海坂藩は藤沢周平が書く時代小説の舞台になる架空の藩である。
架空とはいっても、その母体は藤沢周平の郷土・鶴岡の庄内藩であることは疑いない。藤沢文学の愛読者でもあった井上ひさしは、その小説を読みながら海坂藩の城下の地図を手書きで書いた。
小説『蝉しぐれ』の書き出しはこうだ。
「海坂藩の普請組の組屋敷には、ほかの組屋敷やあしがる屋敷には見られない特色がひとつあった。組屋敷の裏を小川が流れていて、組のこの幅6尺にも足りない流れを至極重宝して使っていることである。
城下からさほど遠くない南西の方角に、起伏する丘がある。小川はその深い懐から流れ下る幾本かの水系のひとつで、流れは広い田圃を横切って組屋敷のある城下北西の隅にぶつかったあとは、すぐにまた町からはなれて蛇行しながら北東に向かう。
末は五間川の下流に吸収されるこの流れで、組屋敷の者は物を洗い、また汲み上げた水を菜園にそそぎ、掃除に使っている。」
縮寸の関係で少し見づらい地図だが、左下隅に組屋敷が示されており、普請組の組屋敷は拡大されて住人の名が入れられ丸印で囲んで示されている。小川は北へ流れ下る途中で分水されてお城の堀へ水を供給していることが分かる。
『蝉しぐれ』の主人公、文四郎とふく。組屋敷の隣同士の幼馴染みだ。
小説はふくが小川の洗い場で蛇に噛まれ、その蛇の毒を文四郎が口で吸い取って、大事にならないように助けるところから始まる。そのとき、ふくは13歳、ようやく女であることを考え始める年頃である。ちなみに文四郎は15歳、午前中は私塾で学び、午後は剣道の道場で剣術を習う青年である。
小説は海坂藩に起きる事件を語っていくが、そちらは読んでもらうことにして、ふくは助けてもらった文四郎に淡い恋心を抱きながら、運命に導かれるままにその恋心を成就させぬままに生きていく。この二人の果たせなかった幼い恋が小説の横糸に織り込まれている。
藩の内紛が収まってから30年。文四郎は郡奉行になって、その地方の政を取りしきっていた。ふくは藩主の側室であったが、藩主に先立たれ、生んだ子は旗本の養子にとられ、孤独な身の上になっていた。ふくは白蓮院に出家することを決意し、その前に文四郎に会うため、海岸の温泉宿に泊まって手紙を出す。
小説の最終章は二人の再会が描かれる。
「文四郎さん」
不意にお福さまは言った。
「せっかくお会い出来たのですから、むかしの話をしましょうか」
「けっこうですな」
「よく文四郎さんにくっついて、熊野神社の夜祭りに連れて行ってもらったことを思い出します。さぞ迷惑だったでしょうね」
「いやべつに」
お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。
「蛇に噛まれた指です」
「さよう。それがしが血を吸ってさし上げた」
お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけた。二人は抱き合った。助左衛門が唇をもとめると、お福さまはそれにもはげしく応えてきた。
お福さまは駕籠に乗って、城へと帰っていく。
見送る文四郎の身が、いままで気づかなかった蝉しぐれに包みこまれる。小説の題になっている「蝉しぐれ」は、最終章のたった一行に書かれるのみだ。
「黒松林の蝉しぐれが、耳を聾するばかりに助左衛門をつつんできた」
架空とはいっても、その母体は藤沢周平の郷土・鶴岡の庄内藩であることは疑いない。藤沢文学の愛読者でもあった井上ひさしは、その小説を読みながら海坂藩の城下の地図を手書きで書いた。
小説『蝉しぐれ』の書き出しはこうだ。
「海坂藩の普請組の組屋敷には、ほかの組屋敷やあしがる屋敷には見られない特色がひとつあった。組屋敷の裏を小川が流れていて、組のこの幅6尺にも足りない流れを至極重宝して使っていることである。
城下からさほど遠くない南西の方角に、起伏する丘がある。小川はその深い懐から流れ下る幾本かの水系のひとつで、流れは広い田圃を横切って組屋敷のある城下北西の隅にぶつかったあとは、すぐにまた町からはなれて蛇行しながら北東に向かう。
末は五間川の下流に吸収されるこの流れで、組屋敷の者は物を洗い、また汲み上げた水を菜園にそそぎ、掃除に使っている。」
縮寸の関係で少し見づらい地図だが、左下隅に組屋敷が示されており、普請組の組屋敷は拡大されて住人の名が入れられ丸印で囲んで示されている。小川は北へ流れ下る途中で分水されてお城の堀へ水を供給していることが分かる。
『蝉しぐれ』の主人公、文四郎とふく。組屋敷の隣同士の幼馴染みだ。
小説はふくが小川の洗い場で蛇に噛まれ、その蛇の毒を文四郎が口で吸い取って、大事にならないように助けるところから始まる。そのとき、ふくは13歳、ようやく女であることを考え始める年頃である。ちなみに文四郎は15歳、午前中は私塾で学び、午後は剣道の道場で剣術を習う青年である。
小説は海坂藩に起きる事件を語っていくが、そちらは読んでもらうことにして、ふくは助けてもらった文四郎に淡い恋心を抱きながら、運命に導かれるままにその恋心を成就させぬままに生きていく。この二人の果たせなかった幼い恋が小説の横糸に織り込まれている。
藩の内紛が収まってから30年。文四郎は郡奉行になって、その地方の政を取りしきっていた。ふくは藩主の側室であったが、藩主に先立たれ、生んだ子は旗本の養子にとられ、孤独な身の上になっていた。ふくは白蓮院に出家することを決意し、その前に文四郎に会うため、海岸の温泉宿に泊まって手紙を出す。
小説の最終章は二人の再会が描かれる。
「文四郎さん」
不意にお福さまは言った。
「せっかくお会い出来たのですから、むかしの話をしましょうか」
「けっこうですな」
「よく文四郎さんにくっついて、熊野神社の夜祭りに連れて行ってもらったことを思い出します。さぞ迷惑だったでしょうね」
「いやべつに」
お福さまは右手の中指を示しながら、助左衛門ににじり寄った。かぐわしい肌の香が、文四郎の鼻にふれた。
「蛇に噛まれた指です」
「さよう。それがしが血を吸ってさし上げた」
お福さまはうつむくと、盃の酒を吸った。そして身体をすべらせると、助左衛門の腕に身を投げかけた。二人は抱き合った。助左衛門が唇をもとめると、お福さまはそれにもはげしく応えてきた。
お福さまは駕籠に乗って、城へと帰っていく。
見送る文四郎の身が、いままで気づかなかった蝉しぐれに包みこまれる。小説の題になっている「蝉しぐれ」は、最終章のたった一行に書かれるのみだ。
「黒松林の蝉しぐれが、耳を聾するばかりに助左衛門をつつんできた」
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