―[言論ストロングスタイル]―
◆デフレ脱却が終わってないのに増税など、正気の沙汰ではない
岸田文雄首相は、支持率を見て政治をしているのか。それは必ずしも悪いとは言わない。
さんざん「財務省傀儡」「選挙が終われば、すぐに増税」「日銀人事も官僚の言いなり」「金融緩和だってやめるのでは」と言われ続けたが、今のところ岸田政権にその兆候はない。いくら親戚が財務省だらけと言っても、デフレ脱却が終わってないのに増税など、正気の沙汰ではない。日銀官僚の言いなりになって早すぎる金融引き締めをして景気を悪化させたら、目も当てられない。
安倍晋三内閣は、「日銀が金融緩和をする→株価が上がる→支持率が上がる→選挙に勝てる→誰も引きずり降ろせない」の無敵の方程式で、最長政権を築いた。岸田内閣も、その遺産で生きている。逆に麻生太郎内閣は、「日銀が金融緩和をしない→株価が下がる→支持率が下がる→選挙に勝てない→誰からも石を投げられて政権失陥」と地獄のような末路を辿った。最後は「鳩山民主党でもいいから麻生自民はイヤ!」と鳩山由紀夫内閣の誕生を許した。もっとも、その民主党内閣も経済政策を間違え続け、すぐに国民に愛想を尽かされて短命に終わった。
◆日本のマスク生活は惰性と同調圧力に岸田首相が逆らえないだけ
岸田首相は、自民党総裁選・衆議院選挙・参議院選挙とすべての選挙に勝った。3年間は支持率を気にせずに政治を行える環境にある。ならば、せっかくの景気回復を着実にして、国民の心を掴んで思うがままに政治を行えばよい。ようやく、「国葬」が片付いたかのようだが、いまだに「統一」に振り回されている。これら、国政の最重要課題だろうか。景気が絶好調ならば誰も相手にしないはずだ。しかし、岸田首相は強い意志で人心を掴む気が無いらしい。
10月20日の国会質疑で、日本維新の会の猪瀬直樹参議院議員から「こんなものは顔パンツではないか!」「なぜマスクをしなければならないのか」と質された。これに対する岸田首相の答えは、何を言っているのかわからなかった。そらあ、そうだろう。初動の段階ならばともかく、コロナ禍から3年、いつまで自粛生活、マスク生活を続けねばならないのか。他の国がやめているのに、日本が続けなければならない理由は何なのか。惰性と同調圧力に岸田首相が逆らえないだけではないか。
◆マスクなど、口オムツだ!
哲学とは結局、「それは何か」「それは何の為にやらねばならないのか」の二つだ。では、「コロナが何なのか」「自粛を何の為にやらねばならないのか」を政府のアドバイザーの医者たちは、一度でも説明したことがあるのか。少なくとも私は一度も聞いたことが無い。
「命は尊い」式の小学生でも言える幼稚な作文や「自粛をさせたい」とするマッドサイエンティストの邪な欲望は腐るほど聞いたが。哲学なき医者などと生ぬるい言い方では済まない。岸田首相はヤブ医者どもを切り捨てる、強い意志を持つべきだ。自分がマスクをしながら「マスクはしなくていい」などと弱々しい言い方をしても響かない。はっきり言うべきだ。「マスクなど、口オムツだ! やめよう!」 と。
結局、コロナ禍が始まってから、総理大臣さえ逆らえない同調圧力が日本を支配している。理屈が通らなくても、「みんなが正しい」と思えばそれが正義、議論に応じることなく意見を強制して良いとの危険な風潮が蔓延っている。旧統一教会の問題もそうだ。
◆カルトたたきは自身がカルトになりがちだ
断っておく。私は保守言論界の中では、最も統一教会に対して厳しい人間であると密かに自負していた。表立って言うことではなかったが、同業者に対しては「アイツらは統一教会みたいだ」「お前のやっていることは桜田淳子と同じ」と罵るのが常だった。その私からしても、今の旧統一バッシングは行き過ぎだし、見当違いの人間まで攻撃している。「旧統一教会の雑誌や新聞に関わったら悪」というバッシングすらあるが、そうした新聞や雑誌に関わる人間のすべてが悪魔な訳が無かろう。えてしてカルトたたきは自身がカルトになりがちだ。
そもそも宗教とは何か。信じている人にとっては「正しい教え」だ。
「自分が信じている教えは世の中に無数に存在する宗教の中の一つであって絶対ではない」などと考えるなど、極めて近代的な現象だ。そもそも西欧では、一つの国の中で複数の宗教宗派が共存できるようになることを近代化と呼ぶ。
◆人は宗教からは逃れられない
三十年戦争の末の1648年。ウェストファリア会議において、「心の中では何を考えても良い!」とヨーロッパ中の国王たちが合意した。これにローマ教会は反発し、争いはまだ続いた。それまでは、「心の中で違うことを考えているかもしれない者は、殺さ“なければならない”」だった。それが「殺さ“なくてもいい”」になり、「殺しては“ならない”」になった。
西欧の歴史に詳しくなくても、魔女狩り(異端審問)くらいは知っているだろう。異端審問は、「疑わしきは死刑」「拷問なしで死ねるのは貴族の特権」「なぜなら神の名で疑われたこと自体が有罪の証拠だから」とのカルトな論理で行われた。やったのは、己の正義を信じた人たちだ。
人はなんらかの価値観に従って生きている以上、宗教からは逃れられない。「自分は無宗教である」と宣言しても、それ自体が一つの価値観、「無宗教という宗教」だ。ちなみにかくいう私は、不可知論者。宗教を「神のような人知を超越した存在を信じること」と定義すれば、「神がいるのかいないのか自分で理解できないし証明もできないのでわからない」とする立場が不可知論だ。
◆見当違いのバッシングにご用心
ところで、立憲民主党の打越さく良参議院議員が旧統一との関係が取りざたされてきた山際大志郎コロナ担当大臣に「貴方が統一教会の信者ですか」と聞いていた。山際大臣、非常に困惑していたが、当然だろう。聞かれる前に自らの宗教を公表するのは自由だ。だが、「お前の信じている宗教はなんだ」と権力を持つ者が公開の場で聞くとは、魔女狩りの歴史を知らないのだろうか。
相手が「統一」と疑われるなら何をやっても良いとは、いつから日本は前近代に逆戻りしたのか。コロナ禍からか。ならば言おう。マスクをしてない者だけが「統一」に石を投げて良い。今の日本、カルトの“マスク真理教”の支配下ではないか。
もちろん、かつての旧統一教会が世間を騒がせたのは事実だし、今も被害者がいるなら厳正に調査の上で対処すべきだ。だが、「そんなことで叩くのか」という事例も多い。
見当違いのバッシングにご用心。
【倉山 満】
’73年、香川県生まれ。憲政史研究者。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中より国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務め、’15年まで日本国憲法を教える。ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰し、「倉山塾」では塾長として、大日本帝国憲法や日本近現代史、政治外交についてなど幅広く学びの場を提供している。主著にベストセラーになった『嘘だらけシリーズ』や、『13歳からの「くにまもり」』を代表とする保守五部作(すべて扶桑社刊)などがある。『沈鬱の平成政治史』が発売中