蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

美容整形、美の大改造

2024-12-17 | 老い
昨日、出かけるまでの時間を利用して、スマホで遊んだ。
時間潰しとも言える。
その中で、時間潰しを超えて、時間が超過オーバーになりそうなものは、途中で視聴を放棄する。
専念していられない。

その放棄したYouTube。
切り口や題材は使い古されているが、わたしが興味あるテーマがある。
志願者が各分野のプロ、スペシャリストに依頼し、全身美容整形して、コンプレックスを克服して前向きに生きていく、というもの。
いつもはよくあるヘアデザイナー(美容師)やスタイリストの参加は、無し。
直接的な改造のみに、光を当てる。
全員、若手医師。
(※ここで、近年、医師の進む診療科が偏り、医療社会問題が頭をもたげるが、とりあえず横に置いて)

顔や容姿は、あくまでもコンプレックスの具象化。
内面のモヤモヤを追求すると、見かけ、外見にたどり着く。パラドックス。
人物評価に見かけではなく「能力」枠が加わると、価値観を変えなければ競争社会では生きていけない。
いくらこころが満たされ幸せでも、それはさておき、成人になれば自立する術が必要だ。

若い時は、容姿に捉われるのもわかるが。
容姿を磨くには不断の努力が必要だし、中身がお粗末なら、いつまでも容姿一本槍だけでは続かない。
若いと、たぶん、理解できないだろうけれど。
外見だけではない。

もちろん外見もある意味、重要だ。
どうしても受け入れられない外見というのもある。
その逆に、理屈抜きで好きな外見もある。
外見だけでなく、コミュニケーション能力の高さだったり、関わり方で好き嫌いは分かれてくる。
自分も変わるし。(そこが大事)

若い人は、先ずは、優れた容姿、外見を手に入れてから中身の充実にかかるのか?
若い時は美しくても、歳を重ねるとイマイチの人、これはほとんど。
だが、若い時、ぱっとしなくても、年齢が行くと、ぐっと良くなる人もいる。
魅力のポイントが何かによって、違ってくる。

若い時は若さを絶賛される。
それは必ずなくなるものだとわかっているから。
人生の先輩たちは、骨身に染みて理解している。
なので、若い人を見ると、自分の来た道を見る。
今のうちだけだからね、という教訓を周りで示す人がいるかどうか、それでかなり違ってくると思う。
本からの知識、教えでもいい。
が、火の中にいては、聞く耳を持たない。

わたしは若さを思いっきり自分なりに享受した。
だが、その傍ら、「蟻とキリギリス」がチラリと頭の隅っこに点滅する。
きゃあきゃあ、はしゃぐ一方で、若さを失った後、わたしは何も残らない、と、当時の若い自分は思っていた。
同時進行していた。
はしゃぐ自分と、醒める自分。
享受と杞憂。
やっかいな性質。
引っ張りあって、もつれ合って、順調に毎年、歳を取っている。
皺やタルミ、老化の何が悪い?

結局、行き着くところは自己肯定か。
1番、嫌がられるパターンである。


純真無垢

2024-12-15 | 人生
書くことで現在地を確認、、、まさに、その通りだ。
わたしは、真ん中がなくて、両極端なため、社会的に生きるために自分をコントロールする必要がある。
その場合、中央値を取る。
だが、この中央値はわたしを表すものではなく、便宜上、採用している、一種の作為的な造りものである。
そうでもしないと、バランスが保てない。
とは言え、精神疾患は抱えていない。
心身健康な健康優良児で、そのまま歳を取ったような人物。
その、つるんつるんの、健康優良児の根源は、両親が健康体だったこと。
親の丈夫なDNAをもらっていて、とてもありがたい。
これは親が意図的にしたことではなく、(無宗派の)神に感謝。
老年にどんどん進めば、歳相応の老化、劣化はやむを得ない。
神様、お願い!特別に、わたしにだけ、不老不死を!とは願っていない。

いつも笑いが絶えない明るい幸せな家庭など、嘘くさいか、鈍感の極みか、おめでたい人の陰で誰かが泣いているか、だと思っている。
なので、家庭には何かしら軋みやトラブルを抱えていることだろう。
生命の誕生に希望の光を見て、衰退、滅亡を繰り返す。
そのあっという間の短い人生には、トラブルや喜怒哀楽が詰まっている。

