常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

ブラジル移民の父 鈴木貞次郎

2013年12月26日 | 


鈴木貞次郎顕彰碑が、母校の大石田町立亀井田中学校の校庭に建立されたのは、昭和58年6月18日のことであった。この日顕彰碑の除幕式には、ブラジルから貞次郎の次女遠藤アメリアさんも出席し謝辞を述べた。この日私の妻は免許を取ったばかりの車に母を乗せて、晴の除幕式に連れて行った。妻の母の親は貞次郎の父と兄弟であった。つまり貞次郎は母の叔父にあたる。

義母の家を片付けていると一冊の本が出てきた。尾花沢市長奥山英悦の編集による『鈴木貞次郎のに生涯と天童集』である。貞次郎が移民船笠戸丸に乗って海外移民を志した動機がこの本に記されている。貞次郎は少年時代大石田の高等小学校へ通ったが、雪深い冬は大石田の町内に寄宿していた。貞次郎の母が大石田に買い物に出て急病で倒れたことがあった。友人の家に担がれて休んでいたが、そこへ母の様子を見に行った貞次郎に生涯を決定する瞬間が訪れる。

貞次郎が庭から母の寝ている寝室をうかがい見ていると、突然襖がさっと開き絵に描いたような美しい少女が現れた。まるで牡丹の花が咲いたように母のいる部屋を明るくした。少女は手に持った柿の実をひとつ貞次郎に渡した。少女の名はたつ子であった。貞次郎はたつ子のこの姿に惹かれ生涯忘れることはなかった。

君のくれしかの柿の実を口にしてしくしく泣きし少年の日よ 貞次郎

貞次郎は小学校を卒業後、たつ子の兄が局長を務める郵便局に通信技師として勤めた。たつ子への初恋を胸に秘め4年間をその郵便局で過ごした。人知れず秘めた貞次郎の初恋は無残にもあっけなく破れる。たつ子が結婚することを人づてに聞いたからだ。明治30年、貞次郎19歳の時であった。

貞次郎は故郷に止まることはできず、傷心をかかえて上京した。中学卒業の認定試験に苦労して早稲田大学の前身である東京専門学校へ入学したのである。文学を学びたかった貞次郎の消息が、根岸に住んでいた正岡子規のところにある。号を紅原として、鈴木貞次郎はホトトギス句会に出席した。子規が病床で描いた「桜の実」の絵が全集に納められている。帰省した貞次郎が土産に持参した桜の実、桜桃を珍しいものとして描いたのである。

明治35年正岡子規が没したころ、貞次郎はたつ子が山形に出て、山形師範学校へ通っていることを仄聞していた。おりしも山形新聞の服部敬吉社長に招かれた。もしかしてたつ子に再会できるかもしれない。そんな淡い期待が貞次郎の背中を押した。新聞社では記者を勤め、俳句欄の選も受け持った。勤めの合間に、たつ子が通るかも知れない校門の前にそっと立つ毎日であった。かりに会うことができたとしてもたつ子はすでに他人の妻である。山形新聞の記者を一年で辞し、貞次郎が選んだ道は海外への移住であった。

当時日本は、チリへの移民が盛んであった。英国船に乗り込んでチリを目指した貞次郎は船中で移民会社社長の水野龍と一緒になる。水野はこれからはブラジルだと、貞次郎にさかんに説いた。移民契約を結ぶ使命を帯びた水野の熱意に惹かれて貞次郎はこの船中でブラジルへ行き先を変更した。明治38年のことであった。

珈琲の芽雨に一寸陽に二寸のびればうれしさみどりうれし 貞次郎

貞次郎は契約コーヒーコロノでの生活体験のため、ヒルミアーノ耕地に就労した。日本公使館を通じて、ブラジル農務長官と日本移民導入を交渉した。これが認められて笠戸丸で日本からの移民が始まったのは、明治40年のことである。移民収容所の書記となった貞次郎は、通訳を兼ねてコーヒー園に就労しながら、移民の人々の面倒をみた。その功績が認められて母校の中学校の校庭に顕彰碑が建てられたのである。



