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盤珪禅師の 意外な答え Ⅱ

2006-11-15 | 無能唱元・唯心円成会
それは、この鋳物師に対する慈悲心からなのです。罪の意識に恐れおののいている弱い凡夫を見た時、とっさに盤珪の慈悲心は発動し、このような寛容な答えとなったのです。

 では、盤珪は無法なことや不道徳なことを、いつでも、どうでもいいと思っていたのでしょうか? いいえ、そんなことはありません彼には次のような逸話もあります。

 盤珪が旅の途中で、渡し舟に乗った時のことです。
渡し守が、舟を岸に寄せ、陸に積んであった薪を、舟に積み込み、盗もうとしました、この時、客は盤珪一人であり、あたりに人影もなかったので、渡し守り悪心を起こしたのです。盤珪は、「盗んではならぬ」と渡し守に言いました。「うるさい、坊主、黙ってひっこんでいろ!」と渡し守は凄みました。「どうしても盗むなら、わたしを殺してから盗め。わたしはお前を泥棒にすることはできぬ」渡し守は、とうとう薪を盗むことができず、舟を置き去りにして、去って行ってしまいました。

 さて、前者の鋳物師の場合の、でたらめとも思える寛大さと、後者の渡し守の場合に見る、命を賭してまで示した厳しさと比べてみる時、そのどちらが本来の盤珪の姿なのでしょうか?
 実は、この両者とも、盤珪の本質ではないのです。あるいは又、両者とも、盤珪の本質なのです。そこには、固定した本質というものがある訳ではありません。
 盤珪は、ものごとを、本質をもって見たのではなく、虚心をもって見たのです。
すると、彼の心内には、パーニャの力がどっと流れこんできたのです。そして彼の心を満たしたこのパーニャが、その時、最も必要とされる行為を彼にとらせたのでした。すなわち、ある時は、並外れた寛大さを・・そして又ある時は、命がけの厳しさを・・
 盤珪はこれを「仏心の発露」というように表現しております。
 私に言わせれば「心を虚にして、そのあるがままを見つめれば、そのパーニャの力はおのずから生じてくる」のです。
 そして、盤珪禅師は、この力のことを「不生」という名をもって呼んだのでした。
(パーニャは般若の原語です)
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あるがまま 見る なにもたさない なにもひかない・・
善 と 悪 真・信 偽り  目線を低く・・あるがまま


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唱元氏とは関係有りませんが↓盤珪禅師・・法話もあります
瑞雲院のHP


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