり易いという
多くの環境変化を体験した人も禅修行を完遂した人も少なくなっている
そういう社会だから、新聞やニュースで
町のあちこちで争い事や虐待が絶えないので、注意しなければならない

世の中には意外や意外、揉め事が好きな人が多い、それが”せんせーい”
”せんせーい”は「自分が正しい」と思い込んでおり、何かと周囲と揉める
強い自己主張・自己中心・頑固・引きこもりは認知症への近道
せんせーいは、セクハラ・盗撮をはじめとんでもない犯罪も増えている
自分は”せんせーい”的になっていないか反省してみるべきですね
そもそも争い自体意味も価値もないのだが、つまらん争いはしないこと
大事なことは謙虚さと禅や古人の教えを学び、我が人生を深めること

私は物忘れがひどい年頃だが、にも拘らず「絶対に認知症にはならない」
と自信を持っているが、私のその根拠は、毎日積み重ねてきた所業にある
根拠:
身体を動かして働く・誰とも会話・楽しい人付き合い・物書き・健康な暮らし・
資産運用・運動・円満・謙虚・家事・趣味・大工・庭造り・絵描き・読書・勉強

参考:物知りの物知らず
 ところで”物知りの人”は何でも知っていると思われがちだが
 実は、”物知りの人”ほど物知らずなのだ
 物知りの人は頭に辞書を持っているようなものであって、
 「辞書に載っていないこと」は、
 分からないし、経験が欠如しているのが致命的な欠陥なのだ
 だから、知っていたとしても、いざやってみろと言うと出来ない場合が多い
 知ってはいるが出来ないのだ、融通が効かない、自由円満に振る舞えない
 ところが辞書がない人は、深い長年の経験から答えを出す事が多いので
 所謂、物知りの人が知らないことまで深く分かっている

意外なことに
 物知りは物知りにあらず
 美人は美人にあらず
 金持ちは金持ちにあらず
 先生は先生にあらず
 日本人は日本人にあらず

 ・・・・・・・

近所の人が丸太で庭のフェンスを作りたいと言うので半年前に山で
ヒノキを切り、乾かし、いざ組み立てると角材に比べてすごく難しい
角材だったら2日もあればできるが丸太でやったので10日はかかった
あれこれ苦しみ悩み、やや不出来だが、
なお翌日一度ばらし、修正し再度組み立てたので一日余分にかかってしまった
更に翌朝全てが完成、出来栄えは、丸太構造物としてはよく出来たほうだ
大工なども機械化が進み、プロの大工でなくても出来るようになった
一日中パソコンやテレビの前で座りっぱなしで暮すライフスタイルは???
良いのか悪いのか私にも分からん・・・


手作りモグラよけ風車も作りましたX、やや失敗作で改善しなくては
こんなものでも、朝考えて夜には出来上がる私であります
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 446.平成30年年頭「腰痛問... | トップ | 448.人生=自分+環境、自分... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人生」カテゴリの最新記事