中西悟堂の『愛鳥自伝』上・下を平凡社文庫で読んだ。自伝を読むのは好きだが、この自伝は読んで面白く、日本野鳥の会をおこすまでの人生の波乱万丈が行間から伝わってくる。
中西悟堂は1895年金沢市に生まれた。15歳で仏門に入るが、和歌、書、絵画、詩などの文学に目覚め詩人や画家との交流を深めた。1926年、悟堂31歳の年に、東京北多摩の千歳村烏山で木食生活に入る。この木食生活こそ、昆虫や鳥の生態を観察し、後に野鳥の会をおこす動機となった。
持っていた米がなくなってから、木食生活で中西悟堂が口にしたのはそば粉と大根、松の芽だけである。火を使っての料理はせず、そば粉は水で練るだけ、大根は少しづつでを齧る、松の芽も生で食べた。
『愛鳥自伝』のなかで、悟堂はこの木食生活を次のように書いている。
「つまり、そば粉と、大根と松の芽が常食となったが、松の芽のほうは早朝の散歩がてらの食料で、午前4時から4時半に起きると、ぶらりと松林へゆき、そして小川に廻ってその水を掬ぶ。戻るとそば粉の玉で、これが朝食である。あとは夕食がそば粉の玉と大根の根と葉だから、食事に費す時間はないも同然である。とにかく簡単至極だが、一日の食はこれで足りたし、それ以上の食も欲しなかった。ただ野川に行ったついでに、メダカも飲んでみたしオタマジャクシも飲んでみた。春の草の芽は柔らかいので、これも食べてみた。何でもなかったので、つい、蛙にも蛇にも手が出た。」
中西悟堂の木食生活はこんな具合であったが、約3年間続いている。天気のよい日は、茣蓙を木の下に敷き、自然の書斎を設えた。そこで悟堂は、アメリカの詩人ホイットマンの『草の葉』の翻訳に没頭した。こんな誰もが経験したことのないような生活。自然のなかでの生物と同じような食事で生きながら、詩を書き、外国の詩を翻訳するという経験が、野鳥への愛を育んで行った。
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