評価点:26点/2005年/アメリカ
監督:ロベルト・シュヴェンケ
一番怖いのは、母親のあんただ。
ドイツのベルリン。飛行機エンジンのエンジニアのカイル(ジョディ・フォスター)は夫が転落事故で死に、失意のまま娘を連れてアメリカに帰国しようとしていた。
飛行機に乗って三時間、ふと目覚めると娘が姿を消していた。
必死にあたりを見回すがいない。
機長(ショーン・ビーン)に訴え問い合わせてみると、なんと娘はもともと搭乗していなかったと告げられる。
自分の妄想だとは信じられずに娘を捜索するように訴えるが……。
この話を聞いたとき、まっさきに思い出したのがジュリアン・ムーアの「フォーガットン」だ。
娘がいなくなりそれを母親が探すというシチュエーションはあまりに酷似している。
しかも、この二人は「羊たちの沈黙」シリーズでクラリス役を取り合った仲。
因縁めいたものを感じずにはいられないのが、映画ファンだろう。
言わずもがな、最も見てはいけない映画の一つである「フォーガットン」を越える大作はなかなかないだろうという期待を胸に、この超不可思議な設定をどのように料理するのか楽しみで見てみた。
この映画も、「フォーガットン」に負けず劣らずの「傑作」であった。
この映画の方が「ネタが少ない」という意味ではおもしろみに欠けるのかもしれない。
暇で暇でしょうがない時以外には見ることはオススメできない。
こうまで書いてそれでも見たいと思ったアナタに僕は拍手をおくりたいが。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は大きく二つに別れている。
真相が明かされるまではホラー映画。
真相が明かされると一気にアクション映画になってしまう。
このギャップに対してどう思うかは人それぞれだが、この演出の転換は、正直失敗していると思ってしまう。
序盤からこの映画はホラー色が全面に出ている。
例えば飛行機に乗るまでのシーンはほとんどが真っ暗な画面であり、丁寧に説明されることがなく進むため、ミステリアスな雰囲気が漂っている。
広すぎる邸宅に女二人という場面がまるで、ホラー映画の冒頭だ。
挙げ句の果てに娘は怖がってタクシーに乗ろうとしない。
そして母親は促すのだ
「あなたをコートで隠すから大丈夫よ。」
ニコール・キッドマン主演の「アザーズ」を観たことがあるなら、このあたりで娘は実は死んでいるのではないか、と疑ってかかるのが当然だ。
その先読みはともかく、明らかにホラーを意識した作りであり、観客を意図的に誘導しようとしているように思えてしまう。
そして、飛行機で事件が起こってしまう。
娘がいなくなるのだ。
ここからは「不思議なお話」という趣に変わる。
だが、ここで最悪なのは、娘を捜す母親にまったく感情移入できないということだ。
というのは、彼女の行動があまりに「常識を逸脱した行動」だからだ。
娘がいなくなったと信じる母親が必死になるのはわかる。
だが、それは他人に迷惑をかけて良いということにはならない。
それなのに、彼女はキャビンアテンダントに捜索を執拗に迫ったり、機長にあわせろと騒ぎを起こしたり、さらにはアラブ人を「こいつ見たことがある!」とつるし上げる始末だ。
ここまでヒステリックに子供を捜す姿は、異常である。
もはや感情移入はできない。
なぜなら機長の言うように、密室の飛行機ならば、常識的に考えて、誘拐ではなく迷子だからだ。
隠せる要素のない、しかも誘拐する根拠さえわからない状況で、
全てをストップしてまで子供を捜そうとするのは不自然きわまりない。傍若無人の何者でもない。
彼女に感情移入しろというほうが無理なのだ。
だが、この不自然なまでの強調が、逆にオチを浮かび上がらせてしまう。
つまり、このまま彼女の妄想であったなら、この母親はクレイジーな奴で終わってしまう。
そうだとすれば、映画的にはこの母親が「正しい」のではなければ、成り立たないのだ。
しかも、それまで娘が死んでいるかのようなあざといまでの伏線がある。
このよけいな伏線により、余計に娘が誘拐されたことが強調されてしまうのだ。
案の定、真相は誘拐だったのだ。
真相をもう一度整理しておこう。
犯人(ピーター・サースガード)は、キャビンアテンダント(ケイト・ビーハン)を買収し、機内に乗り込んだ。
お金を手に入れるためには、爆弾を機内に持ち込まなければならない。
しかし、そのためには調べられない棺が必要になる。
棺を手に入れるために、カイルの夫を殺害する。
カイルは航空機のエンジニアであるため、罪を着せるにはうってつけだ。
カーソンは彼女に罪を着せるために、キャビンアテンダントを使って、娘が死んでいるように報告させる。
これによって彼女は完全に妄想癖の女性のまま、爆弾で機を乗っ取ろうとしていたようにし向けようとしたのだ。