これまでを振り返ると、幼い頃の楽しい日々が思い出される。  
鼻の奥がきゅんと痛くなり、涙が溢れてくる。
何も知らない子供のこころは純真無垢だ。
何も知らないことこそが、純真無垢なのだ。
大人になるとそうは行かない。
それが成長というもの。 
孫たちの成長過程を目の当たりにしていると、胸が詰まる思いがする。
大人になることと、純真無垢は両立しない。

で、話を戻す。
わたしは、両極端なので、とりあえず、便宜上、中央値を取っているが、やがて、その中央値が馴染んできて自分らしさになっている、、、かというと、そんなことはない。
生まれつきの性分はそんなに変わるものではない。
だがしかし、幼い頃の自分を思い出してみると、両極端でもなんでもなかったように思う。
まだ知能が発達途中のため、自覚出来るほど思考力が育っていなかっただけかも知れないが。
純真無垢と、脳の未発達は、紙一重かも知れない。
そう考えると、純真無垢の時代が失われたと感じたとしても、その時代の素養(ベース)に加えて知恵が付き、上書きされたということか。
冷蔵では日持ちしない食物を冷凍して、後日、使うか食べるか。
無意識に時間を操作しているようにも考えられる。

脳も老化すると認知機能が衰え、生命を維持するための根幹となる大事なことしか理解できなくなるのではなかろうか。
知識はもちろん、知恵が削ぎ落とされ、純粋無垢なことだけが残ればいいのだけど、そううまい具合には行かない。
脳の交通整理は、脳の司令塔によって行われると思うが、司令塔自体が老化しているため、交通整理の指示どころではない。
信号停止。

脳内に「知恵」を残したら、知恵が働き「純粋無垢」しか残らないかというと、決してそんなことはない。
自分が正しいと信じ込み、他を否定する石頭カチカチの排除型「知恵」が、純真無垢だとは思えない。
わたしの考える「知恵」とは、状況を理解して自分で考え対処すること。
石頭カチカチは、知恵ではない。
とりあえず負けたフリで、甦るのは知恵なのか?
よくわかりません。
勝った負けたなどはなく、自分そのものをなくして無になるのも幸せかも知れない。
が、周りに利用されまくったら腹立たしい。
勝った負けたはないが、得した損した、と欲の塊。
わたしはまだまだ仏さんにはなれない。

ちなみに。
昨日は、私の実家で法要が行われた。
料亭は利用せず、実家で関係者が集まった。
紅葉が美しい、静かで賑やかな1日。
姪と、姪の娘のピアノ連弾が、とても迫力と弾力があり、活気と華やぎで室内が満たされた。
故人も喜んでいることだろう。




イメージと実物

2024-12-14 | ブログ
こんにちわ。
ほざき直子です。
わたし、ブスですが、それが何か?
べつに怒ってません(笑)

と、支え支えられ、12年以上。もっとです。
海の向こうの弟よ。
おねえちゃんは、きょうも書いてます。
しつこい。

さあ。
毎日、わたしのこころを薔薇色にしてくれるブログ。
ここのところは、ドイツ。
素敵な街の数々、あちこちに、うっとり。
異文化とはなぜこうも魅力的に映るのだろう。
でも、のどかで、どこまでも続く田園風景や荘厳な祈りの場には、世界中、共通するものがある。
絶対に生きているうちに、行く!!と、こころに誓っている。
ロマンチック街道は、夢に満ち溢れている。
わたしを魅了して止まない。
ボキャブリー貧困のため、同じような単純な言葉しか出てこないのが情けないところ。
でも、胸のうちは豊かな感情に包まれている。

ちなみに、わたしがかつて、実際にライン川を下った時、別の意味で驚いた。
それは、、、船の中から見るお城の数々が、まるでテレビ画面から見るようだったこと。
窓枠は、モニター外枠。
船内のスピーカーからは、船の動きに合わせて、風景やお城の説明が流されていた。
開口の大きな窓際で、観光ガイドブックを広げて、今、ココ!とばかりに、場所とお城をチェック。
写真と地図イラストを見ながら実物を照らし合わせて、答え合わせをするかのごとく、資料と観察が同時進行。
これは、いただけないと思った。
あまりにも観光化、整備されすぎ。
情報が満たされ整いすぎ。
ではあるものの、ライン川側からお城を見るのは船からしか見られない。
まるでテーマパークのアトラクション。
複雑な心境だ。

