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出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈 江戸時代が260余年も続いた本当の理由
童門 冬二
出る杭は100%打つ…家康が「無能なトップに忠誠を誓う部下」を大量生産するために考え出した驚きの屁理屈 江戸時代が260余年も続いた本当の理由
トップに都合の良い」精神を教育するシステム
ときには、「反乱者が出たほうがいい」と思っていた。鎮圧を大々的にPRして弾圧の実績が示せるからである。これにひっかかって由井正雪や多くの浪人たちが乱を起こした。島原の乱も考えようによってはその例だ。抑圧と疎外に対する反抗心の爆発である。
が、幕府はすでに強大な武力と権力を持っていたから、ものの見事にこれを鎮圧していよいよ幕府の勢威を固めた。
これは生きた国民へのテキストであった。日本人はこういう実例を次々と見せられて、大名も旗本も浪人も庶民もすべて抵抗心という牙を失っていった。皆丸く摩滅していったのである。徳川時代の太平はそれで保たれた
足を引っ張りあう評価システムを確立
徳川社会というのは、汁の中に権限と責任を吸いとられたふにゃふにゃの米粒の社会であった。
したがって業績評価は、
「無事大過なく生涯をまっとうできるかどうか」
という物差しによって判断されたのである。
「人間は常に飢えさせておくに限る、腹八分目にすべきだ」
という考えだ。かれ自身がいつも粥ばかり食っていたからそういうことを他人に強いてもなんとも思わなかったのだろう。
また、小さい時からかれは人質になって成人するまで他人の冷飯を食った。それだけに性格が暗くなり、他人をいじめてもあまり感じない人間になっていたのかもしれない。人質時代の報復を日本人全体に及ぼしたといってもいい。
この辺に、かれの組織力の限界、あるいはマイナス面の原因があった。
江戸幕府が260余年で限界を迎えた理由
たとえ二百六十余年間維持されたとしても、結局、徳川幕府は潰滅してしまった
その時代に生きていた人々のニーズを逆に抑え込むというのは、ニーズを実現しないということである。ニーズを否定する方向で組織づくりをし、否定されたニーズが頭をもたげようと壁を破り土を起こせないように、壁を厚くし、覆土してしまうということである。
日本人の欲望を抑え込むことによって、「高密度管理社会」といわれる、「幕藩体制」を実現したのである。
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