今年の6月29日、朝日新聞の木曜日の恒例のコラム「福岡伸一の動的平衡」で、「命の美しさ 感じる心こそ」と題するコラムが書かれていました。全文を引用させていただくと、
「子どもの育ちにとってもっとも大切なものはなんだろう。それは早々と九九が言えたり、英語がしゃべれたりすることではないはずだ。知ることよりもまず感じること。そう言ったのは、卓越した先見性をもって環境問題に警鐘を鳴らした生物学者レイチェル・カーソンである。彼女は「センス・オブ・ワンダー」という言葉を使った。驚きを感じる心、とでも訳せようか。何に対する驚きか。それは自然の精妙さ、繊細さ、あるいは美しさに対してである。
自然とは、アマゾンやアフリカのような大自然である必要は全然ないと思う。ほんの小自然でよい。近くの公園や水辺? いや、コンクリートに囲まれ、空調の中に住み、電脳世界に支配される私たちにとって、もっとも身近な自然とは、自分自身の生命にほかならない。私たちはふいに生まれ、いつか必ず死ぬ。病を得れば伏し、切れば血を流す。これこそが自然だ。そして私の生命はいつもまわりの自然と直接的につながっている。
心臓の鼓動がセミしぐれの声に、吐いた白い息が冷たい空気の中に、あふれた涙がにじんだ夕日に溶けていくことを感じる心がセンス・オブ・ワンダーである。それは大人になってもその人を支えつづける。私の好きな高野公彦に次の歌がある。〈青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき〉」
また、7月27日の朝日新聞の朝刊に掲載された、同氏の「作ることは、壊すこと」と題されたコラムを全文引用させていただくと、
「伊勢神宮と法隆寺、どちらが生命的だろうか? ある建築家と話していて、こんな奇妙な議論になった。私が、生命を生命たらしめているのは、絶えず分解と合成を繰り返す動的平衡の作用である、と言ったからだった。20年に1回、新たに建て替えられる伊勢神宮の方に一見、分があるように思える。が、法隆寺の方は、世界最古の木造建築といわれながら、長い年月をかけてさまざまな部材が常に少しずつ更新されてきた。その意味で、全とりかえをする前者よりも、ちょっとずつ変える後者の方がより生命的ではないか。これが私の意見である。
ところで世間では、しばしば、解体的出直し、といったことが叫ばれるが、解体しなければニッチもサッチもいかなくなった組織はその時点でもう終わりである。そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築しなおしている。つまり(大きく)変わらないために、(小さく)変わり続けている。そして、あらかじめ分解することを予定した上で、合成がなされている。
都市に立ちならぶ高層ビル群を眺めながら思う。はたしてこの中に、解体することを想定して建設された建物があるだろうか。作ることに壊すことがすでに含まれている。これが生命のあり方だ。そろそろ私たちも自らの20世紀型パラダイムを作り替える必要があるのではないだろうか。」
また、10月19日の朝日新聞の朝刊に掲載された、同氏の「霜柱の素朴な研究」と題されたコラムを全文引用させていただくと、
「北国からは早くも初冠雪や初霜の知らせが届き出した。都会はすっかり舗装されてしまったが、私が小学生の頃はまだ、寒い朝、通学の路傍のあちこちの地面に霜柱ができていた。それを運動靴で踏んでいくと、ウェハースをかむようにサクサクと気持ちのよい音がした。
霜柱とは、土の中の水分が凍って地面を押し上げたもの、と思われがちだが、話はそんなに簡単ではない。実はここにちょっとしたミステリーがある。霜柱を形成する氷の量は、もともとその厚みに含まれている水の量よりずっと多いのだ。水はいったいどこからくるのだろう?
氷と雪の研究で有名な中谷宇治吉郎の随筆を読んでいたら面白い記述があった。戦前、身近な霜柱の生成に興味を持った子どもたちがいた。自由学園の女子生徒たちである。彼女たちは凍てつく夜、霜柱に目印をつけたり、ブリキ缶を埋めたりして実験を重ね、ついに水が毛管現象で地中深くから吸い上げられていることを突き止めた。中谷は『この研究にとりかかられた娘さんたちの勇気には、大いに敬服した』『無邪気なそして純粋な興味が尊いのであって、良い科学的な研究をするにはそのような気持ちが一番大切なのである』と高く評価した。素朴な研究であっても専門家を瞠目させることがある。科学の萌芽(ほうが)は霜柱の成長に似ている。」
いずれの文章も大変興味深く読ませていただきました。皆さんは読んでみて、いかがでしたか?