彼女も殺し、娘も爆破で殺してしまえば、証拠は残らずにお金だけを奪える、という算段だったのだ。
しかし、ここには大きな矛盾が残る。
キャビンアテンダントが報告した内容が真っ赤な嘘であることは、うまくいったとしてもすぐに発覚してしまうと言うことだ。
なぜなら、どれだけコネクションがあったとしても、乗客名簿から名前を消したり、戸籍を死亡に書き換えることなどできないからだ。
それが出来るくらいなら、自分の戸籍を死亡させて、機内に乗り込んだ方がよほど安全なのだ。
それならば、この犯罪は成り立たないことになってしまう。
全てうまくいったところで、機長が生きているなら、機長が証言してしまうからだ。
そうするとキャビンアテンダントがおかしいことがわかり、彼女が真相を話してしまう可能性が高い。
そもそも、彼女が指示される仕事内容など決まっていないはずで、なぜ彼女が問い合わせることを予期できたのか、
さらに誰にも見られずに子供を誘拐するということは、事前に計画に込められるだけの達成確率なのか、といった不安定要素が大きすぎる。
つまり、この犯罪は全く穴だらけの成功しない犯罪なのだ。
だから、真相が明かされても全く釈然としない。
それまで無理矢理な娘の捜索につきあわされてきた観客にとって、この絶望的なオチは、疲労と怒りしか感じないだろう。
しかも、それを解決する方法も解せない。
プラスティック爆弾を見たカイルは、瞬時に娘をエンジン下の倉庫に匿い、犯人もろとも爆破させる。
そこは構造上安全な場所で彼女たちは助かる、というラストだ。
彼女はどうやら飛行機だけではなく爆弾にも詳しかったらしい。
セムテックス(プラスティック爆弾)の量をみて、瞬時にこれなら爆発に耐えられる、と判断したのだから。
なぜ彼女にそのことがわかったのだろう。
わからぬ。
何事もわれわれ人間にはわからぬ。
観客は何事もわからぬまま制作者たちの作った映画を受け取って、何事もわからぬまま生きていくのが、われわれ観客のさだめだ。
…そして、疑ってつるし上げたアラブ人に何の謝罪もなく終幕。
解決すれば正義か。
正しければ何をしてもいいのか。
人への礼儀はないのか。
なにか、アメリカのすっごく見たくない部分を見せられたような嫌悪感を持った。
ジョディ・フォスターが好きなだけに、非常に残念な映画だった。
(206/11/23執筆)
監督:ロベルト・シュヴェンケ
一番怖いのは、母親のあんただ。
ドイツのベルリン。飛行機エンジンのエンジニアのカイル(ジョディ・フォスター)は夫が転落事故で死に、失意のまま娘を連れてアメリカに帰国しようとしていた。
飛行機に乗って三時間、ふと目覚めると娘が姿を消していた。
必死にあたりを見回すがいない。
機長(ショーン・ビーン)に訴え問い合わせてみると、なんと娘はもともと搭乗していなかったと告げられる。
自分の妄想だとは信じられずに娘を捜索するように訴えるが……。
この話を聞いたとき、まっさきに思い出したのがジュリアン・ムーアの「フォーガットン」だ。
娘がいなくなりそれを母親が探すというシチュエーションはあまりに酷似している。
しかも、この二人は「羊たちの沈黙」シリーズでクラリス役を取り合った仲。
因縁めいたものを感じずにはいられないのが、映画ファンだろう。
言わずもがな、最も見てはいけない映画の一つである「フォーガットン」を越える大作はなかなかないだろうという期待を胸に、この超不可思議な設定をどのように料理するのか楽しみで見てみた。
この映画も、「フォーガットン」に負けず劣らずの「傑作」であった。
この映画の方が「ネタが少ない」という意味ではおもしろみに欠けるのかもしれない。
暇で暇でしょうがない時以外には見ることはオススメできない。
こうまで書いてそれでも見たいと思ったアナタに僕は拍手をおくりたいが。
▼以下はネタバレあり▼
この映画は大きく二つに別れている。
真相が明かされるまではホラー映画。
真相が明かされると一気にアクション映画になってしまう。
このギャップに対してどう思うかは人それぞれだが、この演出の転換は、正直失敗していると思ってしまう。
序盤からこの映画はホラー色が全面に出ている。
例えば飛行機に乗るまでのシーンはほとんどが真っ暗な画面であり、丁寧に説明されることがなく進むため、ミステリアスな雰囲気が漂っている。
広すぎる邸宅に女二人という場面がまるで、ホラー映画の冒頭だ。
挙げ句の果てに娘は怖がってタクシーに乗ろうとしない。
そして母親は促すのだ
「あなたをコートで隠すから大丈夫よ。」
ニコール・キッドマン主演の「アザーズ」を観たことがあるなら、このあたりで娘は実は死んでいるのではないか、と疑ってかかるのが当然だ。
その先読みはともかく、明らかにホラーを意識した作りであり、観客を意図的に誘導しようとしているように思えてしまう。
そして、飛行機で事件が起こってしまう。
娘がいなくなるのだ。
ここからは「不思議なお話」という趣に変わる。
だが、ここで最悪なのは、娘を捜す母親にまったく感情移入できないということだ。
というのは、彼女の行動があまりに「常識を逸脱した行動」だからだ。
娘がいなくなったと信じる母親が必死になるのはわかる。
だが、それは他人に迷惑をかけて良いということにはならない。
それなのに、彼女はキャビンアテンダントに捜索を執拗に迫ったり、機長にあわせろと騒ぎを起こしたり、さらにはアラブ人を「こいつ見たことがある!」とつるし上げる始末だ。
ここまでヒステリックに子供を捜す姿は、異常である。
もはや感情移入はできない。
なぜなら機長の言うように、密室の飛行機ならば、常識的に考えて、誘拐ではなく迷子だからだ。
隠せる要素のない、しかも誘拐する根拠さえわからない状況で、
全てをストップしてまで子供を捜そうとするのは不自然きわまりない。傍若無人の何者でもない。
彼女に感情移入しろというほうが無理なのだ。
だが、この不自然なまでの強調が、逆にオチを浮かび上がらせてしまう。
つまり、このまま彼女の妄想であったなら、この母親はクレイジーな奴で終わってしまう。
そうだとすれば、映画的にはこの母親が「正しい」のではなければ、成り立たないのだ。
しかも、それまで娘が死んでいるかのようなあざといまでの伏線がある。
このよけいな伏線により、余計に娘が誘拐されたことが強調されてしまうのだ。
案の定、真相は誘拐だったのだ。
真相をもう一度整理しておこう。
犯人(ピーター・サースガード)は、キャビンアテンダント(ケイト・ビーハン)を買収し、機内に乗り込んだ。
お金を手に入れるためには、爆弾を機内に持ち込まなければならない。
しかし、そのためには調べられない棺が必要になる。
棺を手に入れるために、カイルの夫を殺害する。
カイルは航空機のエンジニアであるため、罪を着せるにはうってつけだ。
カーソンは彼女に罪を着せるために、キャビンアテンダントを使って、娘が死んでいるように報告させる。
これによって彼女は完全に妄想癖の女性のまま、爆弾で機を乗っ取ろうとしていたようにし向けようとしたのだ。
彼女も殺し、娘も爆破で殺してしまえば、証拠は残らずにお金だけを奪える、という算段だったのだ。
しかし、ここには大きな矛盾が残る。
キャビンアテンダントが報告した内容が真っ赤な嘘であることは、うまくいったとしてもすぐに発覚してしまうと言うことだ。
なぜなら、どれだけコネクションがあったとしても、乗客名簿から名前を消したり、戸籍を死亡に書き換えることなどできないからだ。
それが出来るくらいなら、自分の戸籍を死亡させて、機内に乗り込んだ方がよほど安全なのだ。
それならば、この犯罪は成り立たないことになってしまう。
全てうまくいったところで、機長が生きているなら、機長が証言してしまうからだ。
そうするとキャビンアテンダントがおかしいことがわかり、彼女が真相を話してしまう可能性が高い。
そもそも、彼女が指示される仕事内容など決まっていないはずで、なぜ彼女が問い合わせることを予期できたのか、
さらに誰にも見られずに子供を誘拐するということは、事前に計画に込められるだけの達成確率なのか、といった不安定要素が大きすぎる。
つまり、この犯罪は全く穴だらけの成功しない犯罪なのだ。
だから、真相が明かされても全く釈然としない。
それまで無理矢理な娘の捜索につきあわされてきた観客にとって、この絶望的なオチは、疲労と怒りしか感じないだろう。
しかも、それを解決する方法も解せない。
プラスティック爆弾を見たカイルは、瞬時に娘をエンジン下の倉庫に匿い、犯人もろとも爆破させる。
そこは構造上安全な場所で彼女たちは助かる、というラストだ。
彼女はどうやら飛行機だけではなく爆弾にも詳しかったらしい。
セムテックス(プラスティック爆弾)の量をみて、瞬時にこれなら爆発に耐えられる、と判断したのだから。
なぜ彼女にそのことがわかったのだろう。
わからぬ。
何事もわれわれ人間にはわからぬ。
観客は何事もわからぬまま制作者たちの作った映画を受け取って、何事もわからぬまま生きていくのが、われわれ観客のさだめだ。
…そして、疑ってつるし上げたアラブ人に何の謝罪もなく終幕。
解決すれば正義か。
正しければ何をしてもいいのか。
人への礼儀はないのか。
なにか、アメリカのすっごく見たくない部分を見せられたような嫌悪感を持った。
ジョディ・フォスターが好きなだけに、非常に残念な映画だった。
(206/11/23執筆)
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