居酒屋の軒下に駆け込んできた手塚は、息を切らして傘を畳んだ。
その先から雨滴がしたたる。4月の雨は、夜の冷たさを孕んで彼の身体を濡らした。
「遅い」
柴崎が口を尖らせて言う。手塚はむっとして、
「あのな、迎えに来いっていきなり電話一本でひとを呼び出しておいて、その言い草は何だ」
と乱れた息を整えた。
ありがとうなんて殊勝なことを言うタマではない。分かっている。
分かってはいるものの、それとなく期待してしまうのは自分が悪いのか。
そうなのか?
そんな手塚にはお構いなしと言った風に、柴崎は悪びれず返す。
「だって業務部で飲んでたら、急に雨なんだもの。濡れたら風邪引くじゃない」
さ、帰りましょ、と促す。
はいはい、と再び傘を開く手塚。が、
「一本だけ? あたしの分は?」
「え?」
顔を見合わせるふたり。柴崎が眉をひそめた。
「ったく、使えないわねえ。雨だから迎えに来てっていったら、普通あたしの分も傘、用意するもんじゃない?」
御説ご尤も。手塚は「コンビニでもうひとつ調達するか」と慌てた。
柴崎はかぶりを振った。いいわよ、もう。と言って、
「帰ろう。なんとかなるでしょ」
するりと猫科を思わせれる動物のような身のこなしで、彼の傘の下に入ってきた。
どきん。
相合傘をはなから狙った訳ではなかったが、そうなってしまったら役得以外の何物でもない。
金を払ってでも、柴崎とこうしたシチュエイションになりたいと思っている輩は、図書隊にごまんといることだろう。
柴崎はごく普通に、傘を持つ手塚の腕に身を寄せた。
距離が狭まると、柴崎の体温さえ服越しに感じられてしまい、心臓に悪い。
「あんた、けっこう濡れてるわね」
「さっき、走ってきたから」
「……ごめん。いっつも」
思わず手塚は首を隣に巡らした。
小さな頭が眼の下にある。
「こういうとき、呼べるの、あんたぐらいしかいないから」
ぽつりと呟く。その声が雨音にまぎれる。
手塚は思う。それって俺が都合のいい同期ってことか。
それとも、異性で気心を許せるのは俺ぐらいしかいないってことか。
どっちにしろ、嬉しさがこみ上げる。
手塚は傘の柄を握る手に力を込めた。
「別に、気にするなよ。気にする間柄じゃないだろ」
「……そお?」
じゃあどんな間柄なのか、柴崎は訊いてみたい気がした。が、それより肩の冷たさが先に立った。
「ちょっと、濡れちゃう。冷たいんだけど」
傘の角度が、微妙に柴崎の位置ではないところに向けられているのだ。雨が当たる。
「あ、ごめん」
「相合傘、女の子としたことないんでしょう。ばればれ」
「う……」
ここで、法螺の一つでも吹ければこの女にこんなに弱みを握られてはいない。
そう思うのだが、手塚には気のきいた返答ができない。
「ま、しようがないわね」
柴崎は言って、手塚の腕にさりげなく腕を絡ませる。
より密着させてきた。
「お、おい……」
こんなところ、誰か、寮生に見られでもしたら。そう口まで出掛かったが、柴崎は平然としたもの。
「ねえ、桜が散ってる」
桜並木から散り落ちて、道端にところどころ白い水たまりを作っているのを見ながら、そんなことを言う。
「ああ。もうだいぶ散っちまったな」
「あんた、今年、花見行った?」
「いや……、できなかった。休みの日も雨にたたられて。
それに俺、桜ってあんまし得意じゃないんだ。昔から」
そう言う手塚に、柴崎が目を丸くする。
「そうなの?」
「うん。桜ってさ、咲いているときも、散る時も、なんか無闇に寂しい花だろ。
満開のときなんか、怖いくらいだ」
「……変な男」
一言で片付けられ、手塚はへこむ。確かに自分の周囲にそう言う感想を持つものは今までいなかった。
自分はこと、この春の代表格の花に関してはマイノリティーなのだと思い知らされた気がした。
「悪かったな」
「べつに。この雨できっとみんな散って葉桜になるわね、一気に」
「ああ」
……桜も花見も苦手だけど。
この女と、雨の日の夜に、白い絨毯みたいに降り積もったその花びらを、踏みしめて歩くのは悪くないな。
そう手塚は思う。柴崎の髪の匂いが傘の中にほんのり漂い、彼の鼻腔をくすぐる。
水溜りが、ふたりの姿を円の中に写し取る。
二つの影が一つに寄り添って遠ざかるのを、雨音が静かに塗りつぶしていった。
fin.
