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中韓にとって歴史はイデオロギーであり宗教であり政治
中韓にとって歴史はイデオロギーであり宗教であり政治
日韓・日中の歴史共同研究があるが、以下を読めばやっても無駄なことがはっきりしている。
日本がいくら中韓に良かれと思ってやったことでも、それは日本の利益のためにやったものであって、中韓のためにやったのではないとか、そういう言い方で日本は植民地化を正当化するつもりかといって、けっして議論しょうとはしない。感謝の「か」の字も得られない。
中韓にとっての歴史は、まさしくイデオロギーであり、宗教であり、政治である。「史実」などどうでもいいのである。合うわけがない。隣国同士が仲良くするのは本当に難しいものだ。以下引用。
Q:5,000年史と半万年史のどこが誇れるところなのか
呉:古い歴史を誇りながらも、文化の連続性がないので、文化意識としては古いものと断ち切れていまっているんです。(中略)
中国でもかなり同じことがいえると思いますが、日本はまったく違って、延々たる文化の連続性が現代に至るまで続いているんですね。千数百年前に歌われた「万葉集」の歌が、今でも親しまれていること自体が、韓国人に大きな驚きです。王朝も交替することなく、ひとつの天皇家が古代から現代までを貫いて存在し続けてきました。もっとも、こういう国は世界でもほかにはないわけですが。
石:日本人のほうがよっぽど中国の古典を読んでいるんであって、現代中国人は明らかに古代中国文化の継承者ではありません。
「正しい歴史認識」という独善的な歴史観
黄:書物に書かれた中国、韓国、日本の歴史を比べてみると、私は日本の歴史の書き方がいちばん正直なんじゃないかと考えています。たとえば、『古事記』と『日本書紀』では、「神代の時代」つまり神話時代と、「人の時代」つまり歴史時代をはっきり分けて書いています。これが中国の司馬遷の『史記』では、神話伝説の時代もすべて人間の時代として書いています。そのように、中国人の歴史意識には、神話と歴史を区別しないところがある。
呉:韓国には古代の文献が残っていないので、古代朝鮮半島の研究をするには、中国の古代の書物や日本の『日本書紀』を参照するしかないんです。それで『日本書紀』を参照する場合、韓国人学者の参照の仕方に、嘘と本当という問題があると思います。韓国の歴史学者の多くは、自分の方に都合のいい史料のみを参照するばかりで、ちょっと困るような記事は『日本書紀』が歴史を捏造しているといったりするんですね。(中略)韓国では歴史教科書の観点からはずれた歴史認識は、間違った歴史認識であると誰もが疑いなく思うことになるわけです。つまり、韓国では歴史は社会科学ではなくほとんど民族宗教なんですね。⇒争っても仕方が無い。
石:中国で言っている歴史認識というのは、現在の政権のイデオロギーの正当性にほかなりません。政治的なバイアスのかかった歴史しか教えませんからね。(中略)
例えば南京大虐殺を歴史的な事実として研究する場合、まずはあったかどうかを学問的に検討する必要があるでしょう。それで検討した結果「あった」となればそれはそれでいいわけです。しかし中国には、まずは「あった」ということがひとつの史実として先にあり、それについては検討する余地がないという歴史認識の立場があるわけです。
本当に史実かどうかを検討する前に、お前はまずこの史実を認めなくてはならない、その上ではじめて話し合うことができるというのが、現在の共産党中国の歴史認識なんですね。つまりそこでは、歴史は史実以前の問題となっているんです。歴史は「こうあるべきだ」という価値観の問題なわけです。中国にとっては、南京大虐殺は「あった」というよりは「あるべき」問題なんです。
もし南京大虐殺が事実でなければ、中国の現政権がやっている反日教育は完全に成り立たなくなります。また、南京大虐殺があったとしても、果たして30万人殺したかどうか、これはまた学問的に検証すべきことでしょう。しかしそういう検証は許されないんですね。殺したのは30万人じゃないと絶対にいけないわけです。
