評価点:70点/2015年/アメリカ/108分
監督:チャド・スタエルスキー
演出が、……古いな。
病気で最愛の妻を亡くしたジョン(キアヌ・リーブス)の元に、妻からプレゼントが届く。
テイジーという子犬を育てながら、悲しみを癒やすようにと言われ、大切に飼い始める。
そんなある日、若者に愛車を売るように迫られ、断ると、家を襲撃されてしまう。
車を奪われたあげく、愛犬を目の前で殺されたジョンは、復讐を誓う。
すぐにその情報は知れ渡り、その若者はロシアン・マフィアのボスの息子ヨセフであり、ジョンは凄腕の殺し屋だったのだ…。
これも少し気になって見にいこうと思っていたが、行けずじまいになってしまった作品だ。
TSUTAYAで安かったので、借りて観た。
キアヌも好きだし、アクション映画なら何も考えずに見られるだろうと思ったから。
いやいや、疲れているんですよ、この暑さに。
安定感のある映画で、何も考えずに見られる映画としては上出来だ。
アクションでも、ホラーでも、やりすぎるとコミカルになってしまうという代表例かもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
愛犬を殺されたことに腹を立ててマフィアを壊滅させてしまう、なんともむちゃくちゃな設定だ。
ダークな世界で彩られているわりには、義理人情、掟が明確に守られている世界観で、「イマドキ」の現実とはかけ離れている。
それだけではない。
この映画、すべてに置いて「古い」印象を受けてしまう。
だが、それは否定的な意味においてではなく、「今回は、そこがいいんじゃあないか」(広瀬康一君風)
物語は一般的な復讐劇と言って良い。
小細工やどんでん返しは一切ない。
驚きはなく、物語はどんどん進んでいく。
余計な社会的コードや文化的コードを考える必要もない。
相手がロシアン・マフィアであるが、ロシアを批判するような視座はほとんどない。
別に黒人でもいいし、中国人でもいい。
ただ、ニューヨークにいそうなマフィアという程度の記号でしかない。
シンプルである。
どこまでも観客の怒りを買うように、このマフィアの親子がどうしようもない。
犬を殺すし、いきなり車を奪うし、敵に襲われそうなときに裸でお酒を飲んでいるし。
襲われたら一人率先して逃げていくし、息巻いていたはずなのに一人では何もできない。
親父のほうも、息子を簡単に差し出し、挙げ句なぜかわざわざ友人を殺したことを丁寧に復讐者に電話で告げる。
「あんた、殺されたいんか、やめなはれや」と同情すらわいてくる。
これでよく本当にマフィアのボスを名乗っているなぁと。
敵は設定できた。
あとはどんどん殺しまくるだけだ。
自宅を襲ってきたマフィアの下っ端を体よく殺して、警察官とも顔見知り。
さらに死体処理業者に頼んで自宅はきれいさっぱり、何事もなかったような仕上がりだ。
ニューヨークに上れば、顔見知りのホテルで一流のサービスを受ける。
これだけ不義理が有効な21世紀で、裏の世界はどこまでも「掟」が優先される。
(このあたりは「ナイト・クローラー」と好対照だ)
マフィアのボスといえども、この掟の中でしか生きられない。
どんな支配人なのだという感じだが、この設定がなぜだがしっくりくる。
見ている人間は、まだまだ「大きな物語」を信じているからに他ならないだろう。
注目するべき古くさい点は、ラストの沿岸部でのアクションだ。
どこからともなく雷雨を呼び込み、ラストはなぜか素手で勝負し始める。
これだけ多くの人間が殺されている姿を知っているボスは、こぶしで勝負しようと持ちかける。
自分が銃を持っていなかったことは確かだが、雨の降りしきる中、昔のカンフー映画を観ているような演出だ。
見ていてすごく安心できる(興奮できる)シーンの一つだ。
全ては観る者の要求を知り尽くしている感じがある。
この映画にそそられる人は、「スピード」を知っている、「マトリックス」を知っている世代だ。
そうでなければキアヌ・リーブスには惹かれない。
そういう人たちは、古い映画、古いアクション映画が大好きだ。
だから、変にリアルにつくる必要はないし、時代を反映させる必要はない。
大きな物語を信じてきた人たちばかりなのだ。
もちろん、私も含めてね。
ただ、社会的な怒りを背負っていることは確かだろう。
ばかばかしさとリアリティを組み合わせるとおもしろい作品になるという典型例でもある。
犬を殺されたからといって、組織を壊滅させるという痛快さは、日頃不満をため込んでいる現代人にはたまらない。
敵を容赦なく倒し続ける姿は、私たち一般人にはできない、潔さと決断力、実行力がある。
社会的なコードを敵に反映させることがアクション映画の暗黙のルールだが、その掟破りが奏功した一例である。
監督:チャド・スタエルスキー