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)
「子どもの育ちにとってもっとも大切なものはなんだろう。それは早々と九九が言えたり、英語がしゃべれたりすることではないはずだ。知ることよりもまず感じること。そう言ったのは、卓越した先見性をもって環境問題に警鐘を鳴らした生物学者レイチェル・カーソンである。彼女は「センス・オブ・ワンダー」という言葉を使った。驚きを感じる心、とでも訳せようか。何に対する驚きか。それは自然の精妙さ、繊細さ、あるいは美しさに対してである。
自然とは、アマゾンやアフリカのような大自然である必要は全然ないと思う。ほんの小自然でよい。近くの公園や水辺? いや、コンクリートに囲まれ、空調の中に住み、電脳世界に支配される私たちにとって、もっとも身近な自然とは、自分自身の生命にほかならない。私たちはふいに生まれ、いつか必ず死ぬ。病を得れば伏し、切れば血を流す。これこそが自然だ。そして私の生命はいつもまわりの自然と直接的につながっている。
心臓の鼓動がセミしぐれの声に、吐いた白い息が冷たい空気の中に、あふれた涙がにじんだ夕日に溶けていくことを感じる心がセンス・オブ・ワンダーである。それは大人になってもその人を支えつづける。私の好きな高野公彦に次の歌がある。〈青春はみづきの下をかよふ風あるいは遠い線路のかがやき〉」
また、7月27日の朝日新聞の朝刊に掲載された、同氏の「作ることは、壊すこと」と題されたコラムを全文引用させていただくと、
「伊勢神宮と法隆寺、どちらが生命的だろうか? ある建築家と話していて、こんな奇妙な議論になった。私が、生命を生命たらしめているのは、絶えず分解と合成を繰り返す動的平衡の作用である、と言ったからだった。20年に1回、新たに建て替えられる伊勢神宮の方に一見、分があるように思える。が、法隆寺の方は、世界最古の木造建築といわれながら、長い年月をかけてさまざまな部材が常に少しずつ更新されてきた。その意味で、全とりかえをする前者よりも、ちょっとずつ変える後者の方がより生命的ではないか。これが私の意見である。
ところで世間では、しばしば、解体的出直し、といったことが叫ばれるが、解体しなければニッチもサッチもいかなくなった組織はその時点でもう終わりである。そうならないために、生命はいつも自らを解体し、構築しなおしている。つまり(大きく)変わらないために、(小さく)変わり続けている。そして、あらかじめ分解することを予定した上で、合成がなされている。
都市に立ちならぶ高層ビル群を眺めながら思う。はたしてこの中に、解体することを想定して建設された建物があるだろうか。作ることに壊すことがすでに含まれている。これが生命のあり方だ。そろそろ私たちも自らの20世紀型パラダイムを作り替える必要があるのではないだろうか。」
また、10月19日の朝日新聞の朝刊に掲載された、同氏の「霜柱の素朴な研究」と題されたコラムを全文引用させていただくと、
「北国からは早くも初冠雪や初霜の知らせが届き出した。都会はすっかり舗装されてしまったが、私が小学生の頃はまだ、寒い朝、通学の路傍のあちこちの地面に霜柱ができていた。それを運動靴で踏んでいくと、ウェハースをかむようにサクサクと気持ちのよい音がした。
霜柱とは、土の中の水分が凍って地面を押し上げたもの、と思われがちだが、話はそんなに簡単ではない。実はここにちょっとしたミステリーがある。霜柱を形成する氷の量は、もともとその厚みに含まれている水の量よりずっと多いのだ。水はいったいどこからくるのだろう?
氷と雪の研究で有名な中谷宇治吉郎の随筆を読んでいたら面白い記述があった。戦前、身近な霜柱の生成に興味を持った子どもたちがいた。自由学園の女子生徒たちである。彼女たちは凍てつく夜、霜柱に目印をつけたり、ブリキ缶を埋めたりして実験を重ね、ついに水が毛管現象で地中深くから吸い上げられていることを突き止めた。中谷は『この研究にとりかかられた娘さんたちの勇気には、大いに敬服した』『無邪気なそして純粋な興味が尊いのであって、良い科学的な研究をするにはそのような気持ちが一番大切なのである』と高く評価した。素朴な研究であっても専門家を瞠目させることがある。科学の萌芽(ほうが)は霜柱の成長に似ている。」
いずれの文章も大変興味深く読ませていただきました。皆さんは読んでみて、いかがでしたか?
→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto)