評価点:77点/2004年/アメリカ
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
極限までに純化された想い。
森に囲まれた村。
その村では赤を忌み、森に入るときには黄色い衣を身に着ける掟があった。
もし掟を破ると「彼ら」がやってくるという。
ルシアス・ハント(ホアキン・フェニックス)は、大人たちがしきりに教えるその掟に疑問を持ち始めていた。
ルシアスは、「町」で薬を手に入れるため、森に入ろうとする。
それが「彼ら」に気づかれたのか、翌日「彼ら」が村にやってきて、赤い警告をつけていった。
村人たちは、ますます恐怖におののくが、ルシアスはさらに外への想いを強くする…
「シックス・センス」のM・ナイト・シャマラン最新作(当時)である。
もう説明する必要はないかもしれないが、どんでん返しが有名なシャマラン。
本作も、ラストにオチが隠されている。
しかし、それを目当てで観にいくと肩透かしを喰らうだろう。
本作は、それほど衝撃的なオチはない。
純粋に一本の映画としてみれば、それなりに楽しめるはずである。
以下は、監督の意向に反して激しくネタバレしている。
観ていない方は、読まないで欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
本作は「愛がやばかったです」というCMにあるような「ラブ・ストーリー」ではないような気がする。
恋愛ではなく、愛のストーリーであることは確かだが、日本語のカタカナでの「ラブ・ストーリー」ではないだろう。
テーマはパンフレットにも書いてあったが、「無垢 = イノセンス」である。
村は掟によって縛られている。
森に囲まれた村の掟は、森に入ってはいけない、というもの。
要するに、人々は外界から完全に遮断されたところで生きている。
「町」を噂する者はいるが、実際に町に行った者は誰一人いない。
「昔」から、今までその伝統は守られ続けている。
冒頭でダニエル・ニコルソンという人物の墓が映し出される。
これが非常に上手いのだが、ここには「1889-1897」と掘り込まれている。
棺というにはあまりにも小さい棺の主は、僅か8歳で死んでしまった事が分かるのである。
そして、「現在」が1897年であることもわかるのである。
しかし、ここで気になるのは、この村という空間の異常性である。
物語が展開するに従ってその疑問は大きくなる。
年長者と呼ばれる村の中心的人物たち以外、誰も村から出たことのない閉ざされた世界は、歴史性も、社会性も閉ざされているのである。
自給自足という極めて堅実な生活を営んでいるにしても、完全に閉ざされているという事実は、大きな疑問になるのである。
この密室の村にやがて転機が訪れる。
それは、ルシアスとアイヴィーをめぐる恋模様である。
アイヴィーの姉であるキティがルシアスにプロポーズする。
しかし、ルシアスが愛していたのはアイヴィーであり、ルシアスはそのプロポーズを断るしかない。
悲しみに暮れるキティもやがて別の男を見つけ結婚する。
やがてアイヴィーは、ルシアスの気持に気づく。
当然、アイヴィーとルシアス二人は結婚することになる。
問題はこれだけでは収まらなかった。
アイヴィーを愛していたのは、ルシアスだけではなく、
知的障害のあるノア(エイドリアン・ブロディ)も同じだったのである。
ノアはその知的障害のため、感情を抑えることができない。
二人の結婚を知ったノアは、ナイフでルシアスを刺してしまう。
(ちなみに、ルシアスは鍛冶屋であることが後に意味を持つ事になる)
アイヴィーはルシアスを救うため、町へ行く許可をもらえるよう訴える。
そしてアイヴィーは村の掟の真実を知るのである。
ネタバレ覚悟だから言ってしまおう。
掟は年長者たちが仕組んだ「茶番」だったのである。
年長者たちは、同じカウンセリングセンターでカウンセリングを受けていた。
理由は愛する人を失ったから。
彼らは悲しみを克服するため、完全に閉ざされた空間を望んだ。
犯罪に巻き込まれて殺されることのないような、完璧な楽園を創造した。
しかし、その完璧さは外との交渉を一切持たないことで保たれる。
そこで、村にヒステリックとも言えるほど、完璧な掟を作ったのである。
彼らはその悲しみを「黒い箱」という形で残す。
この黒い箱には2つの意味がある。
1つは、悲しみを忘れてはならないという村の意味を確認させる装置として。
