鈴木貞次郎顕彰碑が、母校の大石田町立亀井田中学校の校庭に建立されたのは、昭和58年6月18日のことであった。この日顕彰碑の除幕式には、ブラジルから貞次郎の次女遠藤アメリアさんも出席し謝辞を述べた。この日私の妻は免許を取ったばかりの車に母を乗せて、晴の除幕式に連れて行った。妻の母の親は貞次郎の父と兄弟であった。つまり貞次郎は母の叔父にあたる。
義母の家を片付けていると一冊の本が出てきた。尾花沢市長奥山英悦の編集による『鈴木貞次郎のに生涯と天童集』である。貞次郎が移民船笠戸丸に乗って海外移民を志した動機がこの本に記されている。貞次郎は少年時代大石田の高等小学校へ通ったが、雪深い冬は大石田の町内に寄宿していた。貞次郎の母が大石田に買い物に出て急病で倒れたことがあった。友人の家に担がれて休んでいたが、そこへ母の様子を見に行った貞次郎に生涯を決定する瞬間が訪れる。
貞次郎が庭から母の寝ている寝室をうかがい見ていると、突然襖がさっと開き絵に描いたような美しい少女が現れた。まるで牡丹の花が咲いたように母のいる部屋を明るくした。少女は手に持った柿の実をひとつ貞次郎に渡した。少女の名はたつ子であった。貞次郎はたつ子のこの姿に惹かれ生涯忘れることはなかった。
君のくれしかの柿の実を口にしてしくしく泣きし少年の日よ 貞次郎
貞次郎は小学校を卒業後、たつ子の兄が局長を務める郵便局に通信技師として勤めた。たつ子への初恋を胸に秘め4年間をその郵便局で過ごした。人知れず秘めた貞次郎の初恋は無残にもあっけなく破れる。たつ子が結婚することを人づてに聞いたからだ。明治30年、貞次郎19歳の時であった。
貞次郎は故郷に止まることはできず、傷心をかかえて上京した。中学卒業の認定試験に苦労して早稲田大学の前身である東京専門学校へ入学したのである。文学を学びたかった貞次郎の消息が、根岸に住んでいた正岡子規のところにある。号を紅原として、鈴木貞次郎はホトトギス句会に出席した。子規が病床で描いた「桜の実」の絵が全集に納められている。帰省した貞次郎が土産に持参した桜の実、桜桃を珍しいものとして描いたのである。
明治35年正岡子規が没したころ、貞次郎はたつ子が山形に出て、山形師範学校へ通っていることを仄聞していた。おりしも山形新聞の服部敬吉社長に招かれた。もしかしてたつ子に再会できるかもしれない。そんな淡い期待が貞次郎の背中を押した。新聞社では記者を勤め、俳句欄の選も受け持った。勤めの合間に、たつ子が通るかも知れない校門の前にそっと立つ毎日であった。かりに会うことができたとしてもたつ子はすでに他人の妻である。山形新聞の記者を一年で辞し、貞次郎が選んだ道は海外への移住であった。
当時日本は、チリへの移民が盛んであった。英国船に乗り込んでチリを目指した貞次郎は船中で移民会社社長の水野龍と一緒になる。水野はこれからはブラジルだと、貞次郎にさかんに説いた。移民契約を結ぶ使命を帯びた水野の熱意に惹かれて貞次郎はこの船中でブラジルへ行き先を変更した。明治38年のことであった。
珈琲の芽雨に一寸陽に二寸のびればうれしさみどりうれし 貞次郎
貞次郎は契約コーヒーコロノでの生活体験のため、ヒルミアーノ耕地に就労した。日本公使館を通じて、ブラジル農務長官と日本移民導入を交渉した。これが認められて笠戸丸で日本からの移民が始まったのは、明治40年のことである。移民収容所の書記となった貞次郎は、通訳を兼ねてコーヒー園に就労しながら、移民の人々の面倒をみた。その功績が認められて母校の中学校の校庭に顕彰碑が建てられたのである。