蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

純真無垢

2024-12-15 | 人生
書くことで現在地を確認、、、まさに、その通りだ。
わたしは、真ん中がなくて、両極端なため、社会的に生きるために自分をコントロールする必要がある。
その場合、中央値を取る。
だが、この中央値はわたしを表すものではなく、便宜上、採用している、一種の作為的な造りものである。
そうでもしないと、バランスが保てない。
とは言え、精神疾患は抱えていない。
心身健康な健康優良児で、そのまま歳を取ったような人物。
その、つるんつるんの、健康優良児の根源は、両親が健康体だったこと。
親の丈夫なDNAをもらっていて、とてもありがたい。
これは親が意図的にしたことではなく、(無宗派の)神に感謝。
老年にどんどん進めば、歳相応の老化、劣化はやむを得ない。
神様、お願い!特別に、わたしにだけ、不老不死を!とは願っていない。

いつも笑いが絶えない明るい幸せな家庭など、嘘くさいか、鈍感の極みか、おめでたい人の陰で誰かが泣いているか、だと思っている。
なので、家庭には何かしら軋みやトラブルを抱えていることだろう。
生命の誕生に希望の光を見て、衰退、滅亡を繰り返す。
そのあっという間の短い人生には、トラブルや喜怒哀楽が詰まっている。

これまでを振り返ると、幼い頃の楽しい日々が思い出される。  
鼻の奥がきゅんと痛くなり、涙が溢れてくる。
何も知らない子供のこころは純真無垢だ。
何も知らないことこそが、純真無垢なのだ。
大人になるとそうは行かない。
それが成長というもの。 
孫たちの成長過程を目の当たりにしていると、胸が詰まる思いがする。
大人になることと、純真無垢は両立しない。

で、話を戻す。
わたしは、両極端なので、とりあえず、便宜上、中央値を取っているが、やがて、その中央値が馴染んできて自分らしさになっている、、、かというと、そんなことはない。
生まれつきの性分はそんなに変わるものではない。
だがしかし、幼い頃の自分を思い出してみると、両極端でもなんでもなかったように思う。
まだ知能が発達途中のため、自覚出来るほど思考力が育っていなかっただけかも知れないが。
純真無垢と、脳の未発達は、紙一重かも知れない。
そう考えると、純真無垢の時代が失われたと感じたとしても、その時代の素養(ベース)に加えて知恵が付き、上書きされたということか。
冷蔵では日持ちしない食物を冷凍して、後日、使うか食べるか。
無意識に時間を操作しているようにも考えられる。

脳も老化すると認知機能が衰え、生命を維持するための根幹となる大事なことしか理解できなくなるのではなかろうか。
知識はもちろん、知恵が削ぎ落とされ、純粋無垢なことだけが残ればいいのだけど、そううまい具合には行かない。
脳の交通整理は、脳の司令塔によって行われると思うが、司令塔自体が老化しているため、交通整理の指示どころではない。
信号停止。

脳内に「知恵」を残したら、知恵が働き「純粋無垢」しか残らないかというと、決してそんなことはない。
自分が正しいと信じ込み、他を否定する石頭カチカチの排除型「知恵」が、純真無垢だとは思えない。
わたしの考える「知恵」とは、状況を理解して自分で考え対処すること。
石頭カチカチは、知恵ではない。
とりあえず負けたフリで、甦るのは知恵なのか?
よくわかりません。
勝った負けたなどはなく、自分そのものをなくして無になるのも幸せかも知れない。
が、周りに利用されまくったら腹立たしい。
勝った負けたはないが、得した損した、と欲の塊。
わたしはまだまだ仏さんにはなれない。

ちなみに。
昨日は、私の実家で法要が行われた。
料亭は利用せず、実家で関係者が集まった。
紅葉が美しい、静かで賑やかな1日。
姪と、姪の娘のピアノ連弾が、とても迫力と弾力があり、活気と華やぎで室内が満たされた。
故人も喜んでいることだろう。




時間はみんな平等

2024-11-25 | 人生
わたしがブログを書くのは、何故か。
かつては、ウップンや憤(いきどお)り、怒り、疑問、不満、自慢、自分の発露だったが、今は、幸せな、のほほん、おばあちゃん。
楽しく毎日を過ごしている。

つい最近、ウォーキング不参加案件を通して、それをキッカケに、わたしのスタンスが変わった。
残された健康寿命を積極的に使おうという、意気込み、前のめりの鼻息の荒さ。
残された限られた時間を能動的に選んで使おうというもの。
林住期を思いっきりワガママに過ごすため、嫌なことや、乗る気がしないこと、興味がないことには、参加しない。
好きなことだけする。
もちろん、すべきことは、しなければならないが。

実はこれは、かつての友人がそういうスタンスだった。
今は疎遠だが、べつに喧嘩別れしたわけではない。
たまたま、そういう時期、流れだった。 
その後、お互い、変化するのは止められない。