もう1つは、この村そのものが、黒い箱であるということだ。
村人にばれてしまうリスクの高い黒い箱を、家に大事においているのは、年長者たちが掟の意味を忘れないようにするためだ。
年長者にとって、赤は禁忌を表わさない。
この黒い箱こそが、掟の禁忌そのものなのである。
そして、黒い箱は、同時に村そのものにあたる。
村は町から隔絶される事で楽園の楽園性ともいうべき機能を保っている。
それは、村の外を禁忌として見立てているように思える。
しかし、実は村を現実世界から切り離す=黒い箱に入れてしまうことによって、楽園性を保っていたのである。
だから、アイヴィーが村を出るとき、箱も開けられる。
この二つはパラレルな関係になっているのである。
しかし、テーマを考えるうえで重要なのは、このオチではない。
重要なのは、この作られた掟が破られるのが、掟を作ったときと全く同じ「想い」であるということだ。
テーマは「無垢」である。
掟を作った理由は、非常に単純明快だ。
愛する人を失うことのない世界を創造したかったのである。
犯罪から隔絶された世界にいたかった、ただそれだけなのである。
それは異常なほど無垢な願いである。
この掟が破られたのも、同じ無垢な願いだ。
ルシアスを刺してしまったノアは、アイヴィーがただ好きなだけだった。
薬を求めたアイヴィーは、ルシアスがただ好きなだけだ。
しかも二人は、ともに障害を持っている。
知的障害で、感情をコントロールできない無垢さ。
そして、眼が見えないという無垢さ。
アイヴィーは、人の「色」は見えていると言った。
アイヴィーの盲目とは、目的(人間)以外見えないという無垢さを持っている。
町へ向うのを拒めなかった理由(「許した」のではない)は、アイヴィーが全く同じ無垢さを持っていたからである。
無垢によって無垢が壊されてしまったのである。
自己矛盾の掟であったことを、突きつけた格好だ。
これは、ノアが、ルシアスの作ったナイフで、ルシアスを刺す行為に似ている。
ルシアスは鍛冶屋であり、恐らくノアのナイフを作ったのは、ルシアスであろう。
ここにも、無垢の自己矛盾が象徴されている。
物語のラストで、掟を守り続けようとする年長者たちの姿が映される。
しかし、やがてこの村は崩壊するだろう。
それは、薬を届けてくれたケヴィンという警備兵にみることができる。
彼は、アイヴィーに薬を渡したあと、暫くはしごを車に立てかけたまま、たたずんでいる。
ふつうなら、立ち去ってもおかしくない。
たたずんでいるケヴィンは、すでにこの保護区の中に興味を示している。
遠くない未来に、ケヴィンは保護区の中に入るだろうということを、表わしているのである。
カメラ・アングルについても触れておこう。
この映画では、違和感のあるカメラ・アングルがある。
分かりやすいのが、ラストのアイヴィーがルシアスに声をかけるシーン。
ここではルシアス、あるいはルシアスに近い位置から、アイヴィーをみつめるようにカメラが置かれている。
アイヴィーがケヴィンに会った時の、ケヴィンを撮るアングルも同じようになっている。
こうしたカメラの位置がかなり多い。
これは、主体と対象との比重の重さを表わしているものと解釈できる。
即ち、対象ではなく、それに向かう主体が重要なのである。
愛している対象ではなく、愛している主体が、物語のテーマということだ。
ルシアスがどうなったか、ということよりも、ルシアスを愛し、危険を冒してまで助けようとした、アイヴィーにフォーカスされているということだ。
無垢さがどこに向かっているのか、ではない。
無垢さそのものが重要なのだ。
もっと言えば、村の掟に焦点があるのではない。
村の掟を作ろうとした年長者たちの想いに焦点があてられている。
警備員のケヴィンについても同様のことが言える。
アイヴィーとケヴィンの位置関係はどうでもよい。
そしてアイヴィーの表情もあまり重要ではない。
ケヴィンがアイヴィーに関心を示しているということが、重要なのである。
最後に、色について言及して終わろう。なにかの本で読んだことがある。
赤とは暴力的な色、欲望の色を象徴している。
黄色とは保護される子どもの色を象徴しているという。
これは文化構造にも大きく関わってくることなので、一概に言うことは危険だが、そう考えると、色にも意味を見出すことが可能だろう。
テーマの好き嫌いはともかくとして、ここまで緻密に計算された映画を創り上げるシャマランは、間違いなく、一流の監督だと言えるだろう。
(2004/10/16執筆)
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
極限までに純化された想い。
森に囲まれた村。
その村では赤を忌み、森に入るときには黄色い衣を身に着ける掟があった。
もし掟を破ると「彼ら」がやってくるという。
ルシアス・ハント(ホアキン・フェニックス)は、大人たちがしきりに教えるその掟に疑問を持ち始めていた。
ルシアスは、「町」で薬を手に入れるため、森に入ろうとする。
それが「彼ら」に気づかれたのか、翌日「彼ら」が村にやってきて、赤い警告をつけていった。
村人たちは、ますます恐怖におののくが、ルシアスはさらに外への想いを強くする…
「シックス・センス」のM・ナイト・シャマラン最新作(当時)である。
もう説明する必要はないかもしれないが、どんでん返しが有名なシャマラン。
本作も、ラストにオチが隠されている。
しかし、それを目当てで観にいくと肩透かしを喰らうだろう。
本作は、それほど衝撃的なオチはない。
純粋に一本の映画としてみれば、それなりに楽しめるはずである。
以下は、監督の意向に反して激しくネタバレしている。
観ていない方は、読まないで欲しい。
▼以下はネタバレあり▼
本作は「愛がやばかったです」というCMにあるような「ラブ・ストーリー」ではないような気がする。
恋愛ではなく、愛のストーリーであることは確かだが、日本語のカタカナでの「ラブ・ストーリー」ではないだろう。
テーマはパンフレットにも書いてあったが、「無垢 = イノセンス」である。
村は掟によって縛られている。
森に囲まれた村の掟は、森に入ってはいけない、というもの。
要するに、人々は外界から完全に遮断されたところで生きている。
「町」を噂する者はいるが、実際に町に行った者は誰一人いない。
「昔」から、今までその伝統は守られ続けている。
冒頭でダニエル・ニコルソンという人物の墓が映し出される。
これが非常に上手いのだが、ここには「1889-1897」と掘り込まれている。
棺というにはあまりにも小さい棺の主は、僅か8歳で死んでしまった事が分かるのである。
そして、「現在」が1897年であることもわかるのである。
しかし、ここで気になるのは、この村という空間の異常性である。
物語が展開するに従ってその疑問は大きくなる。
年長者と呼ばれる村の中心的人物たち以外、誰も村から出たことのない閉ざされた世界は、歴史性も、社会性も閉ざされているのである。
自給自足という極めて堅実な生活を営んでいるにしても、完全に閉ざされているという事実は、大きな疑問になるのである。
この密室の村にやがて転機が訪れる。
それは、ルシアスとアイヴィーをめぐる恋模様である。
アイヴィーの姉であるキティがルシアスにプロポーズする。
しかし、ルシアスが愛していたのはアイヴィーであり、ルシアスはそのプロポーズを断るしかない。
悲しみに暮れるキティもやがて別の男を見つけ結婚する。
やがてアイヴィーは、ルシアスの気持に気づく。
当然、アイヴィーとルシアス二人は結婚することになる。
問題はこれだけでは収まらなかった。
アイヴィーを愛していたのは、ルシアスだけではなく、
知的障害のあるノア(エイドリアン・ブロディ)も同じだったのである。
ノアはその知的障害のため、感情を抑えることができない。
二人の結婚を知ったノアは、ナイフでルシアスを刺してしまう。
(ちなみに、ルシアスは鍛冶屋であることが後に意味を持つ事になる)
アイヴィーはルシアスを救うため、町へ行く許可をもらえるよう訴える。
そしてアイヴィーは村の掟の真実を知るのである。
ネタバレ覚悟だから言ってしまおう。
掟は年長者たちが仕組んだ「茶番」だったのである。
年長者たちは、同じカウンセリングセンターでカウンセリングを受けていた。
理由は愛する人を失ったから。
彼らは悲しみを克服するため、完全に閉ざされた空間を望んだ。
犯罪に巻き込まれて殺されることのないような、完璧な楽園を創造した。
しかし、その完璧さは外との交渉を一切持たないことで保たれる。
そこで、村にヒステリックとも言えるほど、完璧な掟を作ったのである。
彼らはその悲しみを「黒い箱」という形で残す。
この黒い箱には2つの意味がある。
1つは、悲しみを忘れてはならないという村の意味を確認させる装置として。
もう1つは、この村そのものが、黒い箱であるということだ。
村人にばれてしまうリスクの高い黒い箱を、家に大事においているのは、年長者たちが掟の意味を忘れないようにするためだ。