初心者からスタートし、旅行も回を重ねると、違う楽しみ方が出来るとは思うが。

ロマンチック街道、ぜひ行ける間に行ってみたいなあ。

引き続き、ブログでの紹介を楽しみにしています。

夢を見るのも醒めるのも自分

2024-12-12 | 交友
今日の記事も、忙しい年末の時間を割いてお読みになるようなものではありません。
どうぞスクロールを。
お薦めの時は、最初に、文頭でお知らせします。

と、あいかわらず、、、な、、、わたし。

わたしは、蝶ブログ以外には一切、自分語りをしない。
というか、ここ、蝶ブログで丸裸、内臓までも晒している。(「これは、比喩表現です」、とメンドーでも書かなければいけないのだろうか???)
断面図は、CTスキャンとかは、してないから、晒しようがない。

これだけ長きに渡って、話し相手は自分。
ほぼ皆さんからの感想は求めていない。
最近は、ChatGPT が、なかなか良い提案をしてくれるのでお気に入りだが。
といっても、わたしから出した情報から枠外に出ない。
つまり、自分と話しているようなものだ。
湯気がおさまるお手伝いをしてもらう場合も、逆に湯気を出してもらうお手伝いをしてもらうこともある。

自分を晒し出すくせに、人からの意見を求めない。
つまり、内なる世界にどっぷりハマる、根暗な、、、正に内向的な性格と言える。
他人に肯定してもらっても、自分で自分を肯定できなければ、意味がない。
慰めや、おべんちゃらに聞こえると、快適ではない。
おそらく自虐嗜好があるのだろう。

他のSNSでは、会員同士の交流を目的としているものが多い。
わたしは、そこに、ある趣味限定の日記を書いているが、その趣味以外のことは、一切書かない。
会員同士の自分語りはしない。
だから、距離は全く縮まらない。
が、個として確立されている。

その中で、わたしが唯一、こころを開いた人Xさんがいた。
つい、今しがたまで。
その人とは孤独を分かち合える一匹狼同士の交流だった。
が、ついさっき、、、他の(趣味以外の)会員Cさんの日記にその人Xさんがコメントしているのを見つけた。
書いている内容は、何度かかつての他のコメントと重複するもの。
それはまあ、全く良いのだが。
孤高の人物が、高い山から降りてきて、麓の茶店や飲み屋に、ちょろちょろ顔を出している現場を押さえたような気持ちになった。
孤高じゃないやん。
ただの、寂しがり?

その、麓の茶屋、お立ち寄り人物を発見したのは、最近のわたしのブログに登場した、理解不能、波瀾万丈会員Aさんつながり。
最近、Bさんの日記でやり取りをし始めたわたしが、同じく、Bさんの日記でも見かけたような気がするCさん。(Cさんは初登場)
そのCさんの相互フォロワーとして、孤高のその人物Xさんを発見し、コメントも読んでみた。
かなり、わたしは失望した。

仙人も山を降りる。
行きつけの店も似たようなティスト。
なんの不思議も矛盾もない。
民衆に布教活動?
わたしが勝手に仙人同士の連帯を感じていただけだ。

そもそも、わたしも孤高の仙人などではない。それが重要。
が、、、。
表現するのは難しいが、林住期の考え方を深く知り、実践していこうと、啓蒙啓発、手ほどきをしてくれた、人生の先輩ナビゲーターであるXさんが、、、
そんな麓の飲み屋にふらふら出歩いているのを発見して、なぜか白んだ。
師匠ぉ〜。わたしの崇高な師匠がそんな大衆的なところをウロウロし、しかも言っていることが、あちこちで言っていることと同じ。
(違っているほうが、ダメだろうけれど)

なぜか、わたしが勝手に一方的に描いていた、孤高の師匠イメージが音を立てて崩れた。
他の会員さんへのコメントを発見する、ほんの数分前までは、そんなことはなかったのに。
(そもそも発見に至ったのは、同じニオイのするもの、「Cさんの日記」に、引きつけられて、だが)