不思議なことに、全く同じスタンスの人がいた。
人生の林住期の過ごし方、信念が全く同じ。
ひょっとして、2人とも、五木寛之に影響を受けたのかも。
信念を行動に移して実践しておられる。
なので、近くにいたわたしも影響を受けた。

たまたま同じような人が近くにいた、、、のか、あるいは、類は友を呼ぶのか。
遠くに点在していたものが、目に見えない力で集まってきたのか。

仏教的思考がベースにあり、それは、わたしも同じ。
「無常」という考えだ。
わたしは、何ごとにも執着しないことを目指すが、まだまだ無理。
人間に対しては割と修行を積み、トレーニングしてきているが、モノに対してはまったく落第生。
解脱は程遠い。
まあ、まだ健康で動けるので、どうにでもなるだろうと、いたって楽観的だ。

ちなみに。
認知症予防には、キビキビ動いたりするのが苦手、メンドくさがりのわたしに、ぴったりの方法を編み出した。
ウォーキング(徒歩)で映画館まで往復し、字幕入り映画を観る。
語学の学習、感受性、思考力養成、芸術性アップ、娯楽性あり。
帰りに食材を買って帰って、家事も同時に完了。

あとは、ピアノ練習と、英語アプリ学習。
ダンスは、もちろん外せない。
旅や人との交流を、スケジュールの中に適宜に混ぜて入れると、メリハリ、彩りになる。
お金はそんなにかからない。
要は、やる気。
だが、口ばかり、、、で、一過性のため、習慣化する前に、落伍する可能性、大。

わたしが尊敬する、超人気ブロガーの、ちきりんさんがブログで言っていた。
若い時は、やりたいことや情熱があっても、お金と時間がない。
歳を重ねると、お金や時間があっても、やりたいことや情熱がない。
時間、やりたいこと、お金のバランスは人生を通してキーとなる。
以前、わたしは、老後の3大不可欠要素は、健康、友達、お金、だと思っていた。
だが、インターネットが普及し、健康でなくても、友達がいなくても、お金はさほどなくても、好きなことに時間が使える。
つまり、老後は時間は誰にでもあるからなんとも思わなかったが、時間こそが最重要だと考える。
老後だからこそ、限りがある。
時間は平等、とは言え、人それぞれ事情が違うから、何とも言えない面はあるが。

周りを見る時に、、、
自分より下ばかり見る人、上ばかり見る人、横ばかり見る人、全部見る人、全部見ない人、、、見ても見なくても、感想もそれぞれ、色々いる。
皆さん、自分の好み、偏り、特徴があるようだ。

わたしは、自分より一歩先、あるいは、半歩先を行っている人を見る。
上でも下でも横でもない。上下ではない。
時系列。

隆盛を誇っていた人も年月が経つと、もはや憧れの人ではなくなっていたり、逆の場合もある。
諸行無常、、、無常観に辿り着く。
強いものが勝つ。  
だが、盛者必衰。
時と共に移り変わる。











暇人は忙しい

2024-10-24 | 人生
人生相談をChatGPT に、投げかけた。
「人生」では、くくりが大きすぎるか。
なにしろ、選択肢が広すぎて、どれにしようかと迷うのだ。
生身の人間なら、しつこく食い下がる相談者(わたし)にウンザリされるだろう。
だが、最初から自分で決めつけた結論に執着したり、自慢や自負、自分を勘違いして過大評価していたり、無意識の幻の特権意識が臭っていたりしても、そんなのはお構いなし、Chat GPTの眼中にないはず。
相談はやがて、議論に発展する。
議論途中に、わたしが説明の一環として、比喩表現を出すと、ChatGPT は、面白いと言ってウケてくれる。
AI相手にウケを喜んでも始まらない。
が、新しい表現を出すと、明らかに次の答え、局面が切り開かれて進めるようで、エッジも効く。

ではあるものの、わたしの選択肢だらけの中で、どれを選択すれば良いかというアドバイスは、自分で導き出しているに過ぎない。
カウンセラーと同じ。
自分に向き合う手助けをしてくれる。
気づかなかったヒントを示してくれる。

結局、資産運用、投資に例えると、ポートフォリオ型が良いのでは、ということになった。
リスクヘッジを入れる。
あっちが良くても、こっちは悪い。こっちが良くても、あっちが悪い。
が、全滅は避ける。リスク分散。
全部、同じ方向のものを選ばない。
バランス型。
自由すぎる場合、バランスが大事、肝になってくる。

全てが上手く行くことはあり得ない。
時代によってアップダウンはあるし、分野によっても盛衰はあるし、浮き沈みはある。
自分自身にも、もちろんある。
濁流だか、清流だか、どんな流れでも泳ぐのか、流されるのか、その時々の流れ、運不運もあるだろうけれど。
以下、ダラダラくどくど、説明を書こうかと思ったが、カットする。
自分が納得できたらイイんじゃないかと。

