また昨日の続きです。
これを、同時代的な迷妄として切り捨てることは簡単だが、当時ひとりの若い観客だったわたしなども、そのような時代感覚や価値観を暗黙のうちに共有していたのだ。しかも、そこには若さゆえの反骨意識もあったから、すでに評価の定まった大家や巨匠に対してはことさら冷淡に振る舞ってもいた。だから増村保造や大島や吉田、あるいは三隅研次や森一生のことは云々しても、小津や成瀬を積極的に評価しようなどとは思わなかったし、仲間内でも取り立てて話題にすることもなかった。東京オリンピックの年(63年)に見た『乱れる』に思わず涙をこぼしてしまっても、そんなことはおくびにも出さない。下手に口にでもしたら、笑われてしまうと思っていたのだ。いまから振り返れば、なんとも愚かというしかないが、それをそうは思わせない、むしろ逆に考えさせるのが時代の気分であり、意識なのである。しかし、これを外しては、ある種の強制力としてもある時代性そのものが雲散霧消してしまうだろうし、歴史もただの抽象になってしまうだろう。いうまでもなく、そのような愚かさに居直ることはさらなる愚行を重ねることにしかならないが、だからといって、現在の相対的な「正しさ」を自明の前提であるかのように振舞うのも、歴史を無視した抽象にほかならない。そして成瀬巳喜男という作家も、60年代においては、一方で大家であることが自明視されながら、まさにそれゆえに、その作品の具体的なありようは、なかば括弧に括られて祭り捨てられていたのである。
そこで等閑に付されていたのは何か。映画である、というのが、いまでは自明化した答えであろう。まさに、しかり。それが、正しい答えであることは否定できない。だが、60年代当時においても、映画ということが完全に忘れられていたわけではない。ただ、戦後においては、映画というメディアそのものにワクワクするような感動や期待を抱いて対した1920年代、30年代の批評の初心が自動化し、代わって戦後的な時代意識や社会意識が前面に出てきたために、映画はなかば忘れられたのである。それを駆動していたのは、進歩という時間意識である。「新しさ」ということが、評価のキーポイントになっていたのもそのためだ。現役作家の新作は、それ自体が時間的なものとして現れるから、否応もなく旧作に対する「新しさ」が問われることになる。それでも小津のように、作品そのものが端的に、そのような映画を取りまく時間意識に抗うようなフォルムを示している場合は、小津映画の特質なるものが問われやすいが、成瀬の場合はそうではなかった。
そして、このような進歩する時間意識に浸された批評の転換が計られるのが、60年代末のことである。わたし自身にも関わりがあるので、いささか手前味噌になるが、「シネマ69」や「季刊フィルム」など新しい映画批評家の登場がそれを促したのである。そこで何よりも問題になったのは、映画とは何かを改めて問うことであり、いかに映画の具体性を批評の基軸に据えるかということだったからである。これらの雑誌が、若い世代の戦後民主主義批判と時期を同じくして登場したのは偶然ではない。そこで60年代前半まで自明化していた戦後的な時代意識や社会意識が批判されたように、映画批評における戦後的な観念の解体が目指されていたのである。
だが、当時の「シネマ」では、加藤泰やマキノ雅弘や深作欣二や鈴木清順が論じられ、彼らの作品の映画としての力を探る試みはなされたが、成瀬巳喜男が正面切って論じられることはなかった。誰かの口の端にのぼったかもしれぬが、それ以上に、作家成瀬は視野のうちには入っていなかったのである。それはやはり、彼がすでに既存の大家であったからであろう。(中略)成瀬の存在が改めて視野に入ってくるのは、早く見ても70年代半ば頃からである。また、そのためには見る側が、直線的な時間意識から自由になる必要があった。つまり、ポストモダン的な時間意識が浸透してくる必要があったのである。そのなかで改めて作品が作られた時代や社会という外的な側面が括弧に入れられて、作家・成瀬巳喜男の映画が前景化することが可能になったのである。しかし、忘れてならないのは、そのこと自体も歴史の所産であることである。現在の成瀬について語られる言葉は、60年代とは比較にならぬほど豊かではあるが、それが作家成瀬を自明化し、映画を自明化するならば、そこでの批評もまたいずれ好事家(おたく!?)的ものいいに堕してしまうであろう。作品も映画も常に生きて動いているものであって、決して固定したものではあり得ないのだから。そのことを身をもって示したのが、ほかならぬ成瀬巳喜男という存在である。
これを、同時代的な迷妄として切り捨てることは簡単だが、当時ひとりの若い観客だったわたしなども、そのような時代感覚や価値観を暗黙のうちに共有していたのだ。しかも、そこには若さゆえの反骨意識もあったから、すでに評価の定まった大家や巨匠に対してはことさら冷淡に振る舞ってもいた。だから増村保造や大島や吉田、あるいは三隅研次や森一生のことは云々しても、小津や成瀬を積極的に評価しようなどとは思わなかったし、仲間内でも取り立てて話題にすることもなかった。東京オリンピックの年(63年)に見た『乱れる』に思わず涙をこぼしてしまっても、そんなことはおくびにも出さない。下手に口にでもしたら、笑われてしまうと思っていたのだ。いまから振り返れば、なんとも愚かというしかないが、それをそうは思わせない、むしろ逆に考えさせるのが時代の気分であり、意識なのである。しかし、これを外しては、ある種の強制力としてもある時代性そのものが雲散霧消してしまうだろうし、歴史もただの抽象になってしまうだろう。いうまでもなく、そのような愚かさに居直ることはさらなる愚行を重ねることにしかならないが、だからといって、現在の相対的な「正しさ」を自明の前提であるかのように振舞うのも、歴史を無視した抽象にほかならない。そして成瀬巳喜男という作家も、60年代においては、一方で大家であることが自明視されながら、まさにそれゆえに、その作品の具体的なありようは、なかば括弧に括られて祭り捨てられていたのである。
そこで等閑に付されていたのは何か。映画である、というのが、いまでは自明化した答えであろう。まさに、しかり。それが、正しい答えであることは否定できない。だが、60年代当時においても、映画ということが完全に忘れられていたわけではない。ただ、戦後においては、映画というメディアそのものにワクワクするような感動や期待を抱いて対した1920年代、30年代の批評の初心が自動化し、代わって戦後的な時代意識や社会意識が前面に出てきたために、映画はなかば忘れられたのである。それを駆動していたのは、進歩という時間意識である。「新しさ」ということが、評価のキーポイントになっていたのもそのためだ。現役作家の新作は、それ自体が時間的なものとして現れるから、否応もなく旧作に対する「新しさ」が問われることになる。それでも小津のように、作品そのものが端的に、そのような映画を取りまく時間意識に抗うようなフォルムを示している場合は、小津映画の特質なるものが問われやすいが、成瀬の場合はそうではなかった。
そして、このような進歩する時間意識に浸された批評の転換が計られるのが、60年代末のことである。わたし自身にも関わりがあるので、いささか手前味噌になるが、「シネマ69」や「季刊フィルム」など新しい映画批評家の登場がそれを促したのである。そこで何よりも問題になったのは、映画とは何かを改めて問うことであり、いかに映画の具体性を批評の基軸に据えるかということだったからである。これらの雑誌が、若い世代の戦後民主主義批判と時期を同じくして登場したのは偶然ではない。そこで60年代前半まで自明化していた戦後的な時代意識や社会意識が批判されたように、映画批評における戦後的な観念の解体が目指されていたのである。
だが、当時の「シネマ」では、加藤泰やマキノ雅弘や深作欣二や鈴木清順が論じられ、彼らの作品の映画としての力を探る試みはなされたが、成瀬巳喜男が正面切って論じられることはなかった。誰かの口の端にのぼったかもしれぬが、それ以上に、作家成瀬は視野のうちには入っていなかったのである。それはやはり、彼がすでに既存の大家であったからであろう。(中略)成瀬の存在が改めて視野に入ってくるのは、早く見ても70年代半ば頃からである。また、そのためには見る側が、直線的な時間意識から自由になる必要があった。つまり、ポストモダン的な時間意識が浸透してくる必要があったのである。そのなかで改めて作品が作られた時代や社会という外的な側面が括弧に入れられて、作家・成瀬巳喜男の映画が前景化することが可能になったのである。しかし、忘れてならないのは、そのこと自体も歴史の所産であることである。現在の成瀬について語られる言葉は、60年代とは比較にならぬほど豊かではあるが、それが作家成瀬を自明化し、映画を自明化するならば、そこでの批評もまたいずれ好事家(おたく!?)的ものいいに堕してしまうであろう。作品も映画も常に生きて動いているものであって、決して固定したものではあり得ないのだから。そのことを身をもって示したのが、ほかならぬ成瀬巳喜男という存在である。