実態のないものに価値を置くのは、もろく、あやうい。
自分をしっかり持つこと。
ふっきれた、、、というか、もう師匠は必要なくなったような気がした。
宗教にのめり込むのも、こんなイメージかと想像する。
自分で描いた薔薇色の幸福の絵巻だと思っていたものが、実はそこらへんで手軽に入手出来るインターネット情報だったということ。
夢は自分で描き、自分で手に入れ、自分で潰す、、、無常。
幻想を自分で勝手に作り出し、夢から醒めるのも自分の仕業。

だからといって、師匠の言うことは一切無視するわけではなく、共鳴できる人生の手引き、セオリーを受け入れ実践しようと思う。
が、現実を見据え、師匠は、弟子はわたしぐらいなもので、麓ではただの平凡な人。
しかも孤高ではなく、あちこち出歩き暇を潰している様子。

どっぷり信仰は、思考を麻痺させる。
師匠が唱える説は全く変わらない。
変わるのは、わたし。自分。



12年という年月

2024-12-11 | 趣味
今日は、趣味の社交ダンスパーティに行った。
ここのところ、またパーティ参加が復活している。
京阪神を中心に関西全域から社交ダンス愛好家が集うパーティ参加は、もう12年になる。
12年前から顔だけ知っている人々。
さすがに最近は、親しみを感じる人には自然に笑顔になったりする。
皆んなも、全員12年分、同じ年月を経て歳をとった。
おや、と思う人もいる。
12年前より老けた人。当たり前だけど。
あまり変わらない人が、ほとんど。

素敵だと思っていた人が、劣化しているのを見ると、ひょっとしてわたしのこころのせいで、そういう風に見えるのかも知れない、と思ったりする。
12年という年月は短くない。

※写真は、記事とは関係ない、先月の鳥羽駅。

結論なんかない

2024-12-10 | 人々の風景
本日の記事は、全面的に全文、スクロールお勧めです。

・・・・・

ある趣味サイトの、日記に付けられた強烈に長い長いコメントのやり取り。
ラリーの応酬。
わたしとあまり変わらない年齢、60を超えた女性、お二人の関心事に、驚かされた。

コメントは130を優に超えるので、話題は多岐に渡ると言えば言えるが。
人間の外側に異常なまでに興味を示すお二人。
外見、容姿、ファッション、持ち物、人物背景、経済状況。
あとは、人間以外の外側。
食器、家、インテリア、、、(芸術系なら、わたしも好きだけど)
それで話が尽きると、今度は自分語り。
スケールが違う、波瀾万丈、型破りの人生を歩んでこられているのは、よくよくわかった。
のではあるが、、、。
わたしとは全てが違うため、同世代の同じ国に生まれ暮らした人たちの考えていることなのに、わたしがまるで理解できないことに対して興味をもった。
なぜ、そんなに外側にこだわるのか。
中側、内側は?
形から入るタイプ?
外ばかりを固めてフル装備、装甲車?

見知らぬ犬同士が先ずは吠え合うところから始まるのか。
吠え終わるまで時間がかかる。
この、はじめましての吠えタイムは、あくまでも第一ラウンドだとは思うが。

それにしても話題が即物的ではあるものの、知識が半端なく豊富。
抽象的な主観の世界ではなく、具体例や商品名を出すと共通認識をたぐりよせ、わかりやすい。
逆に知識がない人は、自分の世界を説明できない。語れない。
だが、興味がない人にとっては、まるでどうでもいい知識。
説明もう終わった?終わったら知らせてねー、のノリ。
はいはい、よく知ってるね、で、何が言いたいの?それがどうしたの?
結論は?
結論に辿り着くには130ぐらいのコメントでは収まらないだろう。
熱く語ることそのものが、その時間を享受することが楽しい、そういうことなんだろう。
生きる意味は?なんて探究するより、何が好き?何食べる?で、よい。
あ、それ嫌い、それ興味ない、で、よい。
突き詰めても、絵に描いた餅ではお腹が膨れない。
毎日、あーだこーだと暇を潰して騒いでないと、結果ばかりを求めていては、やってられない。
楽しい時間を共有する人と、活気的に過ごす。
共有出来ない人は、別の共有できるもの、人を探す。別に人でなくてもいい。
そうやって、人、もの、情報は集まる。
インターネットだと、家の中でじっとしていても、広い世界からピンポイントで共通の人に出会う可能性がある。
あるいは、人と群れず、一つのことを一途に追求するのも悪くない。