演出が、……古いな。
病気で最愛の妻を亡くしたジョン(キアヌ・リーブス)の元に、妻からプレゼントが届く。
テイジーという子犬を育てながら、悲しみを癒やすようにと言われ、大切に飼い始める。
そんなある日、若者に愛車を売るように迫られ、断ると、家を襲撃されてしまう。
車を奪われたあげく、愛犬を目の前で殺されたジョンは、復讐を誓う。
すぐにその情報は知れ渡り、その若者はロシアン・マフィアのボスの息子ヨセフであり、ジョンは凄腕の殺し屋だったのだ…。
これも少し気になって見にいこうと思っていたが、行けずじまいになってしまった作品だ。
TSUTAYAで安かったので、借りて観た。
キアヌも好きだし、アクション映画なら何も考えずに見られるだろうと思ったから。
いやいや、疲れているんですよ、この暑さに。
安定感のある映画で、何も考えずに見られる映画としては上出来だ。
アクションでも、ホラーでも、やりすぎるとコミカルになってしまうという代表例かもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
愛犬を殺されたことに腹を立ててマフィアを壊滅させてしまう、なんともむちゃくちゃな設定だ。
ダークな世界で彩られているわりには、義理人情、掟が明確に守られている世界観で、「イマドキ」の現実とはかけ離れている。
それだけではない。
この映画、すべてに置いて「古い」印象を受けてしまう。
だが、それは否定的な意味においてではなく、「今回は、そこがいいんじゃあないか」(広瀬康一君風)
物語は一般的な復讐劇と言って良い。
小細工やどんでん返しは一切ない。
驚きはなく、物語はどんどん進んでいく。
余計な社会的コードや文化的コードを考える必要もない。
相手がロシアン・マフィアであるが、ロシアを批判するような視座はほとんどない。
別に黒人でもいいし、中国人でもいい。
ただ、ニューヨークにいそうなマフィアという程度の記号でしかない。
シンプルである。
どこまでも観客の怒りを買うように、このマフィアの親子がどうしようもない。
犬を殺すし、いきなり車を奪うし、敵に襲われそうなときに裸でお酒を飲んでいるし。
襲われたら一人率先して逃げていくし、息巻いていたはずなのに一人では何もできない。
親父のほうも、息子を簡単に差し出し、挙げ句なぜかわざわざ友人を殺したことを丁寧に復讐者に電話で告げる。
「あんた、殺されたいんか、やめなはれや」と同情すらわいてくる。
これでよく本当にマフィアのボスを名乗っているなぁと。
敵は設定できた。
あとはどんどん殺しまくるだけだ。
自宅を襲ってきたマフィアの下っ端を体よく殺して、警察官とも顔見知り。
さらに死体処理業者に頼んで自宅はきれいさっぱり、何事もなかったような仕上がりだ。
ニューヨークに上れば、顔見知りのホテルで一流のサービスを受ける。
これだけ不義理が有効な21世紀で、裏の世界はどこまでも「掟」が優先される。
(このあたりは「ナイト・クローラー」と好対照だ)
マフィアのボスといえども、この掟の中でしか生きられない。
どんな支配人なのだという感じだが、この設定がなぜだがしっくりくる。
見ている人間は、まだまだ「大きな物語」を信じているからに他ならないだろう。
注目するべき古くさい点は、ラストの沿岸部でのアクションだ。
どこからともなく雷雨を呼び込み、ラストはなぜか素手で勝負し始める。
これだけ多くの人間が殺されている姿を知っているボスは、こぶしで勝負しようと持ちかける。
自分が銃を持っていなかったことは確かだが、雨の降りしきる中、昔のカンフー映画を観ているような演出だ。
見ていてすごく安心できる(興奮できる)シーンの一つだ。
全ては観る者の要求を知り尽くしている感じがある。
この映画にそそられる人は、「スピード」を知っている、「マトリックス」を知っている世代だ。
そうでなければキアヌ・リーブスには惹かれない。
そういう人たちは、古い映画、古いアクション映画が大好きだ。
だから、変にリアルにつくる必要はないし、時代を反映させる必要はない。
大きな物語を信じてきた人たちばかりなのだ。
もちろん、私も含めてね。
ただ、社会的な怒りを背負っていることは確かだろう。
ばかばかしさとリアリティを組み合わせるとおもしろい作品になるという典型例でもある。
犬を殺されたからといって、組織を壊滅させるという痛快さは、日頃不満をため込んでいる現代人にはたまらない。
敵を容赦なく倒し続ける姿は、私たち一般人にはできない、潔さと決断力、実行力がある。
社会的なコードを敵に反映させることがアクション映画の暗黙のルールだが、その掟破りが奏功した一例である。
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