同時タスクを同時進行。
本当なら、一つ一つ、取捨選択し、丁寧に見届けてから次に進むべきなんだろうけれど。
何しろ私は、英断やら決断やらとは程遠い性格。
進む道すら、絞り込み決定出来ない。
結論や結果をいちいち決定付けていったら、先に進まない。
途中のまま、進む。
見切り発車。
これをChat GPTは、ポートフォリオ型と言ってくれた。

わたしは自由な暇人なのに、頭の中は、ギュウギュウ混み混み。
林住期、自由過ぎると収拾が付かない。
暇を潰すのも体力がいる。


自分の声を聴く

2024-09-08 | 人生
毎日訪れるブログに、人気女性ブロガー「ちきりんさん」のブログ記事が紹介されていた。
こうなった(成功した、あるいは失敗した)理由は、最初から意図していたわけではなく、結果的にそうなった、だが、考察してみると後付け理由が多い、と。
なるほど。そうかも知れない。
数々の偶然が重なっただけかも知れない。

運、不運に見舞われた結果、成功した、失敗した可能性はある。
ほぼほぼ筋書き通りに事が進んでいたのに、この一つで、どんでん返し(好転、暗転)になった、、、というものもある。
なかなか思い通りには行かないのが人生。
結果を見て推測するしかない。

わたしも、あの時のあのピンチ、よくぞクリア出来たなあと、冷や汗、脂汗が出る。
一歩間違えば大惨事となっていた。
普通に平々凡々に生きていても、そんなことは日常生活を送る中にも潜み、多々あることだろう。
たまたま、そうならなかった。

わたしの場合は、逆はほぼない。
あの幸運を掴み損ねた残念、無念さはあまりない。
大して多くを望まなかった。
身分不相応な願いはなかった。
第一希望を掴み損ねたとしても、第二希望で手を打つ。手堅い。
足るを知る、等身大スタンス。
どんどん転がり落ちることはない。
とは言え、不屈の精神で這い上がることもない。
ハングリー精神の不足。現代っ子のハシリ。
向上するとしても、少ししかしない。

だが、一歩間違えていたら、、、という不慮パターンは、誰にでもあり得るだろう。
道を歩いていても、鉄骨が落ちて来る確率や、乗っていた飛行機が落ちる確率と、宝くじに当たる確率はどちらが高い?
アンラッキー事故は誰にでも見舞われる可能性はゼロではない。
その確率を計算するなら、生まれてくる前によくぞ母親の体内で受精卵になり、無事、成長したなあ、、、ということになる。
母親の月々の月経となって排出されていたかも知れない。
キリがない。

たまたま運が良くて、、、といっても、宝くじ以外は、そうラッキーチャンスは頭上から降ってこない。
目標に向かっている途中に女神が微笑んだならわかるが。
不幸のどん底で、藁をもすがる気持ちならわかるが、何も考えず、何もしない段階で、ウマイ話は降って湧いてこない。
多少なりとも動いてこそ、それに関連するものが引っかかってくる。
棚ぼた式は、現実味が薄い。

ちきりんさんほどの多くの人が納得する実績や考察力があるならいざ知らず、わたしごとき吹けば飛ぶような一個人の書くことなど、風にひらひら舞う葉っぱの如く。
なんの説得力もなく、あるのは、自分に対する言い聞かせのみ。
それを自己満足というのだろう。
世界中の誰を説得、納得させるよりも、自分を納得させるのが先。重要だ。

失敗も成功も、今、幸せに感じているかどうか、かも知れない。
夢があるかどうか。
時代の流れもある。
あの時代は良かった、、、なんて言い出したら、今の幸せが指の間からするりと溢れ出そうだ。
若い頃は、良かった、、、当たり前。
老いた今と比較する意味があるのか。

だが、古き良き時代にノスタルジックな想いを馳せるのも悪くない。
自分の幸せは自分で作る。

女同士の戦い

2024-07-26 | 人生
あるブロガーさん。40代、専業主婦。
子供一人。
今月、初めてブログを読んだ時には文章に引き込まれて、結構、はまっていた。
わたしの娘世代である彼女の、何がわたしの琴線に触れたのかと考えてみた、、、。

彼女は田舎で生まれ育ち大学は都会へ(たぶん東京「の」大学)。
大学で知り合った、同級生、A子さんの話が興味深かった。
田舎モンであるブロガーさんは、都会モンのA子さんの全てが眩しかった。
お金持ちで自宅通学、おしゃれで遊び上手、自然体で男性に取り入るのがうまいA子さん。
遊び慣れていない、田舎の親からの仕送りで細々生活するダサいブロガーさんとは天と地の差。
コンパでもA子さんに、男子からの人気をみんな持って行かれた。
A子さんは、中高大と一貫教育のお嬢さん学校出身だったが、そのままお嬢さん大学に進学するのに抵抗を覚えて、普通の大学に進学し、ブロガーさんとそこで出逢った。

