常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

屏風岩

2015年10月18日 | 日記


福島の南会津町の伊南川にある屏風岩は、急流が長い年月をかけた浸食が作り上げた奇岩と、秋の紅葉のコラボがおりなす絶景スポットである。広い駐車場があり、紅葉の最盛時期とも重なってたくさんの観光客が、絶景をカメラに収めていた。おおきな奇岩の迫力と木々の紅葉の美しさ、そして川の流れのエメラルドグリーンが不思議なコントラストを演出している。

身の回りにも秋のビュースポットはたくさんあるが、やはり人工の手を加えることを拒否している秘境の地に行って初めて目にすることのできる感動は大きい。たかが、紅葉を見に、300キロも車を走らせることは、どこか虚しさを感じるが、その神秘的な景観が、あらゆる苦痛や疲労を吹き飛ばしてくれる。秋のこの時期しか見られない貴重な体験である。
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桧枝岐の紅葉

2015年10月17日 | 登山


福島の桧枝岐から帝釈山に登ってきた。桧枝岐でこの秋最高の紅葉を見て来た。車で会津若松市から国道121号線を南下すると、湯之上温泉、下郷、田島から南郷へと山間の集落を過ぎる。ここから転じて152号線をへて桧枝岐川沿いに行くと、かつて陸の孤島、秘境といわれた桧枝岐に着く。周囲を山に囲まれたこの地域は、見渡すかぎりの紅葉で、秋の日差しをうけて黄金と赤に染め上げられていた。

この日、行動には100キロ遠足のイベントが行われ、多くのランナーの走る姿があった。100キロとはいうものの、距離別にランナーを募っているので、自分の体力に合わせて走る距離を決めるのであろう。老若男女さまざま階層のランナーである。桧枝岐から日光へ抜ける道路を進むと、帝釈山への登山口がある。駐車場は広く公衆トイレもあるが、冬季にそなへてすでに閉鎖されていた。紅葉は桧枝岐の集落からこの登山口までの林道が見ごろであった。



車は絵のカンバスの中を走って行く。風もないのに葉が落ちて、道路は一面の落葉が散り敷いていた。本日の参加者6名、うち女性は3名である。車の中から見える紅葉の美しさに思わず感嘆の声が上がる。登山口近くなって霧雨が落ちてきた。出かけの星空がきれいだったので、今日は快晴とばかり思いこみ、まさか雨になるとは思わなかった。そういえば、関東地方には雨の予報が出ていたが、桧枝岐もまた関東と山地を隔てて連なっていることをあらためて思い知った。

登山口の標高は1800m、帝釈山の山頂2060mだから標高差にして260mに過ぎない。帝釈山の頂上までは、登山道の整備も行き届いている。木枠で固定した階段、木道、濡れていなければ歩きやすくできている。ここは200名山走破を目指している田中陽希さんが、走り抜けた山でもある。頂上まで1時間、さらに次の田代山を目指したが、雨と霧で展望が聞かないためここで断念、下山する。



帰りの温泉は桧枝岐の燧の湯に入る。桧枝岐川の流れを前に、すぐ裏の紅葉をみながら浸かる湯はまさに極楽。澄んだ硫黄泉は、じっくり皮膚のなかにしみこんで疲労を吹き飛ばしてくれる。入浴料500円。
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白秋

2015年10月16日 | 日記


昨夜、月山に初冠雪が観測された。秋の空気は冷たく澄みわたっている。日の出前の遠くの山が、その距離によって濃淡がつく風景はこの季節にはっきりと見られる。。白秋という言葉は、秋に吹く風の色である。春は青、季節や方位を現す神獣が決められた中国の自然観によっている。春、東の神獣は青龍であるのに対し、秋、西の神獣が白虎である。そのために春、東は青で青春、秋、西は白で白秋。相撲で東の力士が登場するのは青房、西の力士は白房の方から登場するのもこの自然観によっている。

石山の石より白し秋の風 芭蕉

芭蕉が「おくの細道」の旅で加賀の那谷の石山の観音に詣でたとき詠んだ句である。白山を後ろに見て、那谷の石山の奇石に芭蕉は強く惹かれた。白色の石英岩は、風雨による風化で次第に白色になってきているが、秋の風はその石よりも白く感じられるという句意である。この観音に参詣した後、芭蕉は山中の温泉に浸かっている。秋の風に吹かれて冷たくなった身体は、温泉で温められて、旅の疲れを癒してくれたことであろう。
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霜葉

2015年10月15日 | 漢詩


初霜はまだ降りていないが早朝の冷え込みは7℃を切ることが多く、いつ霜が降りても不思議でない気温になっている。霜葉というのは、霜にうたれて赤く色づいた木の葉をさしているが、近所のお宅に庭には、ツツジが霜葉のごとくに色づいていた。杜牧の詩に

車を停どめてそぞろに愛す楓林の晩
霜葉は二月の花よりも紅なり

という句があるが、今朝見たツツジの葉は、まさに杜牧の詩のように、花に勝るあでやかな赤であった。杜牧の詩にもどるが、車から降りて夕陽に染まっていたのは、カエデの霜葉である。カエデは葉の形もきれいで、とくに京都の紅葉の代表で、秋の紅葉の代表選手である。この2週間、山に行っていないので、ちょうどいい季節の山の紅葉の美しさに飢えている。



ツツジとならんで紅(くれない)に染まるコキア。ホウキ草で知られる。この枯れた枝を束ねるとホウキになる。お寺に竹の枝を結んで作ったホウキがあるが使いづらい。ホウキ草のほうが扱い易く、さすがに名前だけのことはある。実はとんぶりと云って、畑のキャビアと珍重される。秋田の旅館で食べたが、もう久しく口にしたことがない。秋の庭をこんなに美しく彩るのを見るとホウキ草を見直さなければならない。
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柘榴

2015年10月14日 | 日記


柘榴の実が割れはじめた。紅一点という言葉は、王安石の詩に「万緑叢中紅一点」という句から採られており、柘榴の花が紅く、万緑のなかに紅い花がひとつ際立っているという意味だが、男ばかりのなかに女がひとりだけ交じっている場合にも使われる。実は秋になると赤でも複雑な色合いを呈する。赤い実は砂糖と一緒に焼酎に漬け込んで、ザクロ酒として珍重する。

悔ゆることばかりぞ石榴熟れそむる 黒木 夜雨

柘榴の赤い実には面白い話がある。お釈迦さんが、自分の子を食ってしまう鬼神に、柘榴の実を与え、今後人の肉は食べないように約束させた。悔い改めた鬼神は鬼子母神となって子育ての神になったという話で、柘榴の実が人肉の味に似ているという俗説もここから出ている。

江戸の湯屋の湯舟の手前に、柘榴口という低い出入り口があった。これは屈んで入るというのと鏡を磨くにかけた言葉である。柘榴の実は、昔鏡を磨くのにもちいられたためである。但し、磨くのはガラスの鏡ではなく銅製の鏡である。


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