常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

知魚楽

2022年05月22日 | 登山
卯の花が咲いた。垣根の卯の花は、白い花で知られる。これはピンクだが、紅ウツギだから卯の花と言っていいのではないか。この花が咲いても、まだホトトギスの声は聞かない。打撲の痛みは、日に日に軽快している。


ところで、人の心をどのように知るのだろうか。荘子にこんな逸話がある。川を泳ぐ魚を見て、「魚が楽しんでいる」と荘子が言った。すると、一緒に歩いていた恵子が言った。「君は魚じゃない。魚の楽しみが分かるはずがない」荘子「君は僕じゃない。僕が魚の楽しみが分からないと君が分かるはずがない」恵子「君は僕じゃないから、もちろん君の内面はわからない。君も魚じゃないから、魚の楽しみを分からないことは確実だ。」荘子「それは、つまり他者である僕の知覚能力を知っていることだね。僕も同じさ。川の辺で、他者である魚の楽しみを知ったんだよ」。有名な知魚楽の逸話だ。

森のなかでけたたましい鳥の鳴き声が聞こえる。そこにいると、鳥たちが「人間がいるぞ」という警戒音を発していることが分かる。一緒に風景を眺めると、人は心の中で、その風景に感動していることが分かる。聴覚も、視覚もみんな脳の回線を通って、風景や音として認識される。自分と他者とは同じなどということはあり得ない。だが、知魚楽のような逸話は大事だ。他者とコミュニケーションをとることによって、他者の内面を知ったり、感情を共有することができる。高齢者が、孤独を生きるためにもそれは大事だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

末期の眼

2022年05月21日 | 登山
「末期の眼」という言葉がある。人は死を意識したときの眼で見ると、自然はひときわ美しく見えるという意味だ。芥川龍之介は、自死の直前、友人に手紙を送っている。その手紙に「唯自然はかういふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然が美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども、自然が美しいのは、僕の末期の眼にうつるからである」

18日の登山中に事故が起きた。蔵王の雁戸山に宮城側の笹雁新道を登った。足の状態は、普通とさして変わらなかったが、筋肉疲労がいつもよりつのった。3時間ほどの登りで頂上について、普通にお握りを食べ、スイーツを食べて下ったのだが、急坂で筋肉を使い果たした気がする。足がプルプルと震え、仲間から芍薬甘草湯を貰い、休憩しつつ危険個所を過ぎた。4時を過ぎて辺りは次第に夕景になっていく。最後の沢筋の道の達したとき、不意に意識がなくなった。気がついたときは、厳しい急坂を木の枝につかまって歩いていた。

防災ヘリに救助され、救急車で仙台の救急病院に向かう。仲間の話では、20mほどの滑落だったらしい。全身の打撲と擦過傷。病院のベッドで点滴、検査。殆ど怪我をしたという意識はない。整形の先生が来て、骨折はないから、多分明日退院でいい、と告げられる。張りつめた場面がそうさせるのか。病室はボイラーや機器の通知音がひっきりなし。看護師さんから、眠れないだろうから、休むことを意識して、睡眠は考えないようにと言われる。点滴を見つめながら夜は更けていく。いつしか、うとうとと眠りに就く。4時過ぎに病室は明るくなる。トイレはし尿瓶を使う。20m滑落という事態では、奇跡的なことらしい。
仲間や妻の手を借りて、家についた。張りつめた気が弛んでいくうちに、筋肉痛と打ち身で全身が痛い。特に一番消耗した大腿の筋肉痛。擦過傷が病院でつけてもらった絆創膏の切れ目から覗いている。蒲団から起き上がるのに一苦労である。ほぼ20時間ぶりに外へ出た。いつも歩く散歩道だが、筋肉痛で倍の時間を要する。公園の花は、ことの他美しい。これは、芥川が言った「末期の眼か」そんなことを考えている内に、疲れを感じ、ベンチに座った。歩きはじめて10分ほどしか経っていない。こんな川柳がある。

あきらめたとき美しくなるこの世 たむらあきこ

この事故を知った娘と孫からラインが来た。「気をつけて」「身の丈に合った計画を」やはり、身内に心配をかけるようなことはいけない。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2022年05月15日 | 日記
タンポポの綿毛が風を待っている。吹かれた風に乗って、種を少しでも遠くに運びたいからだ。この時期、戸外に出て深呼吸がしたい。厳しい山堂で冬を過ごした良寛は