なんでこんなに違うのか、、、と、差をつけられ、ヤキモキしていたブロガーさんだったが、年齢を重ね、女性の魅力を十分活かせなくなってきたA子さんは、結婚に2度失敗する。
その一方で、ブロガーさんは夫のヨーロッパ赴任に(短期)同行し、子供も授かる。
差が開いてくるわけだ。

A子さんの女性的魅力は時間制限があることを予め知って、期限切れの後も活動できるように備えるべきだったと、ブロガーさんは考察を加える。
そもそもエスカレーター式お嬢様学校が嫌で飛び出したのだから、その時点でお嬢様ではないコース変更の舵を切るべきだった。
実家がお金持ち、地元に持ち家有りなので、結婚しなくてもやっていける、受け皿があるから、そうアクセクしなかったのはよくわかる。
切羽詰まらないと人間はやる気を起こさないのは常。

しかし、勝負を結婚に求めなくてもよいのに、なぜ、結婚を勝った負けたの判定基準にするのか??
お嬢様学校から出た時点で結婚が勝負ではないと気づくべきだったが、何しろ家がお金持ちでは、、、まあ仕方ないか。
茹でガエルの法則。

ではあるものの、自分が得意とする「若い女性の魅力」分野がどんどん下落して行っても、家まで没落しないのでは?
仮に家業が倒産したとしても、、、その時からアタフタして(必要に駆られて)頑張るのも一つの道。
実家が経済的に保たれていれば、親の介護や家の維持など、A子さんの肩にかかる。
経済的に苦しくなれば、実家を売ればよい。
A子さんは、そんなに嘆く必要はないと思うし、プロガーさんも、そこまで、まるで脱落者に対する哀れみの目をもって、気の毒がらなくてもよい。
ある意味、ブロガーさんは、女としての勝負に勝った!!と、悪い気はしていないのでは?
わたしは、そこに、小さなナニかを感じる。
負けていたけれど、逆転した!!
爽やかな勝利感。
勝利の美酒に酔っている?

そんなふうに見るのは、実にイジワルな女ごころかも?
だが、勝ったも負けたもないはず。
なのに、そう感じるのはなぜ?
女を磨き、結婚。美容やファッション。
ついでに、それだけじゃないのよ、とばかりに興味ある分野を掘り下げ、知性も磨く。
だが、知性も趣味範囲、アクセサリーのようなものだ。
(なぜそう思ったかと言うと、、、ブロガーさんが、本を読まない人に対して軽蔑しているような、自分が上であるような優越感?自負を感じたから
だが、なんだか努力の仕方が違う、方向性が違うような気がする。
といっても、単にわたしとベクトルが違うだけであり、どちらが正しいだとか、そんなものはない。

今からまだ人生、後半がある。
実社会との関わりは続く。
前半で鼻差で勝ったの負けたの騒いでいても、その後、どうなのか。
それからこそが、注視したいところである。

言っておきます。 
長いです。
老後。

じゃあ、蝶ブロガーさん、あなたはどうなの?
いいの、いいの、わたしは、場外から透明人間になって試合を眺めるだけ。
一緒に試合に参加する気は、さらさらない。
「それ、卑怯ですよね?」
「はい、じゃあ、そういうあなたは?
というか、あなた、だれ?」

田舎だの都会だの、オシャレだのダサいの、お金持ちだのそうでないの、
もしそれが老後の何かにカタチとして現れるなら、例えば、豪華客船クルージングあたり?
だがしかし、わたしは、豪華客船には興味がない。
世間から離れて「ゴージャスな体験」を一度してみたいのならいざ知らず、外側の見た目にこだわるのは、いかにも薄っぺらい。
お好きな人にはたまらないのだろうけれど。
嗜好は人それぞれ。
誰しも人の嗜好に口出しする権利も、口出しされることもない。
(犯罪はダメ)
(崩壊につながる嗜好だったとすると、ご本人が考えるとよい)

今のわたしが興味あるのは、涼しい山の中で拘りコーヒー焙煎豆を使ったカフェを開いている人だとか、(先日、よく行くブログで紹介されていたブロガーさん)
嗜好スタンスが生き方として実現している場合。
自分には出来ないから、遠くから憧れる。
1日も長く営業していただきたいが、健康問題もあるし、思い通りに行くとは限らない。
遥か彼方から応援するのみである。

人生で後悔していること

2024-07-18 | 人生
シニア男性が後悔していること、、、WEBアンケート結果が、いつも読むブログで紹介されていた。
後悔面だけを切り取って抽出されているため、良かったことや感謝していることは、またこれとは別に存在すると思われる。

