貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

土で造った山城

2019-07-11 09:23:20 | 日記

土で造った山城

令和元年7月11日

 これから久し振りのお日様が

顔を出しそう?

 山中城は、永禄年間(1560年代)

小田原城を守る城として、後北条

氏により創築される。      

 天正18年(1590)、天下統一を

目指す豊臣秀吉の大軍の前に、

わずか半日で落城したといわれる

悲劇の城である。

 400年前の遺構がそのまま復元

されている石を使わない土だけの

山城は、全国的にも非常に珍しい

もの。

 昭和56年、三島市制40周年に

合わせて史跡公園として一般開放し、

以来多くの人に憩いの場として

親しまれている。

 また、平成18年、春から晩秋に

かけていろいろな花木、歴史的な面、

技術的な面で評価され、

「日本百名城」にも選定されて

いる。

 

藤棚もある。

絶景! 富士山だあ!!!

 最高の憩いの場。

 山城が復元された・・・なんて、

想像するだけでも最高!

 つづく。


花も咲け咲け 温泉の煙

2019-07-10 09:11:29 | 日記

花も咲け咲け 温泉の煙

令和元年7月10日

 東光庵跡の階段入口の手前の廃屋?

 さて、東光庵の句歌碑。

 居然は、伊勢原出身の俳人で、

鴫立庵門下生。

 本名は、三箸尊明。

「居然湯けむりの碑」

その句は、

「月雪や 花保とゝ岐す

    温泉の煙」

 四方山人。

 江戸の幕臣で大田南畝。

長崎奉行所に出役の際、箱根に

立ち寄る。

 狂歌師。狂歌碑がある。

「てる月の 鏡をぬいて 

樽まくら 雪もこんこん 

   花もさけさけ」。 

 祖友は、上総(千葉)出身。

芦の湯で療養中、23歳の若さ

で病没。

 追悼を込めて建立。

 


 句は、

「逗留と 定めて旅の 

    月夜かな」

 お地蔵さんも当時流行。

充足の表情!


月夜と蝉時雨

2019-07-09 08:58:56 | 日記

月夜と蝉時雨

令和元年7月9日

 東光庵の石仏群。

 

一つひとつ。皆違うし、皆魅入る。

風雪が、また情趣を倍加している。

そして、芭蕉句碑。

 鴫立庵の庵主、遠藤薙啄さんの寄贈。

 句は、

「しばらくは 花のうへなる 

       月夜哉」

 そして、そして、仰天の域?

東光庵の庵主が、「中曽根康弘」さん。

元首相。

 我が青梅の隣の日の出にも、以前

山荘を持っておられ、首相当時ソ連の

ゴルバチョフ夫妻を招待して人。

 当日、日の出の役場で会合中。

皆で出迎え、ご夫妻を歓迎した記憶

が蘇る。

 俳人でもあるのだ。

 中曽根康弘さんの句は、

「くれてなお 命の限り 

      蝉しぐれ」

命の限り 蝉時雨・・・もいいねえ!


復元された東光庵

2019-07-08 08:46:00 | 日記

復元された東光庵

令和元年7月8日

 今朝も箱根町。

 初めて、東光庵跡へ。

 荒廃した小径に入り、廃屋の傍の

荒れ地に駐車。

 急階段を上がると、復元された

東光庵と広大な庭がちょっと

した別天地。

「へええ!」

 感嘆の声が洩れる。

 東光庵は明治15年に朽ち果て

取り壊される。 

 その後、箱根町の指定史跡となり、

約120年ぶり、平成13年に再建

される。

 芦之湯は、文化・文政期(1804から

1830年)の頃、箱根七湯の中で

もっとも標高が高く、江戸から

最も遠い場所にありながら、

硫黄泉のもつ独特の温泉効用と

夏の涼しさが江戸時代の人々に

大変人気を呼び、大いに賑わった処。

 熊野権現の境内に建てられた

東光庵薬師堂に集まり、清水浜臣や

賀茂真淵、山本北山など多くの文人

や墨客が湯治のかたわら、碁や将棋

に興じ、句会や茶会などの風流を

楽しんだといわれている。

 これが、新に造られた熊野神社。

  

 句歌碑や石仏を境内の山側に

整備され、一つひとつ明確な説明も

あり、至極有難い。

 一つひとつの句歌碑紹介は、明日へ。

東光庵の中。

東光庵説明

 

 そして、現存の薬師堂。

薬師堂の説明。

 


曾我兄弟

2019-07-07 09:07:07 | 日記

曾我兄弟

令和元年7月7日

 七夕!

 今夜の星空は、望み薄かな?

 さあ、箱根湯本へ。

 正眼禅寺へ。

 二度目の参拝。

 住職婦人が庭掃きをしておられる。

挨拶を交わし参拝!


 正眼寺は、鎌倉時代箱根山に

広まっていた地蔵信仰の中で

生まれた寺。

 創建年代は不明。

 寺の前身である湯本地蔵堂の

別当寺として鎌倉前期には存在し、

その頃は勝源寺と呼ばれている。

 戦国時代には一時衰微。

 江戸時代、江戸屈指の材木問屋

冬木屋の援助により諸堂を再建され、

また、小田原城主大久保氏より

境内地・地蔵田が安堵され、復興

する。

 再興開基には早雲寺一七世

菊径宗存を招請し、この時より

当寺は臨済宗大徳寺派に属す禅寺

となり、今日に至る。

 また、曽我十郎、五郎の曽我兄弟の

ゆかりの寺でも知られている。


 

芭蕉句碑もある。

 芭蕉句碑の句は、

「山路来て なにやらゆかし

        菫草」