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ジャン=リュック・ゴダール監督『気狂いピエロ』

2022-07-23 01:32:45 | 日記

 ジャン=リュック・ゴダール監督・脚本・台詞の1960年作品の4Kレストア版『気狂いピエロ』を「あつぎのえいがかんkiki」で観ました。
 サイト「映画ウォッチ」の「ネタバレあらすじ」に一部加筆修正させていただくと、
「舞台は1960年代のフランス、パリ。フェルディナン(ジャン=ポール・ベルモンド)は、裕福な妻マリア、そしてまだ幼い娘と共に生活を送っていました。しかしその恵まれた生活がフェルディナンには退屈でしかなく、離婚することすら面倒で、空虚な毎日が続いています。
 そんなある夜、フェルディナンは嫌々パーティーに出席することになりました。娘の子守として友人フランクの姪、マリアンヌ・ルノワール(アンナ・カリーナ)がやって来ます。
 渋々家を出たフェルディナンは、退屈なパーティーに嫌気が差して1人先に帰宅します。パーティーにはアメリカの映画監督サミュエル・フラーがいてモーパッサンの『悪の華』の映画化を考えていると話していました。そして家で待っていたマリアンヌはもう帰る地下鉄もないので、フェルディナンが車に乗せ、彼女の家に向かいました。2人は色々なことを語り合い、以前、恋人同士だったこと、そして今でも愛し合っていることを確認します。
 マリアンヌはフェルディナンのことを「ピエロ」と呼んでいました。フェルディナンはその度に訂正します。マリアンヌを自宅に送り届けたフェルディナンは、そのまま彼女と一夜を共にしました。
 翌朝。目を覚ましたフェルディナンは、マリアンヌが用意してくれた朝食を上機嫌で食べます。しかし彼女の家には異様なものがありました。ハサミを首に突きたてられた男の遺体です。そこへ訪ねてきた男をマリアンヌは今度は頭を殴って倒します。
 2人は罪から逃れるため、着の身着のままで家から飛び出します。2人はガソリンスタンドで従業員に暴行を加え、ガソリン代を踏み倒します。更に事故に見せかけて車を燃やしたり、盗んだりして逃げ続けました。マリアンヌは、南仏に住む兄フレッドを訪ねようと提案します。
 逃避行の末、フェルディナンとマリアンヌは海辺で2人きりの生活を始めました。文学を愛するフェルディナンは本を何冊も買い求め、読書に没頭しています。創作のような日記も書いていました。フェルディナンにとっては不満の無い生活でしたが、マリアンヌは退屈でなりません。
 うんざりしたマリアンヌは、ここを出たいと言い出しました。2人は金を稼ぐため、アメリカ人相手にベトナム戦争をテーマにした芝居を披露します。金を多めに奪ったマリアンヌは、我慢出来ずに街に戻りました。
 フェルディナンが1人で過ごしていると、マリアンヌから助けを求める電話がかかって来ます。フェルディナンが慌てて駆けつけると、室内にはハサミで首を刺された小男の遺体がありました。フェルディナンが動揺していると、2人組のギャングが現れます。
 彼らは自分達の仲間を殺害し、金を奪って逃げたというマリアンヌを探していました。マリアンヌの悪事を知らないフェルディナンは、拷問の末に解放されます。心身ともに疲弊しつつも、フェルディナンはマリアンヌを探し続けました。
 フェルディナンとマリアンヌの再会はトゥーロンの港でした。マリアンヌの方もフェルディナンを探していたと言います。彼女はフレッドと合流していました。フレッドは武器の密売を行っているらしく、マリアンヌに請われてフェルディナンもギャングとの取引に加担させられます。
 しかしマリアンヌは金を受け取ると、フェルディナンを置き去りにしてフレッドと逃げてしまいました。フェルディナンは2人を追いかけ、射殺。その後、顔に青いペンキを塗りたくり、ダイナマイトの束を巻きつけます。マッチの火が導火線に移り、慌てて消そうとしても間に合いませんでした。ダイナマイトが爆発し、この映画は終わりを迎えます。

 ヒッチコックのバーナード・ハーマンを彷彿とさせる音楽、引用に次ぐ引用からなるベルモンドのモノローグ、そして映画的引用(サミュエル・フラー、ベルモンドによるミシェル・シモンのモノマネ、ジャン=ピエール・レオ、ジーン・セバーグ)を含む、原色が美しい映像、それぞれが独立しながら有機的なつながりを持ち、まさに「映画」、それも情動的な(ヒッチコックやトリュフォーが言うところの「パッショネイト」な)究極の「映画」を現出させていました。
 そしてこの映画のなりよりも魅力的な点はアンナ・カリーナの存在で、彼女はこの映画の中で2曲の歌を歌い、また人を二人殺し、最後にはベルモンドに殺されてしまうのですが、彼女が主役でなければ、当時のシネフィル(映画狂い)は、あれほど熱狂しなかったに違いありません。
 この映画は今まで私も何度も見ているのですが、見るたびに新しい発見があり、まさに生きている映画なのだと思いました。