シニア女性が後悔していることも以前に読んだような気がするが、仕事面での後悔は男性のほうが多くを占める。

後悔の理由は、時間、労力、お金の無駄だった、徒労に終わった、というものが多い。
その間は一生懸命、頑張って取り組んでいたが、振り返ると、意味がなかった、ということか。
おそらく、嫌で苦しかったが、したくない思いに逆らって無理して自分を叱咤激励して行動したのに、その頑張りは成果はゼロ、むしろマイナス、ということに対して、自分が納得できないのだろう。
腹立たしい思いが残る。
人生で損をした部分、しなくてもいい辛酸を舐めた、ということか。

苦労は買ってでもしろ、とよく言われるが、買ってまでしたくない。
たまたま、したくない苦労をともなうことが降りかかってきたら、じっと静かに最低限しか動かず行き過ぎるのを待つとエネルギー損失を最小限に食い止められる。
わたしは、いつもその方針。
実家にいた頃、鬼のようになって荒れ狂う母を前に、頭を低くして胸の中で数をカウントして、時が過ぎるのを待った。
晴れの日も、曇りも雨も台風の日もある。
今、思えば、母は、おそらく若い頃は躁鬱症傾向にあったのではなかろうか。
その若い母に育てられたなら、理不尽な雨風、嵐には相当慣れている。
抗体ができたようだ。

小さい時に大変な思いをしていると、それからの人生は、晴れ!!
日本ではわたしが生まれてからは戦争も起こらなかったし。
無駄なことなど何もないと考える。

嫌なことがあったり、嫌な人がいたり、嫌な局面に立っても、それが過ぎた後の、あの快晴、爽やか気分が待っている。
嵐の前の静けさ→嵐→台風一過
だが、嫌なことが通り過ぎるまでじっと我慢して待つ時間が、人生の大半を占めるとすると、、、
その先に何があるのか想像できないので、自分の未来がどんな展開になるのか、楽しみにしていくのも一案である。


周りに多大な迷惑をかけ、ものすごく嫌われている人がいた。
どうしようもない人だったが、一つだけ、貢献したことがある。
それは、その人が他界していなくなった時に、周りに喜びをもたらした。
これだけでも、存在意義がある。
そういう人、いる。実際に。
本人は周りのことなど考えず、忖度せずに辛抱せずに自由に生きていた。
自分はそれで、幸せ、満足な一生だと思う。 
1粒で2度美味しいグ◯コのアーモンドキャラメルように(軽く半世紀以上前の)、本人がいなくなってから周りに幸せをもたらすなんて、それはそれでプラス効果だ。


後悔は、「後になって悔やむ」、と書く。
文字どおり。
あの時ああしていたら、、、
その逆もある。
あの時、ああしなくてよかった、、、
したらよかったことと、しなくてよかったことは、半々ではないだろうか。
足して引いて差し引きゼロ。
相殺(そうさい)。

一般的には、人生を振り返ると、「して悔やむより、しなかったことを悔やむ」と言われるようだが。
ケースバイケース。
何がよくて、何がよくないのか、やってみないとわからない。
だが、わたしの場合、人生も終わりのほうに近づくと、何もないのが幸せと感じる。

だがしかし。
今まで書いてきたことは一体なんだったのかと、お叱りを受けそうだが、、、
わたしが後悔することは、、、
◯◯さんと結婚していたら良かった。
だが、おそらく今とたいして変わらないことになっていただろう。
わたしが良かったと思うことは、△△さんと結婚しなくて良かった。
たぶん、これは予想通りになっていると思う。

わたしは、自分を幸せにする無意識な選択が、たまたまうまく行っている。 
(とは言え、熟考するが迷ってわからなくなって、最後に決める時は、目をつぶって、えい、やっ、と、感覚、感性で)
だが、成功経験に溺れると、正しい状況把握が出来ず、次の選択を誤る。
とかなんとか、結果に合わせて自分を納得させているだけかも知れない。
初めからあまり期待しない。

鶏が先か、卵が先か。
どっちでもいい。


シニア女性の自立

2024-06-27 | 人生
今朝のNHK朝ドラ「虎に翼」。
寅子の元学友、梅子。
夫の遺産相続争いをしていた妻、梅子が、財産放棄した。
なんで??
妻、嫁、母と、今まで心血を注いだこと全てを失敗、敗北した、と涙を流し自嘲の大笑い(怪演?)の後、家族全員の前で、家を出て行く宣言をした。
それは観ている側としては、スッキリしたのだが、、、
家を出て、これからどうやって生活する?
住まいや生活費もいるし。
住み込みで仕事?
知り合いのところに身を寄せる?
法律事務所で雇ってもらうにしても、家庭の専業主婦からの独立初期費用が必要だ。
病気になることもあるだろうし、ある程度の蓄えが必要。
今まで尽くして来た慰労費、退職金として、遺留分をもらうべきだ。
が、そうすると子供たちと紛争となるため、紛争を避けたい、長引かせたくないので放棄したのだろうけれど。

