梯久美子さんの’16年作品『狂う人 「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読みました。惹句を引用させていただくと、「島尾敏雄の『死の棘』に登場する愛人『あいつ』の正体とは。日記の残骸に読み取れた言葉とは。ミホの『「死の棘」の妻の場合』が未完成の理由は。そして本当に狂っていたのは妻か夫か------。未発表原稿や日記等の新資料によって不朽の名作の隠された事実を掘り起こし、妻・ミホの切実で痛みに満ちた生涯を辿る、渾身の決定版評伝」となっています。
著者による「謝辞」からも引用させていただくと、「初めて島尾ミホさんにお会いした日から十一年になる。評伝を書くために奄美に通い、長時間のインタビューに応じてもらったが、途中で取材を打ち切られた話は本書の序章に書いた通りである。それから一年後にミホさんは逝去された。
一度はあきらめた評伝の取材を再開しようと思うようになった私は、翌年、島尾敏雄・ミホ夫妻の長男である島尾伸三氏に会いに行った。本人から取材を断られた経緯を正直に話し、それでも書きたいのですと言うと、伸三氏は「わかりました」と言った。
「わかりました、では書いてください。ただ、きれいごとにはしないでくださいね」
これまでさまざまな人物に関する取材を行ってきたが、遺族にこう言ってもらったのは初めてのことである。身内にすれば書かれたくないこともあるだろうし、一人の書き手によって描かれた像が固定してしまうことへの懸念もあるはずだ。また、書かれる側にとって、ペンはときに暴力になる。だが伸三氏は、遠慮する必要はまったくない、あなたの見た通り、考えた通りに書いてくださいと言い、あらゆる資料を提供してくださった。
本書は、敏雄・ミホ夫妻それぞれの日記から手紙から、草稿やノート、メモのたぐいまで、膨大な資料をもとに執筆しており、その中には本書で初めて公開されるものが多くある。それまで遺族と新潮社によって行われていた奄美の島尾家での遺稿・遺品整理に参加することが許され、貴重な資料をすべて手に取って読むことができたのは本当に幸せなことだった。とりわけミホさんの直筆資料は、古びた便箋やノートから抑えきれない思いがあふれ出してくるようで、その時々の彼女と歳月をこえて出会った気持ちになった。伸三氏の協力がなければ本書が生まれることはなく、ここに最大限の感謝を捧げたい。
伸三氏と夫人の潮田登久子氏とは、奄美以外の場所にも一緒に旅をした。佐世保市の親戚宅に同行させてもらったこともあるし、福島第一原発の事故によって南相馬市小高区に出されていた避難指示が解除になったときは、島尾家の墓参りに行きたいと言った私をお二人が案内してくださった。ご自宅にも何度もお邪魔しており、折々にうかがった話や励ましの言葉は執筆の大きな糧となった。
取材では敏雄・ミホ夫妻を知る多くの方に話を聞かせていただいた。ここでひとりひとりのお名前を挙げることはしないが、貴重な時間を割いて取材に応じてくださった皆様に深くお礼申し上げる。本書は『新潮』誌上での三年半にわたる連載がもとになっているが、取材に協力してくださった方の中には、完結の前に故人となられた方もある。眞鍋呉夫氏、、松原一枝氏、阿川弘之氏、そしてミホさんに会いにいくことを最初に勧めてくださった吉本隆明氏もすでにこの世にない。ここに改めて感謝申し上げるとともに、心からご冥福をお祈りする。
取材から十一年の間、お世話になった方は数えきれない。最初に訪れたときからその自然と風物に魅せられた奄美には、これまで二十回近く訪れている。島尾敏雄顕彰会の方々をはじめ、奄美で出会った方たちには多くのことを教えていただいた。また、奄美の島尾家に資料整理に来られていたかごしま近代文学館の皆さんには、その後も資料閲覧等でお世話になり、度重なる問い合わせに丁寧に対応していただいた。
三十九年前に『死の棘』の装幀を担当された司修氏に、本書の装幀を引き受けていただいたことは望外の喜びだった。島尾隊長と出会ったころのミホさんの顔写真をカバーに使いたいと言われたのは司氏である。この写真をもっとも気に入っていたというミホさんも、喜んでくれているのではないだろうか。(後略)」
