仏教という人がつくった教え、人そのものが仏であるという考え方は、分からないながらも受け入れられるようになってきた。
ところが、寺院などにある仏像を、これがありがたい仏さまですと言われると、途端に、いや、いや、これは像でしょ、と分かりかけた仏さまのイメージが消えてしまう。
なぜ仏像がありがたい仏さまなのかという疑問が、『暮らしの中の仏教語』というメルマガの第574話「内海 外海 九山八海」を読んで、腑に落ちることとなった。
人は死んだら生まれ変わるとか、死後の世界とかについては、いまだ、それはないでしょ、という気持ちは変わらない。
死後に生きられるとしたら、今生きている人の記憶の中に残した思いしかないように思う。
死後に生きられるとしたら、今生きている人の記憶の中に残した思いしかないように思う。
それでも、私という個人が持っている生きる力、エネルギーは、私の死と共にこの世のどこかで、私とは別に再生されるのではないかという気はしている。
世界は、一定の大きなエネルギーでできていて、一人の死は、新しい生命を生む。そんなとらえ方ならば、今の俗っぽい私にもなんとか受け入れられる。
メルマガによると、寺院の祭壇は、虚空にある須弥世界というものをイメージして作られているらしい。
須弥世界の中心は、仏さまという人智を超えたエネルギーの中心、須弥山。
寺院では、本堂正面に須弥壇を設け、そこに人智を超えたエネルギーの象徴としての偶像をおき、その仏像にというのではなく、須弥世界全体をイメージ、体感して、その大きな世界で、自分と向き合う。だから、自分の鏡として寺院には、仏像が必要なんだ。
そう考えると、仏像のありがたさを自分なりに抵抗なく受け入れらえた。
そう考えると、仏像のありがたさを自分なりに抵抗なく受け入れらえた。
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<今日は何の日>
今日は、世界宇宙飛行の日です。
今日は、世界宇宙飛行の日です。
1961(昭和36)年、旧ソ連の有人宇宙船ボストーク1号での、ガガーリン少佐「地球は青かった」は有名ですね。
その後、半世紀。今日ではISSが、普通に、1周約90分というスピードで地球を周っている時代になりました。
その後、半世紀。今日ではISSが、普通に、1周約90分というスピードで地球を周っている時代になりました。
今でも、地球は青いのかしら?
汚れたり、砂漠化が進んで、茶色くなっていたりして。