どうしてそういうことになるかというと、ひとつは政権のイデオロギー。もうひとつは中国の昔から歴史をそういう風に見てきた思想です。
私は南京事件はなかったとか、あったとか言っているのではなく、いいたいことは、あったかどうかをきちんと学術的に科学的に検証すべきだということです。あったと検証できたなら、どのようにあったのかをやはり科学的に検証すべきです。しかし、そういう検証がまったく許されないということが、今の日中間の歴史問題とは何かをまさに象徴していると思います。
黄:私は南京学会がスタートした時点からずっと参加しているんですが、私達が行った検証では、南京大虐殺は史実として存在しないという結論でした。
呉:今、石さんのお話を伺っていて、韓国もまったく同じだなあとあらためて思いました。韓国にとっての歴史も、まさしくイデオロギーであり、宗教であり、政治であるということです。あったかなかったかではなく、ひとつの価値観にもとづいて、最初から「あるべき」ものとして置かれている史実がたくさんあるのも、中国とまったく同じです。ですから、韓国の歴史認識については議論の余地がないんです。
日韓共同で歴史研究をしましょうということでは、当然ながらことごとくうまくいっていませんね。韓国側は「あなた方は、まずは私達がいうことを認めなさい、認めて謝罪しなさい、そこから話をはじめましょう」ということになりますから、検証も何もしょうがないわけです。また、日本側が、日本統治時代に学校をたくさんつくったり、インフラ整備もずいぶんしたり、農業改革を大きく進めたりしたとかいうと、それは自分達の利益のためにやったので、韓国人のためにやったのではないとか、そういう言い方であなたは植民地を正当化するつもりかといって、けっして議論しょうとはしません。議論にしたりしたら、韓国の歴史認識の正当性は確実に崩れてしましますからね。(106頁)(『売国奴』 黄文雄、呉善花、石平《鼎談》ビジネス社)
真中 行造のページ 2008年1月24日(木)より 引用
日韓・日中の歴史共同研究があるが、以下を読めばやっても無駄なことがはっきりしている。
日本がいくら中韓に良かれと思ってやったことでも、それは日本の利益のためにやったものであって、中韓のためにやったのではないとか、そういう言い方で日本は植民地化を正当化するつもりかといって、けっして議論しょうとはしない。感謝の「か」の字も得られない。
中韓にとっての歴史は、まさしくイデオロギーであり、宗教であり、政治である。「史実」などどうでもいいのである。合うわけがない。隣国同士が仲良くするのは本当に難しいものだ。以下引用。
Q:5,000年史と半万年史のどこが誇れるところなのか
呉:古い歴史を誇りながらも、文化の連続性がないので、文化意識としては古いものと断ち切れていまっているんです。(中略)
中国でもかなり同じことがいえると思いますが、日本はまったく違って、延々たる文化の連続性が現代に至るまで続いているんですね。千数百年前に歌われた「万葉集」の歌が、今でも親しまれていること自体が、韓国人に大きな驚きです。王朝も交替することなく、ひとつの天皇家が古代から現代までを貫いて存在し続けてきました。もっとも、こういう国は世界でもほかにはないわけですが。
石:日本人のほうがよっぽど中国の古典を読んでいるんであって、現代中国人は明らかに古代中国文化の継承者ではありません。
「正しい歴史認識」という独善的な歴史観
黄:書物に書かれた中国、韓国、日本の歴史を比べてみると、私は日本の歴史の書き方がいちばん正直なんじゃないかと考えています。たとえば、『古事記』と『日本書紀』では、「神代の時代」つまり神話時代と、「人の時代」つまり歴史時代をはっきり分けて書いています。これが中国の司馬遷の『史記』では、神話伝説の時代もすべて人間の時代として書いています。そのように、中国人の歴史意識には、神話と歴史を区別しないところがある。