(2009.4.26)
※大型連休ですね。いかがお過ごしですか。
当地は今日、なんと雪が降りました。積もってびっくりです。桜に雪の降り積もる画像をお送りできず残念です。
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その先から雨滴がしたたる。4月の雨は、夜の冷たさを孕んで彼の身体を濡らした。
「遅い」
柴崎が口を尖らせて言う。手塚はむっとして、
「あのな、迎えに来いっていきなり電話一本でひとを呼び出しておいて、その言い草は何だ」
と乱れた息を整えた。
ありがとうなんて殊勝なことを言うタマではない。分かっている。
分かってはいるものの、それとなく期待してしまうのは自分が悪いのか。
そうなのか?
そんな手塚にはお構いなしと言った風に、柴崎は悪びれず返す。
「だって業務部で飲んでたら、急に雨なんだもの。濡れたら風邪引くじゃない」
さ、帰りましょ、と促す。
はいはい、と再び傘を開く手塚。が、
「一本だけ? あたしの分は?」
「え?」
顔を見合わせるふたり。柴崎が眉をひそめた。
「ったく、使えないわねえ。雨だから迎えに来てっていったら、普通あたしの分も傘、用意するもんじゃない?」
御説ご尤も。手塚は「コンビニでもうひとつ調達するか」と慌てた。
柴崎はかぶりを振った。いいわよ、もう。と言って、
「帰ろう。なんとかなるでしょ」
するりと猫科を思わせれる動物のような身のこなしで、彼の傘の下に入ってきた。
どきん。
相合傘をはなから狙った訳ではなかったが、そうなってしまったら役得以外の何物でもない。
金を払ってでも、柴崎とこうしたシチュエイションになりたいと思っている輩は、図書隊にごまんといることだろう。
柴崎はごく普通に、傘を持つ手塚の腕に身を寄せた。
距離が狭まると、柴崎の体温さえ服越しに感じられてしまい、心臓に悪い。
「あんた、けっこう濡れてるわね」
「さっき、走ってきたから」
「……ごめん。いっつも」
思わず手塚は首を隣に巡らした。
小さな頭が眼の下にある。
「こういうとき、呼べるの、あんたぐらいしかいないから」
ぽつりと呟く。その声が雨音にまぎれる。
手塚は思う。それって俺が都合のいい同期ってことか。
それとも、異性で気心を許せるのは俺ぐらいしかいないってことか。
どっちにしろ、嬉しさがこみ上げる。
手塚は傘の柄を握る手に力を込めた。
「別に、気にするなよ。気にする間柄じゃないだろ」
「……そお?」
じゃあどんな間柄なのか、柴崎は訊いてみたい気がした。が、それより肩の冷たさが先に立った。
「ちょっと、濡れちゃう。冷たいんだけど」
傘の角度が、微妙に柴崎の位置ではないところに向けられているのだ。雨が当たる。
「あ、ごめん」
「相合傘、女の子としたことないんでしょう。ばればれ」
「う……」
ここで、法螺の一つでも吹ければこの女にこんなに弱みを握られてはいない。
そう思うのだが、手塚には気のきいた返答ができない。
「ま、しようがないわね」
柴崎は言って、手塚の腕にさりげなく腕を絡ませる。
より密着させてきた。
「お、おい……」
こんなところ、誰か、寮生に見られでもしたら。そう口まで出掛かったが、柴崎は平然としたもの。
「ねえ、桜が散ってる」
桜並木から散り落ちて、道端にところどころ白い水たまりを作っているのを見ながら、そんなことを言う。
「ああ。もうだいぶ散っちまったな」
「あんた、今年、花見行った?」
「いや……、できなかった。休みの日も雨にたたられて。
それに俺、桜ってあんまし得意じゃないんだ。昔から」
そう言う手塚に、柴崎が目を丸くする。
「そうなの?」
「うん。桜ってさ、咲いているときも、散る時も、なんか無闇に寂しい花だろ。
満開のときなんか、怖いくらいだ」
「……変な男」
一言で片付けられ、手塚はへこむ。確かに自分の周囲にそう言う感想を持つものは今までいなかった。
自分はこと、この春の代表格の花に関してはマイノリティーなのだと思い知らされた気がした。
「悪かったな」
「べつに。この雨できっとみんな散って葉桜になるわね、一気に」
「ああ」
……桜も花見も苦手だけど。
この女と、雨の日の夜に、白い絨毯みたいに降り積もったその花びらを、踏みしめて歩くのは悪くないな。
そう手塚は思う。柴崎の髪の匂いが傘の中にほんのり漂い、彼の鼻腔をくすぐる。
水溜りが、ふたりの姿を円の中に写し取る。
二つの影が一つに寄り添って遠ざかるのを、雨音が静かに塗りつぶしていった。
fin.
(2009.4.26)
※大型連休ですね。いかがお過ごしですか。
当地は今日、なんと雪が降りました。積もってびっくりです。桜に雪の降り積もる画像をお送りできず残念です。
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