夏目漱石が帰らぬ人となったのは、大正5年(1916)12月9日のことである。つい、20日ほど前、11月21日には、朝日新聞に連載中の『明暗』188回を書き終え、胃の痛みがあったものの辰野隆の結婚式に出席した。その無理が祟ったのか、その翌日から病の床に着き、ついに『明暗』の原稿を書くことができないような病状を呈した。病状が悪化していくなか、主治医の真鍋嘉一郎が連日漱石宅へ往診した。
症状が好転しないまま11月28日を迎える。夜半12時近くなって、漱石は突然起き上がり、妻の鏡子を呼んだ。「頭がどうかしている、水をかけてくれ」と言う。驚く鏡子に「うん」と言ったまま、意識を無くした。看護婦を呼び、夢中で薬缶の水を頭にかけた。やっと息を吹き返した漱石は身ぶるいしながら、「あヽ、いい気持ちだ。ほんとにいヽ気持ちだ」と言った。
12月2日には小康を得た。気分がよく、食欲も出た。午後3時になって便意を催し、便器を使った。だがここで力んだために、再び内臓出血をを起こし、またしても意識不明となる。医師の必死の加療で意識を取り戻した。しかし、胃壁の出血があるため、食事を控える。そのため体力が日に日に衰弱していく。12月8日は朝から脈拍が速くなっている。重湯、牛乳などをほんの少量とるが、体力の衰弱は進む一方である。言葉を発することも少なく、昏睡を続ける。
12月9日、この日は土曜日であった。学校へ通っている子どもたちを通学させるべきか迷った鏡子は医師に聞く。「今日は半日だからかまわないでしょう。」午前中には、危篤の知らせを受けて、近親者、友人、知己、門下生ら30人あまりが、漱石の病室に集まっていた。正午を過ぎると、小学4年生になっていたアイが帰ってきて、ただならぬ病室の様子に泣き出してしまった。妻の鏡子が「泣くんじゃない」と叱ると、いままで昏睡していた漱石が目を開き、「泣いてもいいよ」と言った。これが、漱石が発した最後の言葉であった。鏡子は純一と伸六を迎えに行き、二人が枕元に坐ると、漱石は再びパッと目を開いてにこっと笑った。
午後6時30分、引きつるような荒い息のあと、突然息を引き取った。主治医の真鍋嘉一郎は「お気の毒でございます」と言って、静かに頭を下げた。
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