年長者にとって、赤は禁忌を表わさない。
この黒い箱こそが、掟の禁忌そのものなのである。
そして、黒い箱は、同時に村そのものにあたる。
村は町から隔絶される事で楽園の楽園性ともいうべき機能を保っている。
それは、村の外を禁忌として見立てているように思える。
しかし、実は村を現実世界から切り離す=黒い箱に入れてしまうことによって、楽園性を保っていたのである。
だから、アイヴィーが村を出るとき、箱も開けられる。
この二つはパラレルな関係になっているのである。
しかし、テーマを考えるうえで重要なのは、このオチではない。
重要なのは、この作られた掟が破られるのが、掟を作ったときと全く同じ「想い」であるということだ。
テーマは「無垢」である。
掟を作った理由は、非常に単純明快だ。
愛する人を失うことのない世界を創造したかったのである。
犯罪から隔絶された世界にいたかった、ただそれだけなのである。
それは異常なほど無垢な願いである。
この掟が破られたのも、同じ無垢な願いだ。
ルシアスを刺してしまったノアは、アイヴィーがただ好きなだけだった。
薬を求めたアイヴィーは、ルシアスがただ好きなだけだ。
しかも二人は、ともに障害を持っている。
知的障害で、感情をコントロールできない無垢さ。
そして、眼が見えないという無垢さ。
アイヴィーは、人の「色」は見えていると言った。
アイヴィーの盲目とは、目的(人間)以外見えないという無垢さを持っている。
町へ向うのを拒めなかった理由(「許した」のではない)は、アイヴィーが全く同じ無垢さを持っていたからである。
無垢によって無垢が壊されてしまったのである。
自己矛盾の掟であったことを、突きつけた格好だ。
これは、ノアが、ルシアスの作ったナイフで、ルシアスを刺す行為に似ている。
ルシアスは鍛冶屋であり、恐らくノアのナイフを作ったのは、ルシアスであろう。
ここにも、無垢の自己矛盾が象徴されている。
物語のラストで、掟を守り続けようとする年長者たちの姿が映される。
しかし、やがてこの村は崩壊するだろう。
それは、薬を届けてくれたケヴィンという警備兵にみることができる。
彼は、アイヴィーに薬を渡したあと、暫くはしごを車に立てかけたまま、たたずんでいる。
ふつうなら、立ち去ってもおかしくない。
たたずんでいるケヴィンは、すでにこの保護区の中に興味を示している。
遠くない未来に、ケヴィンは保護区の中に入るだろうということを、表わしているのである。
カメラ・アングルについても触れておこう。
この映画では、違和感のあるカメラ・アングルがある。
分かりやすいのが、ラストのアイヴィーがルシアスに声をかけるシーン。
ここではルシアス、あるいはルシアスに近い位置から、アイヴィーをみつめるようにカメラが置かれている。
アイヴィーがケヴィンに会った時の、ケヴィンを撮るアングルも同じようになっている。
こうしたカメラの位置がかなり多い。
これは、主体と対象との比重の重さを表わしているものと解釈できる。
即ち、対象ではなく、それに向かう主体が重要なのである。
愛している対象ではなく、愛している主体が、物語のテーマということだ。
ルシアスがどうなったか、ということよりも、ルシアスを愛し、危険を冒してまで助けようとした、アイヴィーにフォーカスされているということだ。
無垢さがどこに向かっているのか、ではない。
無垢さそのものが重要なのだ。
もっと言えば、村の掟に焦点があるのではない。
村の掟を作ろうとした年長者たちの想いに焦点があてられている。
警備員のケヴィンについても同様のことが言える。
アイヴィーとケヴィンの位置関係はどうでもよい。
そしてアイヴィーの表情もあまり重要ではない。
ケヴィンがアイヴィーに関心を示しているということが、重要なのである。
最後に、色について言及して終わろう。なにかの本で読んだことがある。
赤とは暴力的な色、欲望の色を象徴している。
黄色とは保護される子どもの色を象徴しているという。
これは文化構造にも大きく関わってくることなので、一概に言うことは危険だが、そう考えると、色にも意味を見出すことが可能だろう。
テーマの好き嫌いはともかくとして、ここまで緻密に計算された映画を創り上げるシャマランは、間違いなく、一流の監督だと言えるだろう。
(2004/10/16執筆)
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