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クリスマスの贈り物

2013年12月25日 | 日記


昨日、妻の妹からクリスマスの贈り物が届いた。ゴールデンベアのジャケットだ。クリスマスプレゼントなど貰ったこともないので、びっくりもし嬉しい気持ちにもなった。夜はコンビニから鳥肉の焼いたものを買い、ケーキとビールでささやかに妻と二人でクリスマスを祝った。

O・ヘンリーの短編に「賢者の贈りもの」というのがある。アメリカの若くて貧しい夫婦が、互いに贈りものする話だ。妻の名はデラ。そして給料を減らされて家計に十分な金を入れられない夫はジムである。クリスマスイブにデラが貯めたお金はたった1ドル80セントのみであった。これだけの金では夫を喜ばせるような贈りものは到底できない。

二人には自慢の持ち物があった。ジムは父から譲られた金時計。デラには褐色で滝のように輝く長い髪であった。デラは思い切ってかつら店で髪を売り、20ドルを得た。ジムが金時計を持っているのに、鎖のかわりに革紐を使っていたので、人前では時計を見るのを恥ずかしく思っていた。髪の代金で金時計に一番似合う上品なデザインのプラチナの鎖を選らんだ。

ジムはといえばデラが喜ぶ贈り物に、自慢の髪に挿すにふさわしい鼈甲の櫛のセットを選んだ。プレゼントを見てデラは泣いた。「あたしの髪は、とても早くのびるのよ、ジム。」ジムを抱きしめながら、プレゼントを出した。「あなたの時計を貸してちょうだい。この鎖がどんなに似合うか見てみるわ。」ジムはベッドに座って微笑んだ。「この鎖いますぐ使うには上等過ぎるよ。君の櫛を買うために時計は売ってしまったんだよ。」

O・ヘンリーは贈りものをする人たちのなかで最も賢明な人はこの二人だと、物語の最後にわざわざ述べている。二人は自分が自慢できるたった一つのものを犠牲にして、お互いの自慢のものを引き立てるものを選らんだのである。プレゼントは無駄になったが、二人の真心はお互いをしあわせにしたであろうから。


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伊勢大輔

2013年12月24日 | 百人一首


いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂いぬるかな 伊勢大輔

子供のころ正月の遊びといえば百人一首のカルタであった。戦中の産めや増やせで兄弟が多く、男兄弟と女兄弟がチームに分かれて札を取るのを競った。取り札は桐の板に判で下の句が押してあった。力強く札を払うように取ると、札が勢いよく飛んだ。慣れれば上の句を少し読んだだけで札に手をかけられるのだが、子供のうちは下の句に読み手がきて初めて取りにいける。そこで作戦は、5枚ほど自分の取る札を暗記して取り札を近くに置いた。それを知ってか大事にしている札を狙っている姉がいた。戦後の混乱した時代に、なぜこんな遊びがはやったのか不思議な感じがする。

こんな状態だから歌の意味など知らずに遊んでいた。もちろんのこと伊勢大輔といっても、男か女かの区別すらつかない。後年、カルタになっている百人一首とは、藤原定家が万葉の時代から定家の時代までの歌人百人を選び、さらにその歌人の一首を選んで筆で書き起こし、息子の嫁の父親に贈った美術品であることを知った。

伊勢大輔は父大中臣輔親が伊勢の祭主を務めていたことから、こう呼ばれた。輔親の妻が藤原道長の5男教通の乳母であった関係で、大輔は中宮彰子の女房にとりたてられたと考えられる。一条天皇の中宮彰子のサロンには、時代をときめく才女がひしめいていた。娘の彰子を華やかにさせようとする親心がこの状況をつくった。道長は才能のある女性を見つけては中宮彰子の女房にした。彰子のサロンにいた才女6人が百人一首に選ばれていることをみても道長の親心がどれほどのものであったか想像がつく。伊勢大輔のほかの5名を記せば、和泉式部、紫式部、大弐三位、赤染衛門、小式部内侍である。大弐三位が紫式部の娘であり、小式部内侍が和泉式部の娘であることを思えば当代一流の歌人、文人がサロン賑わせていた様子がわかる。

