ふた月ほど前であったか、庄内の摩耶山に登ったとき、国道345号線を温海方面へ向かった。湯田川温泉の近くの集落に、藤沢周平の生家の看板が目についた。思えば藤沢周平はこの鄙びた温泉のある街の近くで生まれたのであった。同じ鶴岡から丸谷才一、渡部昇一などの著名人が生まれていることに、鶴岡という土地に集積された文化の高みのようなものを感じる。内陸の斎藤茂吉や井上ひさしなどとともに、若い時代に読書の面白さを堪能させてくれた作家たちだ。
『藤沢周平伝』は山形文学で活躍していた笹沢信氏の労作である。笹沢信は2012年に新潮社から『ひさし伝』、2013年に白水社から『藤沢周平伝』、2014年に同じ白水社から『評伝吉村昭』を立て続けに上梓し、そして吉村の評伝が書店に並ぶ前、2014年の4月6日にこの世を去っている。何故笹沢氏が、かくも生き急ぐように晩年になって三人の作家の評伝を書いたのか。いまこの『藤沢周平伝』を読んで、その答えがおぼろげながら分かるような気がする。
笹沢信はこの評伝の執筆動機を二つ挙げている。その一つは「死と再生」の文学の視点。そしてもう一つは、終生生まれ故郷へ目を向け続けていた藤沢周平という作家を、山形地から発信することと、序言に書いている。藤沢周平が生まれたところは、東田川郡黄金村高坂。周平が本好きの少年になった理由は小学校時代にあった。5年生のとき担任の宮崎先生は、午後の授業の1時間をつぶして、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を読んでくれた。この先生がもともと本好きだった周平の趣向に拍車をかけた。家の中にあったあらゆる本、姉が持ち帰る小説雑誌で、吉屋信子、菊池寛、久米正雄、牧逸馬の文庫本などなど。加えて少年向きの譚海、立川文庫、吉川英治などを家で読み、学校の休み時間に読み、下校のとき歩きながら読み、果ては授業中に、机のなかに頭を突っ込み、そこで本を広げて読んだ。そんな周平の姿を見た級友は、「ヒマアレバ、ヒマアレバ」と囃し立てた。
戦時中は兄が戦争に取られて不在の中、周平は印刷所や市役所の臨時職員で働きながら、夜学に通い好きな本を読む生活をしていた。そして敗戦を迎えると、周平は一大決心をして、山形にある師範学校に入る決意をする。その間の師範学校での生活は、周平の『半生の記』に書かれている。そこで「砕氷船」と名付けた同人雑誌に、周平は4点の詩を発表している。題して、「女」「死を迎へる者」「白夜」「睡猫」である。笹沢は、藤沢周平の文学の出発点といえいる詩の全文を、ガリ切りの雑誌から収録している。ここにはその一篇「女」を記載する。
「火を焚きませうか?」
フト顔を上げて女は言った。
暗い庭に降りて
二人は燃えさうなものを拾った。
いろんなもので小さな山が出来た。
「あたし。火を焚くのが好きなんです。」
女は呟いて静かにマッチを擦った。
突然闇を裂いて
紫の光がけはしく走った。
「あたし。火が好きなんですの。」
女は言って羞らふ様に微笑した。
私はうなづいて涙ぐんだ。
火は勢を増した。
彼女は夫を失へる未亡人ー