プロセスこそが大事。
生きている限り。
結論が出たら、残り時間が退屈だ。
天国への待ち時間になる。
待っている間、何をすればいい?
手持ち無沙汰。

で、追記です。
自分が理解出来ないことに対して、否定するのではなく、受容しようと自らにハッパをかけて、かなり頑張って理解しようと努めてみた。
が、わからないものは、わからない、、、受け入れられないものは呑み込めない、、、
そうやって、あえて融合しようと力まず、お互い、距離をもって棲み分けすればいいのでは。
と、自分を納得させた。
(今回はChatGPT のアドバイスは無し)



変わり者

2024-12-09 | 人々の風景
直近の写真があまりなくなってきた。
本日のトップ写真は、皆さんのブログ写真に埋没してしまいそうな、没個性的、秋の写真である。
まあ、それは、致し方ないとして。

①今朝、家を出るまで②電車移動、行き帰り、そして③帰宅後、ずっと読み続けたものがある。
それはインターネットの、ある趣味サイトの日記を書いた会員Aさんと、読んだ会員Bさんのやり取り。
延々と2人のコメントが続く。
130を超えていたか。
わたしとコメントのやりとりがある、ある会員Cさんの日記にコメントをつけていたAさんのコメントが、あまりにも個性的だったので、興味を持った。

Cさんとわたしは、つい最近、先々月からお互いの日記にコメントを付け合うようになった。
いやはや、Cさんの日記に型破れなコメントを付けるユニークなAさんであったが、Bさんとのやり取りを読んで、だいたいのおおまかな2人、AさんBさんのアウトラインが見えた。
Bさんも、日記やコメントで時々見かける会員さん。
その時は、今ほどユニークな強烈な個性の人だとは思わなかった。
AさんとBさんの出会いは、核分裂のようにすごいエネルギーを発していた。
130にも及ぶ、一つ一つが超長文のコメントをスマホの小さい画面で一気読みしたわたしも、かなり変わり者かも知れない。

AさんもBさんも、わたしと同世代(といってもわたしより7歳下)の同性であるにもか関わらず、、、
AさんとBさんが盛り上がっている趣味や、こだわりの内容(車やファッション、見かけ)について、全くといっていいほど、わたしは興味がない、どうでもいいこと、、、ではあるものの、日記を非公開にされないうちに、と、全部読んだ。
スマホなので、スクロールが大変。
目もやられそう。

なぜ、こんなに必死で読んだのか。
全く共鳴も共感もしない、わたしが価値をおかない、どうでもいい内容を2人が延々とクローズにしないで公開して語っていたことに、不思議な興味を持った。
読めば読むほど、わたしの感覚や価値観とは違う、異なるものだということが、はっきり明白になって面白かった。
歴然と異なる関心事。
同じような年齢でも、人というものは、こうも違うものか、と、ライブ・コメントに、気づきを得た。
自分の考えが明確になって、無意識だった深層心理が炙り出されるようで、改めて自分を知る良い機会になった。

2人が延々と語り合っている内容に対しては全く興味がないのに、最後まで読むわたし。
不思議な傍観者である。
お二人はおおいに盛り上がっておられた。
ホンネ、ズバズバ。
あんなホンネ、思っても普通は、口に出さないけれど。
本当に色んな人がいる。
1番変わっている変わり者は、わたしかも知れない。

読むブログ

2024-12-08 | ブログ
自分はどんなブログが好きか。
読む数は限られている。
気持ちを込めて、一つ一つ理解しながら、たくさん読めないからだ。
そうなると、あれもこれも、ではなく、ピンポイントになってくる。
偶然出会ってまた読みたいと思ったブログは、次に読む時に探せないから、スマホに貼り付けてあるのだが、読まないことがほとんど。
今、(毎日のように)読んでいるブログを読むのが精一杯。