伊勢大輔もまた歌の家の人であった。祖父大中臣能宣も和歌をよくし、父輔親も歌人であった。小さい頃から歌に親しんできた大輔は、即興の歌を得意にしていた。古都の奈良には有名な八重桜があった。花弁が大きく豊かに八重に重なって咲いた。ある人がはるばる奈良から取り寄せた一枝の八重桜を天皇に贈った時のことである。居合わせた紫式部が、この花の中継ぎをする者は新参の女房の務めだといって伊勢の大輔を指名した。さらに、「黙って受け取っては礼儀知らずだ。歌をつけよ。」と道長がいう。

一条帝のサロンには、こうした咄嗟の知的練磨の機会が日常的にあった。歌の力をつけていく鍛錬の場である。いにしえときょう。八重と九重(宮中)。大輔は即興で言葉を重ねて、奈良から届いた大ぶりの八重桜を称賛した。そばに居合わせた天皇をはじめとするサロンの人々は、大輔の見事な機知に感嘆の声をあげた。

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お地蔵さま

2013年12月23日 | 登山


6世紀にインドの王朝がエフタル族の侵入を受けて仏教は抑圧された。ここで仏教徒は地蔵菩薩というイメージを作りあげた。釈迦が入寂してはるか未来に弥勒佛が出現するまでの暗黒の期間に人々を教化し救済してくれるのがお地蔵さまだ。ここから地蔵信仰が始まる。この信仰が中国に伝わると、お地蔵さまは地獄の閻魔大王に対抗する力を持つものと解釈され、地蔵信仰は地獄の閻魔さまから苛められないご利益があるとされて大いに広まった。

日本では平安時代のなかごろから地蔵信仰が盛んになる。土地の守護神である道祖神と結びついて、お地蔵さまは街道筋や村の教会に石像として置かれるようになった。道祖神は村に厄病や災難が入ることを防いでくれる神である。地蔵さまを祀っておけば、無病息災でさらに極楽往生が遂げられるというご利益のある信仰である。

地蔵信仰は道祖神だけでなく他の民間信仰ともさまざまに結合した。ひとつには、子供の守護神ということになり夏の子供祭りとして地蔵盆が行われる地域も多い。二つ目は、「延命地蔵」「とげ抜き地蔵」など特定のご利益をもたらしてくれるお地蔵さまが生まれた。さらに、23夜の「月待講」と結びついた地蔵講が毎月催される。明日24日は「納めの地蔵」である。
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経塚山

2013年12月22日 | 登山


山形市の東にひときわ高く尖った山容を持つ経塚山がある。この山に登山道はなく、土曜山友会が雪の時期にルートを定めた山である。毎年、年末の登山納めはこの山へ登るのが恒例となっている。登山口に神社や寺院があり、頂上に経本を納めた信仰の山でもある。標高840mと里山であるが、頂上へは急登あり、痩せ尾根ありで登山の楽しさを凝縮しているような山である。

この日、昨夜来の雪で山中は膝を越える積雪であった。雪は湿気の多い重い雪で、カンジキに重く着いてきて脚力を消耗する。ラッセルは交代で行うも、頂上まで2時間半の行程であった。食糧も行動食、飲み物はペットボトルに詰めたイオン水である。GPSと前回登ったピンクのリボンを目印に行動する。頂上まではルートを取り違えることもなく到着。

下山は尾根道を送電線の鉄塔を目標に降りる。ルートは尾根を外さないように注意して進むが、鉄塔への転換点を誤り、約30分登り返す。ガスがたち込めている上に霙のような雪も降ってくる。手袋は濡れて、3束を取り替える。下りのルートはアップダウンと岩場回りこむトラバースもあってスリルを味わう。山中での行動時間9時間。予想を超えた厳しい行程であった。

下山もあと少しのところで携帯がなる。孫からの電話。カンジキで雪を踏む音が孫の受話器に聞こえた。「え、いま外?」「そう山のなかだよ」「え、大丈夫?気をつけてね。お肉届いたよ。ありがとう」「うん、もうじき下山だよ」久しぶりの孫の声を、こんな雪山のなかで聞く不思議。携帯でんわという通信がこんなことを実現している。

ふかぶかと眠る山みな無名なり 堀口 星眠


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