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阿川弘之『霊三題』

2012-09-27 07:53:00 | ノンジャンル
 山田詠美さんとの対談本『文学問答』の中で、終戦後に書かれ、戦争というものがよく分かると河野多惠子さんが言っている、阿川弘之さんの『霊三題』を読みました。
 『看護婦の幽霊』 わたしは武漢の漢口海軍病院に幽霊が出るという話を聞いたのは、終戦後の昨年の秋、十一月の末か十二月の初めか、もっと先だったか今ははっきりしません。病院にはクラスの風野が警備指揮官として泊りこみ、親しい歯科医の丸山中尉もいました。そこを訪ねたわたしは、三人で合流したあと、風野とわたしで支那町で酒と肴を買って帰り、丸山中尉の希望で、歯科の看護婦を二人よんで、酒宴を催しましたが、そこで六階の階段で富永シズの幽霊が出るという話になります。富永シズは終戦後二カ月ばかりして病死した外科の看護婦で、軍医長のU中佐からひどくつらくあたられていたらしく、ある晩、風野は夜おそく闇に包まれた裏階段を昇っていた時、サワサワと衣ずれの音がして何やら白いものがすっと近づき、トンと肩にぶつかり、はっと思った時にはもう白いものは消えるように闇の階段を降って行ってしまっていたとのこと。それから二日して今度は丸山がやられ、「誰だ」と気を強くしてきいたところ、「すみません」という微かな声を聞いたようでもあり、空耳のようでもあったといいます。風野、丸山の二人は、噂になるのを防ぐため一切黙ることにしましたが、それから一週間ばかりすると、誰からともなく、富永の幽霊が出るという噂が病院の中にこっそりひろまり始めました。医務科の下士官が巡検に廻る時、何度もランプの火が消え、三度目に消えた時、ランプの前を白い女がすうっと通り、顔は暗くてわかりませんでしたが、姿は確かに富永だったということで、また富永が生前していたように、「検温注意」という声が病室から病室へと伝わって、影のように幻のように富永が通るのを見たという患者は1人ではなかったというのでした。十二月の二十四日が富永の四十九日にあたり、僧籍に在る者が供養したら、それから幽霊は出なくなったという話でした。二月の初旬、風野もわたしも、富永の英霊も、漢口を発って江を下り、わたしと風野は三月末に博多に上陸、復員しました。富永の英霊も、もう上海から病院船で送られて郷里に帰ったにちがいありません。丸山君は部下をU軍医中佐に預けて先に帰る気持になれないと言ってまだ漢口に残っています。
 『夢枕』 同じ漢口で、広島市が原子爆弾にやられた報らせが入り、日ならずして被害の詳細がわかりました。わたしの父母は広島にいたので、わたしは絶望しましたが、夢枕に立ってくれない父母に対してものたりなくもあり、不思議な気がしました。そしてあるいは父母は生きているかも知れぬと思ったりもしました。そしてそういう晩、一度わたしは、死んだものなら今夜是非わたしの夢枕に現れて下さいと、一生懸命念じながら寝たことがありました。それでも父母は夢枕に立ちませんでした。三月の末、復員して帰ってみると父母は広島に生きていました。わたしはそれから夢枕というものを、逆な意味から信じる気持が強くなりました。
 『ある日』 四月の初め、わたしは東京に来ました。靖国神社の境内を出て、市ヶ谷から省線電車に乗ったら、急にさみしくなって来ました。死んだ人々のことをいろいろと思い出しました。霊が何もしないこんな静かなものなら、それだけででも、わたしたちは生命をもっともっと大切にすべきだと思いました。荻窪で下りて家に帰ると、先ごろ葉書を出しておいた広島高等学校時代の大浜という友人から来た手紙が届いていました。文中に光風さんとあるのは、高等学校の時の恩師、中島光風先生のことです。光風さんは二人の幼子を残して奥さんの後を追って広島で死にました。手紙の所は奈良の丹波市になっていました。その晩わたしはすっかり憂鬱になってしまい、早く寝ました。

 3編合わせて上下段7ページほどの短編でしたが、淡々と綴られた文章が、戦争の悲惨さを静かに示していたように思いました。

→Nature Life(http://www.ceres.dti.ne.jp/~m-goto/

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