呉:韓国には古代の文献が残っていないので、古代朝鮮半島の研究をするには、中国の古代の書物や日本の『日本書紀』を参照するしかないんです。それで『日本書紀』を参照する場合、韓国人学者の参照の仕方に、嘘と本当という問題があると思います。韓国の歴史学者の多くは、自分の方に都合のいい史料のみを参照するばかりで、ちょっと困るような記事は『日本書紀』が歴史を捏造しているといったりするんですね。(中略)韓国では歴史教科書の観点からはずれた歴史認識は、間違った歴史認識であると誰もが疑いなく思うことになるわけです。つまり、韓国では歴史は社会科学ではなくほとんど民族宗教なんですね。⇒争っても仕方が無い。
石:中国で言っている歴史認識というのは、現在の政権のイデオロギーの正当性にほかなりません。政治的なバイアスのかかった歴史しか教えませんからね。(中略)
例えば南京大虐殺を歴史的な事実として研究する場合、まずはあったかどうかを学問的に検討する必要があるでしょう。それで検討した結果「あった」となればそれはそれでいいわけです。しかし中国には、まずは「あった」ということがひとつの史実として先にあり、それについては検討する余地がないという歴史認識の立場があるわけです。
本当に史実かどうかを検討する前に、お前はまずこの史実を認めなくてはならない、その上ではじめて話し合うことができるというのが、現在の共産党中国の歴史認識なんですね。つまりそこでは、歴史は史実以前の問題となっているんです。歴史は「こうあるべきだ」という価値観の問題なわけです。中国にとっては、南京大虐殺は「あった」というよりは「あるべき」問題なんです。
もし南京大虐殺が事実でなければ、中国の現政権がやっている反日教育は完全に成り立たなくなります。また、南京大虐殺があったとしても、果たして30万人殺したかどうか、これはまた学問的に検証すべきことでしょう。しかしそういう検証は許されないんですね。殺したのは30万人じゃないと絶対にいけないわけです。
どうしてそういうことになるかというと、ひとつは政権のイデオロギー。もうひとつは中国の昔から歴史をそういう風に見てきた思想です。
私は南京事件はなかったとか、あったとか言っているのではなく、いいたいことは、あったかどうかをきちんと学術的に科学的に検証すべきだということです。あったと検証できたなら、どのようにあったのかをやはり科学的に検証すべきです。しかし、そういう検証がまったく許されないということが、今の日中間の歴史問題とは何かをまさに象徴していると思います。
黄:私は南京学会がスタートした時点からずっと参加しているんですが、私達が行った検証では、南京大虐殺は史実として存在しないという結論でした。
呉:今、石さんのお話を伺っていて、韓国もまったく同じだなあとあらためて思いました。韓国にとっての歴史も、まさしくイデオロギーであり、宗教であり、政治であるということです。あったかなかったかではなく、ひとつの価値観にもとづいて、最初から「あるべき」ものとして置かれている史実がたくさんあるのも、中国とまったく同じです。ですから、韓国の歴史認識については議論の余地がないんです。
日韓共同で歴史研究をしましょうということでは、当然ながらことごとくうまくいっていませんね。韓国側は「あなた方は、まずは私達がいうことを認めなさい、認めて謝罪しなさい、そこから話をはじめましょう」ということになりますから、検証も何もしょうがないわけです。また、日本側が、日本統治時代に学校をたくさんつくったり、インフラ整備もずいぶんしたり、農業改革を大きく進めたりしたとかいうと、それは自分達の利益のためにやったので、韓国人のためにやったのではないとか、そういう言い方であなたは植民地を正当化するつもりかといって、けっして議論しょうとはしません。議論にしたりしたら、韓国の歴史認識の正当性は確実に崩れてしましますからね。(106頁)(『売国奴』 黄文雄、呉善花、石平《鼎談》ビジネス社)
真中 行造のページ 2008年1月24日(木)より 引用
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