国立映画アーカイブが2007年に催した「没後30年記念 チャップリンの日本 チャップリン秘書・高野虎市遺品展」に寄せられた大野裕之さんの『「チャップリンの日本~チャップリン秘書・高野虎市(こうのとらいち)東京展」に寄せて』の全文を転載させていただこうと思います。
「チャップリン秘書・高野虎市の奥さまが広島にいらっしゃると聞いて、ぜひともお会いしたいと手紙を書いたのは、2004年8月のことだった。見ず知らずの私とお会いしていただけるだろうかと、恐る恐るお電話をさしあげると、高野虎市夫人・東嶋トミエさんは、「まあ、ありがとうございます。高野もあの世で喜んでいます」と朗らかな声でお話ししてくれた。
その年の12月に、私ははじめてトミエさんのお宅を訪れた。高野とともに暮らし、その最期を看取られた方とともにいるという奇蹟を噛み締めながら、一言も聞き漏らすまいとお話をうかがった。数年前まで「木瓜」という小料理屋を営んでおられたトミエさんの手料理をおいしくいただく。高野も親しんだであろう上品な味のおでん。一緒に少しお酒も頂いて、トミエさんはふるさとの福岡の歌を歌ってくださった。その晩は、二階に泊めてもらった。
翌日、大きな木箱に保管された資料を見せていただきながら、私は信じられない気分でいた。チャップリンの直筆のサインがある、エドナ・パーヴァイアンスやジャッキー・クーガンの直筆のサインがある……水谷八重子とチャップリンの写真、そして、チャップリン来日時の鉄道フリーパス!世界の宝ともいうべき貴重な資料が木箱一杯に詰まっていた。
チャップリン撮影所を訪れたハリウッドの大スターたちの素顔……ダグラス・フェアバンクスと「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード、アイダ・ルピノに『街の灯』のヒロインのヴァージニア・チェリル、ローレル・アンド・ハーディーにジョー・E・ブラウン……サミュエル・ゴールドウィンとチャップリンが『サーカス』のセットでポーズをつけ、最初のトーキー映画で歌声を披露したアル・ジョルソンが、『街の灯』のセットでサイレント芸術を最後まで守ったチャップリンと談笑している。それにしても、ロス・アンジェルスの日本料理屋で開かれた剣劇の遠山満一座歓迎パーティーの真ん中で、チャップリンとキング・ヴィダーが肩を組んでいる写真はどうだ。日本のチャンバラと世界の喜劇王との交流に、綺羅星のごとく輝く映画人たちのまさに「ビッグ・パレード」だ。
高野虎市の遺品は当時のハリウッド・スターたちのポートレートに留まらない。500点もの写真のなかには、牛原虚彦、山田五十鈴、上山草人などの監督・俳優から城戸四郎や森岩雄、六車修などの映画会社の幹部までがおさまっており、作家の久米正雄も含めて多くの日本の文化人がチャップリン撮影所詣でをしていたことが伺える。1,000点を超える手紙のなかには、城戸四郎が「チャップリンこそ私の唯一の師匠」と高野に宛てたものもある。城戸がその後の松竹の路線を確立したことを思うと、映画史の系譜に新しい視座をくれる資料だ。
撮影中のチャップリンは大の来客嫌いであった。門には「面会お断り 例外なし」と掲げてあり、当時の広報担当のカーライル・ロビンソンの回想によるとイギリスの舞台時代の友人ですら撮影の見学は出来なかったという。チャーチルが訪ねてきたときも、私服・素顔で対応している。ところが、高野の遺品を見ると、例外的に日本人の来客とは、俳優のみならず、「**大学野球団」のメンバーたちとまで気軽にあの扮装で写真を撮っている。これは、チャップリン研究に携わる私にとっては、ほとんど大スクープのような事実だった。牛原虚彦は、「高野への信頼がそのまま日本人全体への信頼になっている」と言っていたが、チャップリンの高野への信頼は破格のものだったことがあらためて分かった。
1932年のチャップリン初来日の際の資料も面白い。松竹の大谷竹次郎とおでんを食べているところや、歌舞伎座の楽屋に土足で上がり込んでいる写真などのほかに、高野がせっせと集めていたチャップリン関連記事の切り抜きのスクラップブックも貴重だ。滞在中に五・一五事件が勃発。実はチャップリンこそ海軍将校による暗殺の標的となっていた。この影響で、チャップリンは京都行きを取りやめるのだが、そんな非常時に京都ホテルから届いた「わが京都を見ずに帰ることは遺憾」とう手紙が面白い。
書簡類のなかの海軍関係者からの手紙は、五・一五事件でチャップリンが難を逃れたのは、高野の情報収集のお陰でもあったことを示す。親戚同士のやりとりは映画研究に留まらず日系人移民の生活を知る上でも貴重な資料だ。(明日へ続きます……)
「チャップリン秘書・高野虎市の奥さまが広島にいらっしゃると聞いて、ぜひともお会いしたいと手紙を書いたのは、2004年8月のことだった。見ず知らずの私とお会いしていただけるだろうかと、恐る恐るお電話をさしあげると、高野虎市夫人・東嶋トミエさんは、「まあ、ありがとうございます。高野もあの世で喜んでいます」と朗らかな声でお話ししてくれた。
その年の12月に、私ははじめてトミエさんのお宅を訪れた。高野とともに暮らし、その最期を看取られた方とともにいるという奇蹟を噛み締めながら、一言も聞き漏らすまいとお話をうかがった。数年前まで「木瓜」という小料理屋を営んでおられたトミエさんの手料理をおいしくいただく。高野も親しんだであろう上品な味のおでん。一緒に少しお酒も頂いて、トミエさんはふるさとの福岡の歌を歌ってくださった。その晩は、二階に泊めてもらった。
翌日、大きな木箱に保管された資料を見せていただきながら、私は信じられない気分でいた。チャップリンの直筆のサインがある、エドナ・パーヴァイアンスやジャッキー・クーガンの直筆のサインがある……水谷八重子とチャップリンの写真、そして、チャップリン来日時の鉄道フリーパス!世界の宝ともいうべき貴重な資料が木箱一杯に詰まっていた。
チャップリン撮影所を訪れたハリウッドの大スターたちの素顔……ダグラス・フェアバンクスと「アメリカの恋人」メアリー・ピックフォード、アイダ・ルピノに『街の灯』のヒロインのヴァージニア・チェリル、ローレル・アンド・ハーディーにジョー・E・ブラウン……サミュエル・ゴールドウィンとチャップリンが『サーカス』のセットでポーズをつけ、最初のトーキー映画で歌声を披露したアル・ジョルソンが、『街の灯』のセットでサイレント芸術を最後まで守ったチャップリンと談笑している。それにしても、ロス・アンジェルスの日本料理屋で開かれた剣劇の遠山満一座歓迎パーティーの真ん中で、チャップリンとキング・ヴィダーが肩を組んでいる写真はどうだ。日本のチャンバラと世界の喜劇王との交流に、綺羅星のごとく輝く映画人たちのまさに「ビッグ・パレード」だ。
高野虎市の遺品は当時のハリウッド・スターたちのポートレートに留まらない。500点もの写真のなかには、牛原虚彦、山田五十鈴、上山草人などの監督・俳優から城戸四郎や森岩雄、六車修などの映画会社の幹部までがおさまっており、作家の久米正雄も含めて多くの日本の文化人がチャップリン撮影所詣でをしていたことが伺える。1,000点を超える手紙のなかには、城戸四郎が「チャップリンこそ私の唯一の師匠」と高野に宛てたものもある。城戸がその後の松竹の路線を確立したことを思うと、映画史の系譜に新しい視座をくれる資料だ。
撮影中のチャップリンは大の来客嫌いであった。門には「面会お断り 例外なし」と掲げてあり、当時の広報担当のカーライル・ロビンソンの回想によるとイギリスの舞台時代の友人ですら撮影の見学は出来なかったという。チャーチルが訪ねてきたときも、私服・素顔で対応している。ところが、高野の遺品を見ると、例外的に日本人の来客とは、俳優のみならず、「**大学野球団」のメンバーたちとまで気軽にあの扮装で写真を撮っている。これは、チャップリン研究に携わる私にとっては、ほとんど大スクープのような事実だった。牛原虚彦は、「高野への信頼がそのまま日本人全体への信頼になっている」と言っていたが、チャップリンの高野への信頼は破格のものだったことがあらためて分かった。
1932年のチャップリン初来日の際の資料も面白い。松竹の大谷竹次郎とおでんを食べているところや、歌舞伎座の楽屋に土足で上がり込んでいる写真などのほかに、高野がせっせと集めていたチャップリン関連記事の切り抜きのスクラップブックも貴重だ。滞在中に五・一五事件が勃発。実はチャップリンこそ海軍将校による暗殺の標的となっていた。この影響で、チャップリンは京都行きを取りやめるのだが、そんな非常時に京都ホテルから届いた「わが京都を見ずに帰ることは遺憾」とう手紙が面白い。
書簡類のなかの海軍関係者からの手紙は、五・一五事件でチャップリンが難を逃れたのは、高野の情報収集のお陰でもあったことを示す。親戚同士のやりとりは映画研究に留まらず日系人移民の生活を知る上でも貴重な資料だ。(明日へ続きます……)