身を削ってかわいがっていた三男は、夫の愛人と男女の仲になり、裏切られ、、、
梅子は、子供に捨てられる前に捨てたのか。
ドラマだから、ドラマチック。
おばあさんは、梅子が出て行った後は、3人の孫に順番で転々と世話されるのだろうか。
ちなみに、わたしの実姉の趣味関係のチームメイト。夫は6人兄弟。
男子ばかり(6?人)の子供たちの家に順番制で短期同居を余儀なくされたおばあさん(母親=姑)がいた。
あっぱれ!輪番制。

梅子の三男は、そのうち子供も出来、ある程度、落ち着くと、やがて出て行った母親のことが気になる時が来るだろう。
その時、独居の老いた母は、どんな暮らしをしているのだろう。
三男が、父の元愛人と別れずいたとして、元愛人は、母にどういう態度を取るだろう?
憐れむ?優しくする?意地悪する?
「父の元愛人」と「母」は、父を期間別にシェアした仲。
重複していたシェア時期もあったかも知れないが。
シェアとは、、、共有のこと。共に所有する。分け合う。
法的にはシェアではないけれど。
事実婚とかもあるけれど、籍を抜いていなければ、妻は法的に守られている。

まだドラマは続くので、この先、どんな展開になるのかわからないが。
母、梅子が三男に「あなたの好きなようにしなさい」と言い放つところは、カッコイイ。

それにしても、相続争いは、山崎豊子の小説「女系家族」のようで面白かった。
遺産を取り合うには、その相続人の後ろに誰かの影がある。
家族だったり、男だったり、女だったり。
あるいは、親戚だったり、他人だったり。
人のお金に群がる人々が、糸を引く。
自分だけで争うには知恵や力が要る。
まあ、お金は魔物なので、フル出力、ギア全開、総力を上げて争うことになる。

どちらにしても、家庭内で専業主婦だった女性が、嫁、妻、母と決別するには自立心、自立力が必要だ。
経済力は不可欠。
妻をかくまってサポートしてくれる、駆け込み寺シェルターも、永遠には保護してくれるわけではない。
自立するまでの暫定期間のお預かりだ。

70歳を超えて離婚した女性もいる。(死別が多いが)
わずかな残り人生を自分らしく生きたい、と。
が、経済的自立がないと無謀だ。
行政のお世話になる選択肢もあるかも知れないが、離婚して、行政経済支援、、、。
それもしたくない、出来ない人もいるだろう。
理想論では片付けられない、問題の根は深い。

バチ当たり

2024-04-29 | 人生
今、般若心経の本を読んでいる。
「般若心経90の知恵〜276字にこめられた生き方の真髄」
京都の天台宗のお坊さんが書いている。
1985年に第一刷発行のもの。(著者のお坊さんは、執筆当時44歳)
姑が持っていた(読んでいた)ものを(こっそり)もらってきた。
わたしは、舅、姑、その他、全てのモノは、自由に出来る。全員、故人。
処分したり整理したりする義務もあるが、次世代にズルズルと押し付ける権利もある。

まあそんなことで。
舅の本は、舅の家から次女が少し持ち帰っている。
主に長編時代小説。
時代小説ではないが、その中の一冊(山崎豊子、著)は、かなり面白かった。
Thanks.

まあそれはそれとして。
その般若心経の本はずいぶん前から読んでいるが、ほんの小さなサイズの文庫本なのに、なかなか読めない。
各ページはもう茶系ベージュの色を帯びて変色している。
早く読めばよいものを。
なんだか、難解。英語の長文読解ドリルのよう。
でも、この度、激しく著しくヒマ感覚(虚無感、無力感)に囚われ、(たぶん25年ぶりぐらい)、無理やり渋々読んだ。
まだ、半分を少し過ぎたぐらい。
今までは難解で少ししか読まなかったのだが、今回頑張って読んだのに、まだ読み終えていない感想は、、、

あちこち、わたしの考えと違う箇所が出て来る。
宗教の教えに、いちいち異論を唱えていては、とても入信できない。
著者は、天台宗のようだが、般若心経はどの宗派の仏教にも共通項があるのだろう、たぶん。
俗人にわかりやすいように、例え話が、あちこちに散りばめてあるのだが、その例え話に、いちいちツッコミを入れてしまうわたし。
「それ、違うと思う!!」
例として、AのコースとBのコースなら、Aが良いと思うのに、オススメは、B。
自分を命を差し出して仏に仕えよ、なんて、意味がない。
自分が生きなくて、なにが宗教か。
死んだ気になって頑張れ!ということだとしたら、そんな教えは言い古され、今に始まったことではない。
解釈ミスかも知れないが(確信犯的解釈ミスの可能性、大だが)わたしはそう自己流解釈した。
本筋を噛み砕いて示すために、わかりやすい現実的例え話を紹介されているのに、枝葉の方の例え話に、過敏に反論していると思われる。

