斉藤茂吉が東京の空襲を逃れて、上山金瓶に疎開したのは昭和20年4月14日のことであった。妹なをが嫁いだ斉藤十右衛門家の土蔵を借りた。茂吉はこの年64歳となり、戦況が次第に敗戦の色を濃くしていくなかに詠んだ歌は、まさに悲調惻々たるものであった。
かへるでの赤芽萌えたつ頃となりわが犢鼻褌をみずから洗ふ
歌集『小園』の疎開慢吟の冒頭にはこの歌が収められている。妹が嫁いでいる親戚とはいえ、茂吉には遠慮もあったであろう。自分の褌くらいは自分で洗う、というけじめをつけていたのであろう。同時にそれは生まれ故郷ではあったが寂しさに満ちた日常であった。
ひとり寂しくけふの昼餉にわが食みし野蒜の香をもやがて忘れむ
5月25日の夜半、東京の最後の大空襲で茂吉の青山病院、住まいもが全焼した。歌集『小園』の後記に茂吉は、金瓶での生活を書いている。「はじめは、農業をも少し手伝ふつもりであったが、実際に当ってみると、畑の雑草除が満足に出来ない。そこで子守をしたり、庭の掃除をしたり、些少な手伝いをするのがせいぜいであった。(中略)山に行っては沈黙し、川のほとりに行っては沈黙し、隣村の観音堂の境内に行って鯉の泳ぐのを見てゐたりしていた。」
やがてその年も過ぎて、新しい年になった。このころ既に、金瓶を離れて大石田に行く決心をしていたのだが、周りの山々に雪が降り積もっていた。
山々は白くなりつつまなかひに生けるが如く冬ふかみたり
塚本邦雄はこう歌を注釈して、「白くなりつつ」も単に降雪の描写ではなく、山も老いたりの感慨が、意識の底にあったことを暗示する巧みな修辞、と解説している。同じ山を見るという行為には、人の多様な意識が反映されるのに驚きを禁じえない。
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