段ボール箱にして千箱にもなる資料の整理から生まれた本書ですが、ミホさんが発狂する直接の原因である、敏雄氏の日記にあった十七文字というのが、一体どんな文章であったのかは、650ページを超える本書でも明かされていません。ただ、それを除けば、島尾ミホさんの評伝としては現時点では決定版だと思います。
著者による「謝辞」からも引用させていただくと、「初めて島尾ミホさんにお会いした日から十一年になる。評伝を書くために奄美に通い、長時間のインタビューに応じてもらったが、途中で取材を打ち切られた話は本書の序章に書いた通りである。それから一年後にミホさんは逝去された。
一度はあきらめた評伝の取材を再開しようと思うようになった私は、翌年、島尾敏雄・ミホ夫妻の長男である島尾伸三氏に会いに行った。本人から取材を断られた経緯を正直に話し、それでも書きたいのですと言うと、伸三氏は「わかりました」と言った。
「わかりました、では書いてください。ただ、きれいごとにはしないでくださいね」
これまでさまざまな人物に関する取材を行ってきたが、遺族にこう言ってもらったのは初めてのことである。身内にすれば書かれたくないこともあるだろうし、一人の書き手によって描かれた像が固定してしまうことへの懸念もあるはずだ。また、書かれる側にとって、ペンはときに暴力になる。だが伸三氏は、遠慮する必要はまったくない、あなたの見た通り、考えた通りに書いてくださいと言い、あらゆる資料を提供してくださった。
本書は、敏雄・ミホ夫妻それぞれの日記から手紙から、草稿やノート、メモのたぐいまで、膨大な資料をもとに執筆しており、その中には本書で初めて公開されるものが多くある。それまで遺族と新潮社によって行われていた奄美の島尾家での遺稿・遺品整理に参加することが許され、貴重な資料をすべて手に取って読むことができたのは本当に幸せなことだった。とりわけミホさんの直筆資料は、古びた便箋やノートから抑えきれない思いがあふれ出してくるようで、その時々の彼女と歳月をこえて出会った気持ちになった。伸三氏の協力がなければ本書が生まれることはなく、ここに最大限の感謝を捧げたい。
伸三氏と夫人の潮田登久子氏とは、奄美以外の場所にも一緒に旅をした。佐世保市の親戚宅に同行させてもらったこともあるし、福島第一原発の事故によって南相馬市小高区に出されていた避難指示が解除になったときは、島尾家の墓参りに行きたいと言った私をお二人が案内してくださった。ご自宅にも何度もお邪魔しており、折々にうかがった話や励ましの言葉は執筆の大きな糧となった。
取材では敏雄・ミホ夫妻を知る多くの方に話を聞かせていただいた。ここでひとりひとりのお名前を挙げることはしないが、貴重な時間を割いて取材に応じてくださった皆様に深くお礼申し上げる。本書は『新潮』誌上での三年半にわたる連載がもとになっているが、取材に協力してくださった方の中には、完結の前に故人となられた方もある。眞鍋呉夫氏、、松原一枝氏、阿川弘之氏、そしてミホさんに会いにいくことを最初に勧めてくださった吉本隆明氏もすでにこの世にない。ここに改めて感謝申し上げるとともに、心からご冥福をお祈りする。
取材から十一年の間、お世話になった方は数えきれない。最初に訪れたときからその自然と風物に魅せられた奄美には、これまで二十回近く訪れている。島尾敏雄顕彰会の方々をはじめ、奄美で出会った方たちには多くのことを教えていただいた。また、奄美の島尾家に資料整理に来られていたかごしま近代文学館の皆さんには、その後も資料閲覧等でお世話になり、度重なる問い合わせに丁寧に対応していただいた。
三十九年前に『死の棘』の装幀を担当された司修氏に、本書の装幀を引き受けていただいたことは望外の喜びだった。島尾隊長と出会ったころのミホさんの顔写真をカバーに使いたいと言われたのは司氏である。この写真をもっとも気に入っていたというミホさんも、喜んでくれているのではないだろうか。(後略)」
段ボール箱にして千箱にもなる資料の整理から生まれた本書ですが、ミホさんが発狂する直接の原因である、敏雄氏の日記にあった十七文字というのが、一体どんな文章であったのかは、650ページを超える本書でも明かされていません。ただ、それを除けば、島尾ミホさんの評伝としては現時点では決定版だと思います。