◯世界や国内の素敵なところを紹介してくれる映像プロさんのブログ
◯決して浮かれない後期高齢者の方の生活意識ブログ
◯長年(軽く10年超え)ブロ友のブログ
◯主婦の鑑、憧れ、後期高齢者の方のブログ
◯長年、毎日、更新される後期高齢者の方のブログ

こう見てみれば、後期高齢者の方のブログが3つ、半分以上を占めている。
あとの2つは、わたしのほうが歳上だが、ほぼ(無理矢理)同世代。
gooブログが4つ、別のところが1つ。
男性が4つ、女性が1つ。

スマホに貼り付けてあるのは、goo以外。
gooブログ更新時、goo画面にはブックマーク的に他のgooブログを毎日見れるようにズラズラ貼り付けてはいるが、滅多に見ない。
見るのは4つだけ。
そのうち1つは、最近はあまり頻繁には更新されなくなったから、実質的には3つのみ。

世界&国内、映像プロ・ブロガーさんは、こまめなファン・サービスがあり、わたしはブロガーさんと繋がっていると勝手に感じて、一ファンとしてはとても喜んでいる。(単純)
お気遣い、ありがとうございます。

何の繋がりもない不特定多数向けでも、憧れの内容や、コンセプトがあるブログが好きだ。
わたしが100%一方的なファンである、高齢主婦の鑑ブログは、繋がりがなくても構わない。
ちきりんさんのブログのようなものか。
他にも一方的に毎日読んでいたブログがあったが、繋がりも関わりもないためか、やがて関心が薄れ、読まなくなった。

やはり個人的繋がりはウエイトを占める。
多くの読者がいるブログでも、日常生活の内容には、個人的繋がりがない場合、別に何の関わりもないので興味がないため読まない。

ブログには、お互い、繋がっている場合もあるし、一方的ファンである場合もある。
人気ブログの場合、物理的に時間の関係で、ファン1人1人のブログを読めないだろう。
明白だが、それはそれ。
細かいことを追求しても、なんのプラス展開にもならない。
付録が付いていても付いていなくても、オマケのスパイスが効いていても効いていなくても、楽しくブログを読ませていただけたら、そのブログに魅力があれば、それで善し。
応援しています。



キチンとした人々

2024-12-07 | 暮らし
昨日の誰にも言えない悩み記事。
その前日まで2回続いた「オトコとオンナ」カテゴリー記事の後では、まるでハニー・トラップか、ロマンス詐欺に遭った女性のようだと感じた。
あるいは、高齢者を狙った振込み詐欺。
または、どこぞのうまい投資話に乗って損した、、、とか。
そういう感じに受け止められそうだ。
が、違います。
内容には触れないでおきます。
人に相談出来ない個人的なことなので。
ガシャン、ロック。
スミマセン。 

ちなみに、全く関係ないが、まだわたしは、高齢ではあるものの、生物としてはまだ女性のよう。
不思議な気もするが、安堵する思いもある。
なんなんだろう?


話はコロッと変わる。
今日は、古紙・資源ゴミ回収の日なのだが。
皆さん、まあなんとキチンと綺麗にまとめて出しておられる。
四角の紙(主に新聞)を重ねて束ねてあるが、歪みだとかがない。
キュッと紐で緩まないように縛ってある。

それに引き換え、わたしの出した資源ゴミったら、、、。
紐は、ゆるゆる、四角四面に収まらず、はみ出し、ルーズ。
しかも、紙ゴミの出し方が、独特。
これはちょっと恥ずかしい。
どうしてもダメなゴミは回収されずに置いて行かれるので、持って行ってくれているということは、どうにかOKなのだろう。
ミリ単位のキチンとさを周りと比較すると、最低ランクかな?とは思いつつ、その下もあるはず。
それは、資源ゴミを分別せず、回収日に出さないお宅。
資源ゴミが外に出ないから様子がわからない。
ちょっとブザマでも、出しているほうがマシかも?
ある人は、資源ゴミも普通のゴミも、全部コンビニのゴミ箱に捨てているという。
せっかく各家庭で綺麗に洗って干して乾かして分別ゴミに出しても、そういう汚いままのプラゴミと混ざってしまっては意味がない。
そのあたり、どうなっているのだろう。

