年末、故郷の北海道に帰った。
理由は時間ができたからではある。もちろんそれだけではない。この秋病気をして母親には伝えてはいなかったので、直接伝えておこうと思ったからだ。電話で伝えるより、目の前に元気な姿の息子がいれば、少しは心配度も少なくなるかと考えた。
もう1つ理由がある。小学校3〜4年生の時の担任の先生と会うためである。おそらく43年ぶりである。ここ数年手紙でのやり取りはしていた。先生からは帰省したら連絡してほしいとは伝えられていた。
ところがだ、なかなか帰省することもなかったのだが、それ以上に気恥ずかしくて、少し逃げていたのだ。本当に恥ずかしい。1つには、ただ会うのが照れ臭い。2つ目にはそういう大人になれない自分が恥ずかしいのだ。
ただこの秋、心不全を患い、先生がすでにご高齢であること以上に、こっちだってどうなるかわからない身であると実感し、会おうと思ったのだ。
正直に言う。心の底から会いたいと思っていたのが本当のところだ。
だというのに、大人になれないでいる気恥ずかしさが、そういう思いを押し隠し、そのうち会えるだろうと何となく思っていたのだ。病気して、何をするべきことかがわかるようになったのかもしれないとも少しばかり考えることもある。
本当にいい先生であったし、そう強く感じる僕なりの事情もあるのだが、それは控えて、お会いして忘れられない話があったので、それを綴ろうと思う。当時の同級生も数人来た。嬉しいことだ。
先生が思い出話の1つとして、あるいは今の学校に対する違和感も含めてなのだが、こんな話をしてくれた。
小学校3年生の女の子が遅刻してきた。教室のドアを開けて、彼女は次のように言ったという。
「先生、寝坊して遅刻しちゃった」
彼女の言葉態度を受けた先生はこう返したという。
「お前は面白いなあ、じゃあ座ってね」
女の子はそのまま席について、普通に授業が再開された。
たった、これだけの話である。
先生は彼女が教室に入ってきて、一言発したときに、「めんこいなあ」と感じたという。「めんこい」というのは北海道弁でかわいいという程度の意味である。目に入れても痛くないという感じだろうか。
彼女も何のてらいもなく、反省がないというわけではないだろうが、恐れることもなく、教室に、先生の元にやってきたのだ。どうして、恐れを抱くことがないかというと、おそらく彼女は先生が好きだからである。そして、先生も「めんこい」つまり子供が大好きなのだ。相思相愛である(笑)
先生は次のような印象的なことを僕たちに告げた。
「そもそもこんな小さい子が当たり前のように毎日学校に来るだけでも、大変なことだよ」
そうなのだ。学校に当たり前のように朝早い時間に定刻に通学していること自体が、子供達にとって大変なことなのだ。僕たちはそういう子供のあり様を忘れている。学校に来るだけで、凄いことをやっていると考えると、遅刻ごときで何を叱るべきことだというのか。
遅刻は規則を破っている。だから僕たちは怒る。そして、規則を守り、規則で生きて行く。そうすると、例えばどこかで規則を破った人間を発見すると、ネットでそういう人間をバッシングする。規則を守ることがそのまま正義であるからだ。ただ、その正義から「めんこい」という思いは失われている。
「めんこい」より規則を守ったか破ったかで人を判断してしまう、こんな小さな子供にさえ適応してしまうのが僕たちの社会のあり様な気がする。それが「よく生きる」ことだろうか?そんなことを考えていた。
(つづく)