ここで二項対立的に「めんこい」モデルか規則モデル、どちらが正しいかということではない。もちろん馬鹿馬鹿しい規則があるので、それは省いておこう。
まず人間関係で先立つのが「めんこい」、愛情、共感であり、その後に規則が問われるというプロセスであればいいのである。僕の担任の先生は遅刻した子供をまずは「めんこい」としているので、怒ることはない。次に遅刻を注意すればいいのであって、規則を完全無視する必要がない。
ただ先生は「子供が当たり前のように学校にきていること自体がすごいこと」という認識をもっているので、怒るというわけでもなかった。そもそも生徒自身も遅刻したことに申し訳ない気持ちがあるからこそ、「遅刻しちゃった」と子供らしい言葉と態度を見せたのである。
ところが規則モデルだけが人間関係を統御する力学になっていた場合、子供は愛情や共感とは無関係に規則のみを絶対視する。だから子供は愛情や共感を知らず、規則にのみその意識が向かう。「めんこい」が土台となっている関係性と「めんこい」が獲得されていない中で構築されている土台、つまり、規則が土台となっている関係性は全く異なっている。
実際の現実はより複雑であろう。その意味で、あくまでモデルとして抽出した考え方ではある。先ほど馬鹿馬鹿しい規則の場合を省くといったが、実はそれこそ硬直した規則絶対主義になってしまう。
よく聞くであろう。ブラック校則を。もともと赤みを帯びた髪の毛の女の子を校則違反であるとして、黒髪にしなければならないというわけのわからない話題を聞いたことがあると思う。その女の子への共感力があれば、黒髪にしなければならないことがバカバカしいことはあまりに当たり前だ。共感力、つまり「めんこい」モデルからすれば、女の子の心を想像することができる。ところが、規則モデルでは女の子の心を想像する力が後退する。規則を絶対視していれば、彼女の事情や心を見る事もなしに、規則のみを適応する。そこに人間は存在しない。
人間は間柄を生きる者である。哲学者の和辻哲郎の言葉である。間柄を言い換えれば関係性とでも言える。人間は関係性に生きる者であり、つながり合いながら生きるのである。その関係性が愛情、共感、「めんこい」であるのか、それらを無視し、あるいは気づかず、規則になるのか、あまりに大きな違いである。
人と人のつながりは愛情や共感、それとも規則?言わずもがなである。
僕は幸運であった。僕を見てくれる当時の担任の先生は僕を「めんこい」とした関係性を土台として、先生と生徒の関係性が構築された。だから、東大の安富先生が言うような教育に殺されることはなかった。そう思う。
今回帰省して、母親とも会って時間を過ごした。母親は昔の人だ。だから、しがらみに左右されて生きていることを感じた。しがらみから逃れられないのだ。これは日本的な規則モデルなのだろう。それに僕はイライラしたりもした。ただ僕が心不全で倒れたことを伝えると、静かに涙を流した。それは規則モデルではないのは明らかだ。
母親はピザが好きなので、一緒に食べた。ピザが好きって!