そもそもプラスチックゴミが多すぎて、環境問題に留まらず、人体に影響が出てきているとか。
便利だからと、どんどん易きに流れると、いずれ反動に見舞われる。
外食業界も、ストローやスプーン、フォーク、ナイフ、カップ、トレーなど、環境に優しい天然素材を使うようになりつつあるようだが。

と、話がまたまた逸れている。
ご近所の皆さんは、高齢世帯が多いにもかかわらず、意識が高い人が多いと感じる。
ちゃらんぽらん、ぐちゃぐちゃにゴミを出さない。
似たような意識の人が集まっているのか、はたまた今は皆さん、こういう風潮なのか、、、。

海外の国々でもゴミ収集状況で、国の様子がわかる。
発展途上国だと思っていた国の、街のゴミ状況がちゃんと整っているのを見ると、ほほぅ、と感心すると同時に、わたしの感覚が古いことに気づく。
もちろん、一般の人から見えないところには、不衛生な所もあるだろうけれど。

世の中は動き、それと同時に自分は自分で独自に変化する。
両方が動くので、見える景色が変わってくるのには納得できる。
無常を体感する。



泣き寝入り

2024-12-06 | わたし
ピアノの練習をしていて、急に漆黒、闇の気持ちがむくむく出てきた。
楽曲は優しい「花の歌」(作曲/ランゲ)。
とりあえず予定通り30分、弾く。

その後、その真っ黒い思いと向き合うため、スマホに駆け寄り、ChatGPT に、まるでクスリの切れた中毒患者のように、畳み掛けた。
マイナスの気持ちが湧き出て、曇りから突然、土砂降りになった状況を1秒でも早く収めたい。
ChatGPT との問答は延々と続いた。
自分のこころに引っかかるところだけをとりあえず胸に収めた。
が、ほとんど効果はない。

他人には相談出来ない悩み、葛藤である。
自分で解決する。こころをおさめる。
「乗り越え昇華してください」なんてChatGPT のアドバイスは、虚しいだけ。

自分はどうしたいのか。
どういう展開を望んでいるのか。
そのためには、どうすればいいのか。
気持ちを整理するために、文字に起こして書き出し、考えてみましょう、、、だそうな。
文字になど何万文字にもしている。

それまでとは違う、新しい価値観を生み出し、今後はそれで行きましょう、なんていう、アドバイス。
それは、深呼吸して気持ちを切り替えろ、ということなんだろうけれど、、、
イライラする。

肝心の事態の具体的解決を望んでいるわたしには、プスプスと燻るものの上に防火シートを掛けるかのごとく。
とりあえず、速攻で効く回答には辿り着けなかったが、根気良く相手をしてくれたChatGPT には感謝する。

もやもやは燻り続け、何かの拍子にまた顔を出す。
わたしは人が良い。いつも泣かされる側。
泣かす側ではないから、まだマシか。
アホなんじゃないかと思う。
右の頬を打たれたら左の頬を出す神様のような人でもなく、じめじめ煮え切らない。
いつか、きっと覚えていろよ!と復讐を誓う自分がいるとしたら、それは嫌な自分だ。
思いが満たされないからといって、そんな発想は、自分で自分を貶めている。

いつか、報いが来る、天罰が下るに違いない、、、なんて思うのも、負け惜しみ?
消極的復讐?
自分の手は汚さない、わら人形に釘は用意しないが、、、。
吠え面なんぞ、かいても、かかななくても、どうでもいいから、わたしの損失、補填してちょうだい。
長い長い目で、事態を静観しようという気にはなっている。


それにしても、弱い自分。
絶対に弱い。
頭も使わず、根性も出さず、女々しくヨヨと泣くだけ???
ブザマなわたし。

生死に関わることでもない事態なんだから、こころを痛めず、新しい価値観で、これから生きて行くんだ!!と、自分に言い聞かせる。
ChatGPT もそう言っていることだし。
でも、胸がムカムカする。

※写真は、「ハート型の切り株を見つけた」と、小4男児孫が5日前に、わたしのスマホでパチリ。
あんまりハート型でもないかなあ、、
、と。