常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

彼岸桜

2014年04月18日 | 日記


ソメイヨシノだけが桜ではない。朝、畑仕事に出かけると、濃いピンクの桜が咲いているのを見かけた。気になって傍まで行って写真に収めた。公民館の玄関にある桜であった。公民館の開設を記念して植えた桜で、「彼岸桜」と名前まで記されていた。市内のソメイヨシノがほぼ満開になったので、これからの注目は市西部にある大山桜である。お寺の境内には、枝垂桜もそろそろ咲いているだろう。馬見ヶ崎川の周辺では、昨日、三分咲きぐらいであった。

咲き満ちてこぼるゝ花もなかりけり 高浜 虚子



桜前線はこれから北上して、秋田の角館から青森の弘前へと名所に至る。小林秀雄の随筆「お花見」には、弘前城の花見の話がある。

「汽車は桜に追い付こうと、ひたすら走っているようであったが、弘前近くになると、未だ浅緑の野や山に、桜が咲き出すのが眺められた。弘前城の花は見事な満開であった。背景には、岩木山が、頂の雪を雲に隠して、雄大な山裾を見せ、落下の人で、人々は飲み食い、狂おしいように踊っていた。実に久しぶりの事だ。こんなお花見らしいお花見は、私の記憶では12、3の頃。」

桜のもとに集って、酒を酌みながら、お花見をしたのは、私も記憶をたどれば、30年も前になるだろう。千歳公園の屋台で、花寒のなか熱燗を飲んだのが最後であったようだ。

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紅辛夷

2014年04月17日 | 


散歩の途中にあるお宅の庭に木にピンクの花が咲いている。何の花か、図鑑やネットで調べても分からない。家の前にお婆さんが出て来られたので、思い切って尋ねてみた。「あ、あれは辛夷です。ん、西洋辛夷。」辛夷は山に咲く白い花と思い込んでいたので、意外な答えであった。ネットを見るとたしかに四方辛夷や紅辛夷という、ピンクの花の辛夷があった。

お婆さんは、「庭にほかにもいろんな花が咲いているから見ていきなさい」と、案内してくれた。ヒヤシンス、チューリップのほかに、紅辛夷の木がもう一本花を咲かせていた。「いま、雪割り草が咲いていますよ」と言いながら、さらに奥の庭を案内してくれる。見れば、小さな鉢にいろんな種類の雪割り草が可憐な花を咲かせている。「息子がね、いろんな種類の種を買ってきて育てているのよ」と、笑顔で話してくれた。



「やっぱりね。八重咲きのものは育てるのが難しいね。シンプルなもの方が強いみたい。辛夷も外から見る方がきれいでしょ。花は陽に向かって咲くのよ。」お婆さんは、私のたった一つの質問に、こんなにもたくさんの話で答えてくれた。満開の桜並木の下を歩きながら、心がふとあたたかくなった。

今日はしも匂ふがごとき春の空 福田 蓼汀
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花宴

2014年04月16日 | 源氏物語


平安京の内裏の正殿を紫宸殿という。ここは南殿とも呼ばれ、宮中の儀式や公事を行う中心的な場であった。桧皮葺きの屋根の入母屋造りの建築である。母屋中央に天皇が着座する高御座があり、庭には左近の桜と右近の橘が植えられている。

源氏物語の「花の宴」は、この紫宸殿の桜の盛りに催された。桐壺帝はこの宴を盛り上げるために、雅楽や舞を準備させた。帝は「春鶯囀」という舞が気に入ったので、光源氏にその舞を所望した。これは襲装束の鳥兜をつけ、諸肩を脱いで4~6人で舞う独特の舞である。帝の所望に断りきれず、光源氏はゆるやかに袖を翻すほんのひとさしだけを舞った。

宴席で義父である左大臣は、その舞のすばらしさに思わず落涙した。宴は、舞楽と舞のはなやかさのうちに過ぎていくが、光源氏は藤壺中宮への思いを募らせる。その夜は月が明るかった。光源氏は、月に照らし出される宮中をそぞろ歩く。偶然にでも、中宮にめぐり合えるかも知れないと、淡い期待を抱きながら。ここで、出会うのは、左大臣の娘である朧月夜であった。

宴席の酒の酔いと満開の桜が、若い二人を惑わしたのであろうか。光源氏と朧月夜は、結ばれる。奈良の都では、梅の花のもとで宴を催したが、源氏の世界では桜が花宴の主人公である。花といえば桜、というのがこの時代から始まった。朧月夜は相手が光源氏であることを知っていたが、源氏には相手が誰であるか分からない。何度も名を聞くが、朧月夜は自分を明かすことはなかった。ただ、持っていた檜扇子を渡した。

深き夜のあはれを知るも入る月のおぼろけならぬ契りとぞ思ふ 光源氏

おぼろけならぬ、とははっきりしないことではなく、むしろ前世から約束の契りであったと運命的な出会いだったと伝えた。


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満月

2014年04月15日 | 日記


春は花、秋は月としたのは、日本古来の風雅に心を通わせた人々であった。けれども、花の季節に美しい月を見ることもある。この写真は一昨日のものであるが、入日の光がまだ残っているころ、山の端に美しい姿を現した。持っているカメラでは月は撮れないものとあきらめていたが、望遠レンズに換えて何とか撮れた。

今夜月明人尽く望む
知らず秋思誰が家にかある

月を見て憂いに沈むのは、秋の季節にこそ相応しい。昨夜は、満月、そして部分月食であった。このところの晴天で、月を隠す雲もなく、終夜月光が夜の空に輝いていた。

「月中に蟇蛙あり」という伝承が中国にある。嫦娥は夫の不死の薬を盗んで飲んでしまった。そのために仙人となって、奔って月中に入り、月の精になったという神話がある。蟇蛙はこの嫦娥のなれの果てである、ということだ。

月下老という不思議な老人が唐の時代にいた。ある青年が月夜にこの老人に会い、「あなたは何をする人ですか」と尋ねた。老人は持っていた袋から、赤い縄を取り出した。「この縄は結婚する男女の足をつなぐためのものじゃ。これで、そなたの妻になる人を予告しよう」と言った。一方、氷人は氷上と氷下、陽と陰を、つまりは結婚を予言する人である。月下と結びついて月下氷人、仲人となった。それにしても、近年はこの仲人が段々と少なくなって
結婚紹介所などがとって代わっている。


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木蓮

2014年04月15日 | 斉藤茂吉


好天が続く。朝の散歩で木蓮の花をみるようになった。白木蓮の清楚でふくよかな花が好きだ。斉藤茂吉の和歌に、木蓮を詠んだ歌が一首ある。第三歌集『寒雲』に収められている。

木蓮の白き花びら散りしける木の下かげをとほりて行ける 茂吉

『寒雲』は昭和12年から14年に作歌してもの約1100首が収められている。12年には、盧溝橋事件が起き、日中の軍隊が衝突する事態に至った。13年、国家総動員法が施行され、日本は戦争の道へと踏み入って行った。日本の国中が騒然とするなか、茂吉は大阪に放送局かた、放送用の支那事変の歌5首を作る依頼を受けた。

茂吉はこの求めに応じたが、「事変の歌には手馴れていず、どう作ってよいか甚だ難儀した」と述懐している。その後、第二次大戦へと戦線が拡大する従い、茂吉の戦争歌も高揚したものなっていく。終戦後に茂吉はそのことを悔やみ、また戦犯として咎められるのではないかと、心配しながら疎開先で逼塞して生活を送った。

戦争の起きる時代であっても春は訪れ、百花が開く。茂吉の見た木蓮も、平成の世に咲く木蓮も、その姿に変わりはない。


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