それに、あの教えでは、少子化は益々進み、国が滅びてしまう。
一般人向けの教えと、仏門に入っている人への教えが混在しているため、混乱する。
特に例え話には、かなりの頻度で首を傾げる。納得できない。
狂信、盲信、妄信は、わたしには出来ない。
俗人だということだ。
解脱は、あの世に行ってから。遅いか。
生きているうちに解脱しなければ意味がないが、生臭く生きるのも「生きている実感」ライブ感があってよい、かも。

せっかく、神聖で崇高な般若心経を学ぼうとしているのに、自分の俗部分を自覚するに至るのみ。
それはそれで、効果があるのかも知れないが。
ただでさえ草食系の昨今の非婚の人々、、、肉食系欲求を抑える教えはいかがなるものか。
制度上、道徳に反することはするな、という意味ではあるが。
じゃあ、結婚しないでおこう、となるのは自然の流れかも。

例え話の一つに、自分の仏への道を邁進するため、色んな周りへの犠牲を経ている件(くだり)がある。
失敗を通して修行し、解脱するにしても、プロセスで迷惑をかけた関係者に対する懺悔や反省、お詫びの念には一切触れられていない。
自分の修行のために他人を踏み台にしてよいのか。
お坊さんが仏への道を説いていることと真逆の真理を汲み取ってしまった。
解説、書き方は、難しい。
わたしのような、へそ曲がり、あまのじゃくには、般若心経が泣いている。

とは言え、最後まで読まなければならない。
全部読まずに文句を言うのは、愚の骨頂。
読み終えた最後には、ぴかりと輝く光が差すことだろう、、、(1ミリも期待していないが)

また10年後に読めば感想も変わるし、吸収する部分も変わると思われる。
その頃は、理解力低下、視力低下、気力低下で、活字は読む気にならず、美しい音楽バージョンに編纂し直していただきたい。
ではあるが、、、わたしは、どうもマニュアル解説本は、苦手だ。



答え合わせ

2024-04-17 | 人生
なぜ自分は若い日々をゴージャスに過ごさなかったのか。
しようと思えば出来たのに。
知らないわけではなかったのに。

東京でのゴージャスな暮らしは、1年で飽きた。
そもそもわたしは、倹約家(「ケチ」とも言う)で、湯水のようにお金を使うのがあまり好きではない。
お金のかかる遊びは、好きではない。
高価なハイブランドの服は、気が引けて買えない。着ると肩が凝る。
また幼少期の田舎暮らしの影響からか、牧歌的雰囲気が好き。
さらに小さい頃から教育成果主義の一貫校に通っていたためか、何かしらの成果を求める。

この要素が合わさって、耽美的は好きだとしても、退廃的は、嫌い。
(どう違うんだ?
わたしの感覚では微妙に違う)
例え部屋はぐちゃぐちゃだとしても、生産性のない生活は好まない。
しかし、美的なものに対して、母の影響はかなり受けている。
母は精力的に働き、室内も室外も庭も、掃除がピカピカに行き届く、頑張る戦中派タイプ。
遊興費にはあまり使わないが、美しいモノや空間には豪快に使う。

わたしは高度成長期に生まれ育っているため、母とは少し時代背景は違う。
父はクレバー・スーパー・ミラクル働き者。
父も母も共通点は、前世は馬車馬かと思うぐらいよく働き、お上品な気取った雰囲気が大嫌い、窮屈で息が詰まると見られる。
最大限オーバーに言い過ぎるとすると、(良いように言い過ぎてかえって反発を買うことを恐れずに言うと)全てのスケールは違うが、白洲二郎と正子?
(やっぱり言い過ぎて気分が良くない、、、)
全力で頑張るタイプで、共に、ちんたらこんたら、チャラチャラは嫌い。
これらが合体して、昭和後期の創造物としての、わたしが形成されている。

なので、時代背景もあるだろうけれど、両親には、ぐうたらDNAは無い。
ではあるものの、なぜか、兄とわたしは、ぐうたら。
なんで?
科学では解明できないが、わたしが想像するには、環境、育て方だと思う。
兄=ただ一人の生き残り跡取り男子。
わたし=末子で手を掛けて躾をするのに疲れ放任。
それで、2人が、ぼーっとしている。
その間に挟まった姉は、実にシッカリしている。
両親の教育方針にも姉は反旗を翻し、抗議した。
わたしは、そんなことが過去にあったことも知らなかった。
歳が離れた姉妹ならいざ知らず、姉とは2歳しか離れていないのに。
兄は家事はしなくていい代わり、家父長制の気の毒な犠牲になった。
姉は3人分のシッカリ者の要素を一人で抱えている。

