2021年6月7日 読売新聞「編集手帳」
絵にしたいと感じた情景はあるのでしょうか?
ダンサーの田中泯さんが質問を受けた。
描くのではなく体の中に記憶として残したい、
と答え、
言葉を継いだ。
「大きな木を見るのが好きです」
映画「HOKUSAI」の封切りに合わせたテレビのインタビューだった。
田中さんは老年期の葛飾北斎を演じている。
さっそく映画館に行った。
全身で喜びを表す北斎がスクリーンに映し出された。
一瞬、
たしかに老木のようにも見えた。
年齢が刻まれた皮膚から、
生命力がほとばしる。
帰宅後、
ものの本で植物について復習した。
動物と違い、
食物を求めて移動することはしない。
その生きる場所で、
葉から二酸化炭素を、
根から水を取り込む。
光のエネルギーを使って栄養を作り出す。
長田弘さんは「空と土のあいだで」という詩の中で〈白い雲〉と〈黒い樹〉に対話させている。
雲が問う。
なぜ自由に旅をしようとしないのか。
樹は答える。
〈三百年、
わたしはここに立っている。
そうやって、
わたしは時間を旅してきた。〉
手元の手帳を見る。
旅行の予定はまだ書き込めない。
今は詩をかみしめて暮らそう。