読み続けている漱石『三四郎』は半分のところまできた。里見美禰子が菊人形見物の折つぶやいた「迷える子」(ストレイシープ)という言葉がキーワードのように出てくる。手元にあるのはほるぷ出版の復刻版である。菊版布製の装丁は橋口五葉のデザインでみごとに美しい。本は本棚の奥にしまい、読むのはコボタッチである。菊版の大部な本は寝転んで読むのには適さないのだ。それに比べてコボタッチは軽く、どんな姿勢でも自在だ。
漱石が朝日新聞に連載するために『三四郎』を書き始めたのは、明治41年(1908)8月のことである。前年に東京大学の教授の職を辞め、請われて朝日新聞に入社していた。すでに『我輩は猫である』、『坊ちゃん』が好評を博し、新聞にいろいろと寄稿していた。この年漱石は42歳である。このころ漱石の門下である小宮豊隆、寺田寅彦らが漱石の家を頻繁に訪れていた。『三四郎』のなかに登場する野々宮理学士は、寺田寅彦をモデルにしている。
いま小説のなかで目が向くのは、引越し手伝いとか学生懇親会などの日常的場面だ。それぞれの場面でさまざまな性格の人物が登場する。その人物に時代背景を重ねることによって、いま、さらに複雑な人物像が浮かびあがってくる。そしてそのなかに自分の過去が比較されたり、重ねあわされる。二重、三重の意味で小説の楽しみが深まる。
三四郎は野々宮の家を訪ねる。応接に出た妹、よし子のもの言いは単刀直入である。「お入りなさい」、「お掛けなさい」そして座布団を出すと「お敷きなさい」である。三四郎に受け答えをする余裕さえ与えない。描きかけていた絵の談義が一段落すると、よし子は「もうよしましょう。座敷へお入りなさい。お茶をあげますから」といって、返事も聞かないで奥へ入っていく。二人のやりとりは万事この調子である。
この人物の性格描写は、複雑な性格の美禰子を描き出すためにとられた手法かも知れない。だが、明治このかた今日まで、日本の男性に対する対応はよし子の象徴的で、母性的な方法が、連綿と続いているような気がする。