むらぎもの心楽しも春の日に
 鳥のむらがり遊ぶを見れば 良寛

春の喜びを詠んだ。風のなかで、鳥や花を愛で、自然と一体になることで人は生きる喜びを感じる。堀辰雄の『風立ちぬ』にも、「風立ちぬいざ生きめやも」の詩の一片が巻頭にある。

もうひとつかみしめてみたい谷川俊太郎の詩。


風が息をしている
耳たぶのそばで
子どもらの声をのせ
みずうみを波立たせ
風は息をしている

虫が息をしている
草にすがって
透き通る胎を見せ
青空を眼にうつし
虫が息をしている

星が息をしている
どこか遠くで
限りなく渦巻いて
声もなくまたたいて
星が息をしている

人が息をしている
ひとりぼっちで
苦しみを吐き出して
哀しみを吸い込んで
人が息をしている
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キングサリ

2022年05月13日 | 

朝の散歩は、花に待ち伏せされたような気分になる。黄色なフジのような花も、この季節、突然、木が花に被われてしまう。「あなたが来るのを待っていたよ」と花が、そんな風に告げている。キングサリ、原産ちの英名はゴールドチェイン、花の形状を示して分かりやすい。この花も、近所の庭に植えられていて、ここでしか見られない珍しい花である。きれいだが、花や若葉に毒を持っている。マメ科で馬酔木のような植物である。

『花の事典』の記載を記す。花ことば:哀調を持った美しさ。夏の暑さに弱いが寒さには強いので関東以北では庭植えが可能。日当たりと水はけよく夏に西日の当たらない場所に植える。近所のお宅では、まさに事典に記載どおりに植えられている。そのためか、この花が木いっぱいに咲くと驚かされる。この花が終わると梅雨の季節がやってくる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

七ツ森

2022年05月11日 | 登山

高速の東北道を北進して大和インターの辺りまで来ると、西方に頭をポコポコと出す低山が見える。今週目指したのは、この七つ森だ。七つある山には薬師如来の石像が祀られている。この七つの頂上を一日で登り、お薬師さんにお参りすると無病息災が叶うという。宮床の地区民が行う「七薬師掛け」である。里山歩きの楽しさに、ご利益を加えた地区の人たちの知恵である。新緑が目に沁みる5月、さぞかし多くの人が入山しているかと思ったが、わが山の会の貸し切りのような山歩きであった。小なりとはいえ、7座を登り降りするのは我々の年代には無理。南側ダムの湖畔にある駐車場に車を置いて、鎌倉山(313m)、遂倉山(307m)、蜂倉山(289m)の3座を登ることにする。
山に入ると、道は石が多い。標識には「新奥の細道」や「伝説の山」という標記が記されている。帰って調べてみると、この山の伝説についての記載があった。「昔々、朝比奈三郎という力持ちの大男がいた。男は弓の稽古場の的にしようと山を作った。するとタンガラからこぼれた7つの土が山になった。」たがら森というのが、手前の山になっていたので、里の人々はこの伝説を語り継いだのであろうか。3座に登って感じたことは、石が多いことだ。火山と思われるがどの山も低山である。第三紀の300万年のも古い地質との記載もある。それだけの長い時間を経過して、浸食と隆起をくり返した老年山地ということもできよう。
駐車場から歩いて、9時10分に登山口。鎌倉山まで25分。ここで小憩、記念撮影。10時になって遂倉山に向かう。鎌倉山をしっかり下りたところに蜂倉山の登山口がある。ここもさほどの登りではなく所要時間20分。難所は蜂倉山。なだらかで歩きやすい道を過ぎてから急傾斜にかかる。尾根道に入るまでに、切れ落ちた岩肌をトラバース。距離は短いが、張ってあるロープも弛んでいて頼りにならない。岩のつけられた、足掛かりを確めながらハラハラドキドキで渡る。そこからの尾根道は少し急だが問題はない。蜂倉の頂上まで1時間。この頂上で昼食の弁当開き。観音さまを三つお祈りしたので、ご利益もそれなりか。

20年ほど前にこの山を歩いているはずだが、思い起こすのは、仲間が大急ぎで登り、降りたことのみ。一つ、一つに山の特徴や、危険個所など一切記憶はない。山は降りてしまえば、そこの記憶はどんどん消え去っていく。それだけにこの度の再訪は、殆ど初めての発見と、新しい感動の連続である。変化に富んだ山道。深く切れ落ちた渓。仲間の感想に、「山は高さじゃない」とあったがまさにその通り。新緑と山道の脇に咲く、名の知れぬ花々。下り道を安定して歩く体力。まだまだ、山登りの奥は深い。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする