本日より劇場公開される氷室京介ドキュメンタリー映画、
『DOCUMENT OF KYOSUKE HIMURO "POSTSCRIPT"』。
公開の朝を前にして、先ほど、その映画の監督でもある、
日本テレビの山崎大介氏のインタビュー記事がネット上にUPされた。
http://www.sensors.jp/post/kyosuke-himuro-lastgigs-postscript.html
※「山崎さんに感謝したい人は沢山いると思います。」と、
インタビュアーの、西村真里子氏も語っていた通り、
そうとう濃い、面白いインタビューでした。感謝します。
もやもやしていた霧が晴れたとでも言おうか、
「やっぱりそうだよね」と納得したのは俺だけではないだろう。
そう、もともと数年前に、50歳になった氷室に対し、
「氷室京介の天命とはなにか」という問いを投げかけたのは同氏であり、
当時そのことも氷室は語っていたわけで、
KING SWING会報誌でも山崎氏のインタビュー記事は掲載されていたわけだし。
なのに、何故、ネット配信版ポストスクリプト、或いはその予告編動画等では、
例の、"私氏"は、オフィスにあるパソコンの前で、
さも手柄は自分にあるかのようにドヤ顔をしていたのだろうか、、と。
「おいおい、大将。それは山崎氏がインタビューしたことだろ。
山崎氏が氷室に問うたことにより始まったことだろ。
なんで貴様がさも貴様の手柄のように出てくるんや、のう。」
と、真夜中のパソコンの前で白痴笑いを浮かべていたのは先日の御話。
http://blog.goo.ne.jp/midnight_xxx/e/eaf0ef1f7ae67f101a9cbbf1bfced0aa
こちらとしては、被害者山崎氏の、
"ハメラレタ" 出来事は重々承知の上であったわけで、
その流れがあって、別な人間が出てくれば、
手柄を横取りしたような違和感を感じたとしても仕方がないだろう。
つまりだ。以前にも語ったように、その先日も思った"私語り" も含めて、
下手糞なプレゼンだな、、と感じたのはその通りなわけで、
あるいは今度は、こちらがドヤ顔をせざるを得ないという、
その時に感じた視点は、決して間違いではなかったと言うことなのだ。
まず前提として、何も考えてない人間が多いのは事実ではある。
純粋に、或いは単純に目の前のことだけを見ている、、
或いは見れない人間が多いのが前提ではある。
数の論理でいけば、
「その程度のこと」で納得させておけば良いというのはあるかもしれない。
しかし、俺のように、全てのことを考えるまでもないオートマチック的な感覚で、
過去、或いは未来とを照合し、今を測るという人間がいるのもまた事実でもあるわけなのだ。
"この人(私氏)が山崎さんだってみんな分かるんじゃないかな"
もちろんそれが答えだと分かるにせよ、
そんな安易な思いで、彼を差し込んだのだとしたら、
或いは彼もまた、第二の被害者であると言えるかもしれないだろう。
これも昨日の御話にはなるが、氷室京介 幻の写真集『MEMENT』が、
完全受注生産で販売決定することが決まった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160630-00000011-exmusic-musi
そもそも幻とは何か。皆さんは幻と聞いてどういうイメージを抱くだろうか。
承知してるとでも言おうか、或いは噂には聞いているとでも言おうか、
少なくとも、そこに大小の差はあれど、
ファンの間では既に情報(噂)が精通しているということが前提であって、
それで初めて「幻の」と語るのが筋ではあるだろう。
しかし俺は、この写真集の発表(P☆J☆Cで展示されているオリジナル)があるまで、
その存在の一切を存じ上げなかった。
或いは俺の勉強不足なのだろうか。名前はもちろん、そういう写真集があるということさえも知らなかった。
※追記:後日、専門サイトでその詳細を知れば、「なるほど、これは幻だな」と納得できました。
よって、一部記事を削除しました。御了承下さい。
http://store.kadokawa.co.jp/shop/pages/mement.aspx
或いはこれも、、、、、、
「俺達は、氷室京介を卒業できない」を考えた人が関わったコピーなのだろうか、
http://blog.goo.ne.jp/midnight_xxx/e/743eff08f5155222c27904224d67404d
やはり、背景を無視したものが先に見えてしまう、そんなキャッチコピーだと言えるかも知れないだろう。
「それってどういう意味なのですか?」と問われて言葉をほぐしてみせた時に、
理路整然とした中身が希薄過ぎるのだ。矛盾だらけで説得力がない。
氷室関連で、ここ最近に見る、違和感を感じる数々のキャッチコーピがあるが、
パッと思いついただけで3つ程挙げられるだろう。
・「俺達は、氷室京介を卒業出来ない」
・「また陽が昇るまで待てる場所」
・「幻の写真集」
これら3つのコピーというのは、受け手側がそう言った場合に、、
或いは、受け手側に自然とそういう空気が出来上がった時に、もっともしっくりすることであり、
与える側が言うのではセンスがないという御話なのである。
与える側が「俺達は、氷室京介を卒業出来ない」と言った場合、
受け手側はその先に何があるのだろうかと考えるのではないだろうか。
与える側が「卒業出来ない」と、思わせぶりな公認をしたのならば、
どう着地するのだろうかと、どんなプレゼンが待ってるのかと期待するのが筋。
何故なら、与える側は氷室京介に近い(人によってはイコールと取る人も)わけだがら、
或る意味で、それなりの事情は承知してるだろうし、
その上で「卒業出来ない」と言うのならば、
じゃあ、何が待っているんですか?となるのが筋ではあるわけなのだ。
無論、考えるまでもなく、オートマチック的感覚として。
「また陽が昇るまで待てる場所」と与える側が言うのならば、
絶対に昇るのだろうと信じる人も少なくはない。
我々ファンがそれを信じたいという思いとして、
「また日が昇るまで待てる場所」であるならば、やはりしっくりくる。
つまりはこれも、与える側が言うコピーではないと言えるだろう。
まあこれだけ出来ているつもりを気取ることが出来るというのも、
或る意味でたいしたものだが、…まあ、これも時代なのだろう。
つまりは、先に語った山崎氏の話だって、
時代のせいだと言えば、或いはその通りかもしれないのだ。
悲しいかな、与える側の感性が退化してるのならば、
それは受け手側も然りだということ。
つまりは受け手側が退化してるのならば、
与える側も然りだと、そこに永遠に続くループが渦巻いているということなのである。
「老兵は去りゆくのみ」
そう、最後にしらけてしまったのは、なにも、、
氷室京介だけでは、ない。
http://blog.goo.ne.jp/midnight_xxx/e/e3c4af7f669acccc86cb6e2c2eb3798b