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種の保存、種の繁栄という幻想――竹内久美子さん
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種の保存、種の繁栄という幻想――竹内久美子さん - 電脳筆写『 心超臨界 』
種の保存、種の繁栄という幻想――竹内久美子・動物行動学研究出/エッセイスト
【「正論」産経新聞 R02(2020).10.19 】
◆世間に広がった誤解
最近、どうして世間の認識は50年も前のままなのだろうか、と脱力する出来事があった。ある会合で講演をしたのだが、主催者の方が私を紹介する際に、何の疑いもなく、こうおっしゃったのだ。人間も含め、動物は「種の保存」や「種の繁栄」のために行動する。
それを聞いた人々も、うんうん、その通りと、とても満足げな表情を浮かべていた。断っておくが主催者、公演を聞いてくださった方々を責めるつもりは毛頭ない。私が不思議でならないのは、人間も含め、どんな動物も、種の保存のためにも、種の繁栄のためにも行動していないというのに、人間はこれらの言葉を信じ込み、それはほとんど酔いしれるかのような状態にあるということだ。
もう少し例をあげるなら、私の師である日高敏隆先生が、あるとき講演で延々1時間をかけ「種の保存」「種の繁栄」は間違いであると説明した。にもかかわらず主催者はこう感想を漏らしたのだ。
「いや先生、大変勉強になりました。それにしても何ですなあ、種の保存はやはり大切なことなんですね」
動物は、種の保存、種の繁栄のために行動するわけではないという証拠は、1960年代前半に見つかった。
当時、京都大学霊長類研究所の大学院生だった杉山幸丸(ゆきまる)氏は、インドでハヌマンラングールというサルの研究をしていた。1頭のオスが複数のメスとその子供たちを従えハレムを形成している。
若いオスたちは徒党を組み、ハレムの主の座を虎視眈々(たんたん)と狙い、彼の力が衰えてはいないかと日々のチェックを怠らない。
あるとき、どうもこれは勝算ありだな、と判断すると、本当にハレムを襲撃する。襲撃する側が複数で、防戦する側が1頭ではおかしいが、熱心なのはリーダー的存在の1頭だけなので問題はない。
たいていは襲撃した側が勝利し、ハレムの主と子供のうちでも息子が父の敗走に従う。
残されるのはメスと、子供のメス、そして乳飲み子である。
◆種ではなく自分のため
むろん、襲撃の際にも最も活躍した、リーダー的オスがハレムの主の座に納まるが、彼の初仕事は何と乳飲み子をすべて殺すことだ。
哺乳類のメスは普通、子に乳を頻繁に与えている限り、発情も排卵も起きない。しかし乳を飲む者がいなくなれば、数日か、遅くとも2週間のうちに発情と排卵を再開する。
新しいハレムの主が子を殺すなどというむごい行いをするのは、メスに発情と排卵を復活させ、ひたすら自分の子、自分の遺伝子のコピーを残したいからである。
もし、種の保存、種の繁栄のために行動するのなら、せっかく生まれてきて、そこまで育った子を殺すことなど、あり得ない。
このような子殺しの例は、その後次々と見つかった。我々に身近な動物としてはネコである。今は室内飼いがほとんどで、野良ネコもめっきり減ったのでネコの子殺しを目撃することはまずない。しかし、かつては野良のボスネコが飼いネコが産んだ子を殺してしまうような事件が頻発していた。
理論の面から「種の保存」「種の繁栄」が間違っていることが示されたのは1960年代末だ。米国の進化生物学者、G・C・ウィリアムズが、こんな説明をした。
もし、種の保存や種の繁栄のために行動するという遺伝的性質を持った個体がいたとしよう。
その個体は種のために行動することを優先させるために、自分の子を残すこと、自分の遺伝子のコピーを残すことが後回しになってしまう。結局、種のことなんか考えない、自分の遺伝子のコピーを残すことにのみ専念するという遺伝的性質を持った者たちとの、遺伝子のコピーを残す競争において敗れ去る。
だから種の保存、種の繁栄のために行動するという遺伝的性質は現れたとしても残ってこなかった。個体は自分の遺伝子コピーを残すためにだけ行動する。種は結果として残っているだけなのだ。
◆真逆のことを信じる理由
こうして1970年代にはこの分野では「種の保存」「種の繁栄」は間違っているという認識が共有されることとなった。
そうすると、人間が、実際の行動と真逆の、種の保存、種の繁栄を信じ、酔いしれるほどであるという現象についてはどう考えたらよいだろうか。それはそういう考えに惹かれることに、何らの、とてつもない大きなメリットがあるからとしか言いようがない。
メリットとして最大のものは、そのような性質は、他の部族などとの戦争の際に役立つということではないだろうか。
自分は自分だけの利益のために行動するのではない。集団の利益のために行動するのだと信じ、酔いしれる。そうすればより団結し戦争に勝利しやすくなる。そしてここが肝心な点なのだが、それは個人の利益となって返ってくる。そう信じてこそ、自分の遺伝子のコピーを残しやすくなるのだ。
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