わたしは父系の遺伝を強く望んでいるのだが、どうも母系のような気がする。
悪い予感。
詳細を精密に鑑定したわけではないので、何とも言えないが。

環境のせいもあるとは言え、皆んな、働き者なのに、なぜ、兄とわたしは、(たぶん、生まれつき)ぼーっとしているのだろう。
親の加護がなかったら、今頃どうなっていたことやら。
とりあえずは、税金を納める社会人になったが。
ではあるものの、兄もわたしも(もちろん姉も)、放蕩はせず地道な道を歩んだ。
贅沢は、あまり性に合わないのだろう。
だから、ちょっと経験、試してみただけで、もう結構、もう十分、となると思われる。
深追いしない。
定位置は、ノーマル・スタンダード。
小さな暮らし、プラス、好みに応じてオプションを追加。

若き日々をゴージャスに過ごさなかったことに対しては、なんの後悔もない。 
もともとの性格なので、無理やり、誰かにそそのかされて遊びまくったわけでもなし(わたしが堅物で誰も遊んでくれなかった)、地味路線を歩いた。
ゴージャスな人を見かけると、興味本位で観察している。
自分とは別の違う人種なので、べつに衝突しない。

ツマラナイ超個人的な話を書いた。

※写真は本日、撮りたてほやほや。
堂島川沿い。


マッチングはAIがアドバイス

2024-02-28 | 人生
ある企業が恋愛マッチングアプリを福利厚生の一つとして社員が利用できるように整備している。
お付き合いが始まり、いい線に行くと、デートの誘い方や告白タイミングをAIがサポートしてくれる。
今、出生率や結婚する人はどんどん落ち込んでいる。
時代の流れか。

それにしても、マッチングアプリ、面白い。
一昔前は、世話焼き人のような人が親戚や職場にいて、お見合いを薦めてきた。
今は、マッチングアプリに変わっただけ。
広い人材から忖度なしに選べるのかも知れないが、リアル社会での評判などが人づてに聞こえてこないから、ちょっと怖い。
だが、周りから太鼓判を押されたオススメの人だとしても結婚してみたら、あらまあ、なに?これ?
と落胆するケースも多々ある。

(ちなみに、一昨日、映画「マッチング」を観た。
予想外の展開で、居眠りするヒマがなかった)

昨夜、夫と、企業マッチングアプリのニュースをTVで一緒に見ていた。
わたしは、「面白いね」と、ニュースの最初と最後に言った。
夫は終始、無言。
全く目にも耳に入っていないと思う。
仮に認識していたとしても、変な感想を言って妻の逆鱗に触れるのは避けたいため、知らん顔を演じる、、、なんていうような高等テクニックは絶対に駆使しない。
めんどくさいタイプ。
正真正銘、アタマと目と耳を素通りしている。

今の人は、結婚したいと思わなくなったようだ。
片親で子供を育てるのは大変なので、結婚せずに子供を産む人も少なくなり出生率は低下する。
正確には結婚したいとは思うものの、結婚したいと思えるような相手がいない。
経済的に自立していたり、家事が出来たり、社会制度が整ったりサポートしてくれたりすると、何が何でも結婚に生活を託さなければならない状態は脱している。

すでに結婚してしまっている人(既婚)は、あえて現状をほじくらない。
火に油を注ぐような事態を招く可能性があるなら、そっとしておく。
今更、波風を立てても誰も喜ばない。
どうしても改善しなければ崩壊、破綻する場合は別として。

目の前にいる配偶者が、少々気に入らなくても、もっと更に気に入らない人と結婚しなくてラッキーだ。
理想は追わない。
消極的肯定。
八分目を目指す。
理想を追うと、相手を巻き添えにする。
せっかく不純物が沈澱している、一見、澄んでいるように見える水を、わざわざかき混ぜるのは、お互いに得しない。
知らん顔をして、毎日、楽しく暮らすのが安泰かと。
事故、災害など、不意のアクシデントに見舞われたり、病気になったりすることもあり、その時は、澄んだ水だの、なんだの言ってられない。
とりあえず、澄んだように見える水の中で、そっと安らぎを見出すのが、わたしの省エネ幸せ。

ホレタハレタとは程遠いが、孫も実在している現実から見ると、二人共に過去に若い頃はあったわけで。
共同作業の熱い日々は確実にあったわけで。
その若い頃さえも気に入らない、などと回想したりすると、哲学者になれそうだ。
ではあるものの、その片鱗もない別の生き物になった者同士、また別のフェイズを生きている。
結婚も悪くない。
理想を追求しなければ。