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山田詠美『珠玉の短編』その2

2017-10-29 06:53:00 | ノンジャンル
 昨日からの続きです。
 どうやら、漱子の小説など真剣に読んでいないようだ。珠玉の復権などと言い出したのも怠慢を誤魔化すためのでっち上げだろう。元々、誉めるところに苦労する短編には「珠玉の」と付けて置くのがならいなのに違いない。適当に流しても問題のない仕事は極力そうする。正しい編集者の姿勢だ。夏目漱子の短編の題名は「きょうだい血まみれ猫灰だらけ」という。漱子は玉本のおかげで「珠玉」について考えてしまった。まずは、敵のことを知らなくてはならない。現に、今日、締め切りがせまりつつある作品に着手するべく最初の一行を書き出したら、こんなふうになってしまったのである。〈夫が逝ったのは、五年前の春、ちょうどいまこの時のように、はらはらと桜が散りそめる午後の光の中でだった。〉あっあー、なんでー!?と慌てふためく漱子であった。本来なら、自分は、こう書き始めるべきではないのか。〈夫が獄死したのは、五年前のリンチ、ちょうどいまこの時のようにたらたらと血が流れ続ける肛門裂傷の果てであった。〉そこで覚醒した漱子は、急きたてられるようにして、玉本に電話した。「きょう猫」の書き直しを掲載して欲しいと頼むためである。「題名も変えようと思ってんだわ。『きょうだい死だらけ猫愛だらけ』とかさ」。恐る恐るの提案だったが、玉本は、快く承諾した。そして掲載誌が送られて来た。心ならずもわくわくして目次を開いた漱子だが、またもや唖然とせざるを得なかった。題名の横にあったのは〈真心の掌篇〉の一行。ふう。今度は真心に取り憑かれるのか。夏耳漱子の受難は続く。
『箱入り娘』
 新しく作られた工場の工場長の娘・美津子は文字通り箱入り娘でした。私・治子は小さい食堂屋の娘で、美津子はあこがれの的でした。美津子は自分のことを「引き受けられるか、そうじゃないかを話し合われる子なの」といいます。「どうして?」「さあ。悪い子だからじゃない?」。美津子の家に招かれた私は、つい「箱入り娘」という言葉を口にしてしまうと、それに激昂した美津子はチェストと呼ばれる大きな箱を開け、中身をすべて外に出し、その箱の中に私を突き飛ばしました。その勢いでバランスを崩した私は箱の中にすっぽりとはまってしまったのです。「これから、ずうっと、美津子の召し使いになるんなら、ここから出してやってもいいよ」。私は黙ったままでした。「美津子の召し使いになったら、欲しいものは何でもあげるよ」。やがて美津子の声がしなくなり、私は難なく箱から外に出ることができました。それ以来、私は、美津子の意のままに動いていました。「箱入り娘になった気分はどうだ?」「はい、とってもとっても幸せです」「そんなことはないだろう!」「とってもとっても幸せです」「嘘だ! そんなことはないだろう! つらいと言え!」「いいえ、幸せです。ようやく箱入り娘になれて幸せなのです」このような仕様もないやり取りがくり返された揚句に、美津子は泣き出してしまうのが常でした。地元の子供たちによる妬みと美津子の理不尽な要求に耐えながら、今は、人間修行の時なのだ、と自分に言い聞かせたものです。でも、私が耐え難きを耐えていたのは、本当は理由があったのでした。それは工場長さんと未亡人である私の母との密会の場を目撃してしまったことでした。工場長さんとお母ちゃんが結婚したら、私は箱入り娘になる! どうしよう、本当にそうなったら。そうです。その期待が、私に忍耐を強いていたのでした。しかし、もちろん、そんなふうに上手く事は運ばず、時流に乗れなかった工場長さんの会社はやがて閉鎖され、美津子もいなくなったのでした。風の噂によると、その数年後に胸の病で死んだそうです。りっぱな柩の中の顔は、それはそれは美しかったと聞きました。あれから五十年余りが経ちました。このたび私も、とうとう本物の箱入り娘になれました。ずい分と年は食ってしまいましたが、心持だけは娘のままで、もうじき、私は、焼かれます。
『自分教』
 自分は神であり、教祖と信者も兼ねている存在である。ひとり宗教は「みこちゃん教」と呼ばれる。私の名前である神戸巫女から付けた。本名は美子(みこ)であるが、勝手に改名させてもらった。数々の受難の末に、私が啓示を受けたのは中学の時。幼い頃から、みこちゃん教を開くまで、理不尽な扱いを受けた経験は数限りない。意地悪、苛め、仲間外れ、濡れ衣、裏切り、捏造など、犯罪人としてしょっ引いて行けないからこそ始末に困る類のちゃちな悪意なら、ほとんどすべて受け止めて来た。叔父は「美子ちゃんが、あまりにも可愛らし過ぎて、何とかして気を引きたくなっちゃうからだよ」と言い、パンツに手を入れて来て、下半身を押しつけてきた。言葉、肉体における暴力は蔓延していた。(また明日へ続きます……)