人は一つのものを得て、同時に一つのものを失う。山の奥深い絶景の景観を目にして失うのは再会の希望。より深い景観の味わいを得て、失うのは若い脚力と俊敏さ。ガスに巻かれて失われていた景観が、上がっていく霧のなかから姿を現す喜びは何にもかえがたい朝4時に山形を出発して上高地のバスターミナルの駐車場で昼食。いよいよ2泊3日の奥穂高岳の登山の開始である。この日かっぱ橋から、岳沢に沿う登山道を最初の宿泊地岳沢小屋を目指す。目の前に迫ってくる巨大な屏風を立てたように聳える穂高の山々。その岩峰の存在感に圧倒されながら小さな歩を進める。
この度の9月14日からの奥穂コースの計画は、高橋リーダーによって昨年11月に立てられた。折から台風14号が進路を大きく変え、日本列島を伺っていた。偶然というか、奇跡というべきか。14日・15日と勢力を強めながらも、台風は東シナ海上に停滞。16日になって、動きはじめ進路は九州をめざすという。そのため一年前の計画が、風雨がなく暖かい青空のもとを歩くという僥倖に恵まれた。山道左手に岳沢を埋めつくす岩石を見ながらの歩きだ。さほどの傾斜ではない。
振り返ると河童橋が小さくなっていく。岳沢小屋着16時。部屋で着替えをすませて、ホテル前のベンチで、周囲の景色を見ながらビール。やや肌寒いので、それほどビールは欲しない。特筆すべきは夕飯のおいしさだ。揚げたてのアジフライにハンバーグ。味噌汁の熱々がお代わり自由。コロナ禍、山小屋の経営も大変なはずだ。収容人数を抑え、食堂の椅子のデスタンス。加えて泊りの登山客も秋山のシーズンにしては極めて少ない。我々12名のほかには、1,2名の数組が見られるのみだ。
早朝、昨夜の就寝が早かったの目が早く覚めた。4時小屋の前に出てみると、降るような大きな星が満天に。雲一つない晴天である。5時半からの朝食もそこそこに、いよいよ、コースの難関に向い、緊張感が走る。穂高の岩肌はますます間近に、人を寄せ付けない鋭利さだ。重太郎新道を紀美子平へ。この道にその名を残す今田重太郎は、穂高連峰で様々なエピソードを残している。重太郎は山の案内人として、槍ヶ岳~上高地~穂高連峰で活躍するかたわら、吊り尾根やジャンダルム、奥穂高の登山道作りに励んだ。重次郎新道は、昭和26年9月にほぼ2週間で作り上げたと言われる。終点の紀美子平は、小屋の人気者でもあった養女の紀美子の名が付けられた。紀美子は父が作業している傍で遊んでいたという。
重次郎新道から道は傾斜を増していく。昨夜の小屋で寝不足だった人もいて新道で体力を消耗した人も出た。4名が紀美子平に残り、8名が前穂高岳のピストンを行った。マップタイムでは往復1時間だが、ほぼ2時間で紀美子平に戻った。平日であったが、入山者が予想よりも多い。ほとんどが若い人たちだ。ガイドを伴った若い女性の姿もあった。コロナ禍のなかで、若者たちの足は山へ向かっているのであろうか。キャンプや日帰り登山の人も多い。
山道は石の上である。急な傾斜の上の石を確認しながらの登山は、脚力と同時に注意力が必要になる。前穂高3090m、明治26年の夏、嘉門次の案内でここに立ったのはかのウエストンである。当時は奥穂高岳は知られず、ここが最高峰の穂高岳と考えられていた。ウェストンの『日本アルプス』から引いてみる。
「岩場は、私たちが今まで出会ったどれよりも険しく、それで私たちは全力を注がなければならなかったけれども、それだけこの登攀は爽快だった。12時45分には険しい痩せ尾根に達した。ここから大きな花崗岩の岩塔が聳えていて、このために似つかわしい「穂高山」(立穂の山)の名がついているのである。1時30分になる前に最高の岩峰に着いた」(ウェストン)
百名山の案内書には我々のとったコースは経験者向きのコースで初心者なら経験豊富な案内者を必要とある。幸いTさんというリーダーが山の会にいて、今回の山行が実現できた。もう一つ奇跡的な好天の恵まれたことも今回の素晴らしい山行となった。
吊り尾根は見通しのきかないトラバース。しかし、時折り尾根に出て、裏側に見える涸沢カールの素晴らしい景観に足が止まる。持参したカメラを出すのももどかしく、この景色を収める。吊り尾根から稜線へ、南稜の頭を越しても奥穂高岳の頂上は目に入って来ない。頂上の小さな祠を目にしても、疲れた足が頂上を踏むまで時間が経過していく。尾根道の風は冷たく、強い。暑い夏に馴らされた身体には5℃ほど気温が寒く身に沁みる。用意してきたジャケットを通して風が吹きつけて来る。しかしついにケルン状に石の積まれた頂上がそこにある。この道を作った重次郎が登って来る登山者に、その在処を知らせるために積んだのだという。午後4時、一行12名は無事頂上を踏むことができた。