僕たちは遅刻したものを叱責する。子供であっても同様である。学校の先生が遅刻した子供を怒るのはすぐ頭に浮かぶ光景にすぎないように思う。繰り返すが、規則を破ったからである。
当時の先生の話を聞いていて、僕が思い浮かべていたのは東京大学の安富歩さんがよく言う「学校は子供を殺す場所」だから「子供を助けなければならない」という言葉である。昨年の参院選で令和新撰組から立候補したので、覚えている方も多いのではないかと思う。
僕自身も学校というのは子供を奴隷に、あるいは機械のような存在にしてしまう近代的装置なのではないかと考えている。それは近代化における教育の役割、同じことだが、学校教育の国家的な位置付けというシステム的な帰結という問題である。そこで利用されるのは道徳であるとか、規則といった我々の精神や身体を規制し、方向付ける権力である。
ここで僕が先生から聞いた話を元に、2つのモデルを取り出すことができる。1つは「めんこい」モデルである。もう1つは規則モデルである。教師と生徒の関係を決定づけるのがこの2つのモデルから導かれる力学である。
僕の先生は「めんこい」モデルなので、生徒への愛情を元にその関係性を作り上げる。生徒の方も同様愛情での関係性に包摂されている。このように遅刻した場合、仮に遅刻を怒るとしても、その怒り、あるいはその怒りの元の規則以前に愛情がある。そうすると、その怒りは愛情に包摂された怒りにすぎず、そもそも全的な怒りにはなり得ない。あるいは怒りは起こりようがない。
ところが規則モデルでは愛情がそもそも後退してしまう。人によっては「めんこい」との感情(共感と言い換えてもいい)を持たず、愛情からの行動にはなり得ない。では、何をもって行動するのか。規則である。
「遅刻はいけない」との規則によってのみ、教員と生徒の関係性が決定づく。当然、禁止を破ったのだから、その破った生徒が悪いことになる。規則は守る/破る、正しい/悪いとの二項対立的な短絡した世界観を用意している。ゆえに、生徒を怒ることは正しい行為になってしまう。規則のみが世界を支配しているのだ。
このような世界観の中のみで生きるとすれば、子供達は規則を守るということのみを行動の源泉としなければならない。彼らは規則を守って生きて行く。規則を守ることは良きことのような見かけを作るが、ここに生徒自らの意思決定は存在しない。当たり前だ。事前に決定された規則がすなわち行動だからだ。つまり規則というコード化によって人間が行動するのだから、コード化された機械とそのじつ変わりなくなってしまう。自由の喪失である。
そして、教師の役割とは規則の管理者にすぎなくなる。つまり、教育とは規則を守る人間を作り出すことになる。この時、規則というのはルールや道徳、規範意識など幅広い領域にまで拡張される。教師は規則を徹底化する。それが良い教師になる。意識的か、無意識的かを問う必要はない。教師は子供を見る必要はない。規則を守るかどうかだけを見るのであって、子供自体は見ない。子供の笑顔は見ない。規則に無関係だから。
いつの間にか大人は子供を見ていない。子供を殺したのだ。なぜなら「めんこい」、愛情、共感はそこにないのだから。