蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

キチンとした人々

2024-12-07 | 暮らし
昨日の誰にも言えない悩み記事。
その前日まで2回続いた「オトコとオンナ」カテゴリー記事の後では、まるでハニー・トラップか、ロマンス詐欺に遭った女性のようだと感じた。
あるいは、高齢者を狙った振込み詐欺。
または、どこぞのうまい投資話に乗って損した、、、とか。
そういう感じに受け止められそうだ。
が、違います。
内容には触れないでおきます。
人に相談出来ない個人的なことなので。
ガシャン、ロック。
スミマセン。 

ちなみに、全く関係ないが、まだわたしは、高齢ではあるものの、生物としてはまだ女性のよう。
不思議な気もするが、安堵する思いもある。
なんなんだろう?


話はコロッと変わる。
今日は、古紙・資源ゴミ回収の日なのだが。
皆さん、まあなんとキチンと綺麗にまとめて出しておられる。
四角の紙(主に新聞)を重ねて束ねてあるが、歪みだとかがない。
キュッと紐で緩まないように縛ってある。

それに引き換え、わたしの出した資源ゴミったら、、、。
紐は、ゆるゆる、四角四面に収まらず、はみ出し、ルーズ。
しかも、紙ゴミの出し方が、独特。
これはちょっと恥ずかしい。
どうしてもダメなゴミは回収されずに置いて行かれるので、持って行ってくれているということは、どうにかOKなのだろう。
ミリ単位のキチンとさを周りと比較すると、最低ランクかな?とは思いつつ、その下もあるはず。
それは、資源ゴミを分別せず、回収日に出さないお宅。
資源ゴミが外に出ないから様子がわからない。
ちょっとブザマでも、出しているほうがマシかも?
ある人は、資源ゴミも普通のゴミも、全部コンビニのゴミ箱に捨てているという。
せっかく各家庭で綺麗に洗って干して乾かして分別ゴミに出しても、そういう汚いままのプラゴミと混ざってしまっては意味がない。
そのあたり、どうなっているのだろう。

そもそもプラスチックゴミが多すぎて、環境問題に留まらず、人体に影響が出てきているとか。
便利だからと、どんどん易きに流れると、いずれ反動に見舞われる。
外食業界も、ストローやスプーン、フォーク、ナイフ、カップ、トレーなど、環境に優しい天然素材を使うようになりつつあるようだが。

と、話がまたまた逸れている。
ご近所の皆さんは、高齢世帯が多いにもかかわらず、意識が高い人が多いと感じる。
ちゃらんぽらん、ぐちゃぐちゃにゴミを出さない。
似たような意識の人が集まっているのか、はたまた今は皆さん、こういう風潮なのか、、、。

海外の国々でもゴミ収集状況で、国の様子がわかる。
発展途上国だと思っていた国の、街のゴミ状況がちゃんと整っているのを見ると、ほほぅ、と感心すると同時に、わたしの感覚が古いことに気づく。
もちろん、一般の人から見えないところには、不衛生な所もあるだろうけれど。

世の中は動き、それと同時に自分は自分で独自に変化する。
両方が動くので、見える景色が変わってくるのには納得できる。
無常を体感する。



狭い生活圏

2024-11-29 | 暮らし
今日はまた寒い。
突然、冬。
秋服コートの中に、バッグに入れていた寒い時用に着るダウンベストを、バス停で着込む。
コートを脱いで、ダウンベストを着ている最中にバスが来たらどうしよう、、、
こういう時はバスのパスカードをコートのポケットに入れているのを忘れ、パスカード、パスカード、パスカードはどこ?と、冷や汗がどっと出て、乗車までにパスは見つからない、、、ことになるのだろうが、、、
アタフタしながら、余計な心配、シュミレーションをしながら、最後にまたコートを着た。
予定時刻になってもバスは来ず、寒さを見越してコート下にダウンベストを着込んで大正解。
というか、秋コートは、薄手のダウンコートなので、モコモコになっている。
見かけより、防寒。寒さ対策、第一。
どんどん、ファッションに鈍感になっていく。

時間にも鈍感、ルーズになっていく。
時間の感覚が麻痺している。 
ちょっとの間だと思って油断していたら、結構時間がかかって、バスを1本遅らせたつもりが、2本も遅れ、ただでさえ、遅刻なのに、さらに遅刻。
誰とも約束、待ち合わせをしていないからいい、とは言え、スタート時間がずれ込み、ずるずる遅くなる。
終了時間は決まっているので、真ん中の時間が減るわけで。
あああ、アホだなあ、、、と、自分にあきれる。
楽しい時間を自分で減らしている。
「削られた正味の時間は、きっと濃厚な時間になる」と自分に言い聞かせるしかない。

ちなみに。名古屋。
数えるほどしか行ったことがない。
名古屋には遠縁の親戚のおばさん一家が、一時期住んでいた。 
元々はわたしと同じ市町村で生まれて暮らしていたが、結婚後、夫さんが転勤になり引っ越した。
住まいは名古屋市内の新しい団地だった。
エレベーターが隔階にしか止まらないのに驚いた。
田舎者のわたしに、おばさんは、洋式トイレの使い方を教えてくれた。
中高生の頃、2回ぐらい遊びに行っただろうか。
(わたしの家もその頃、洋式トイレにリフォームされた)
手作りコロッケをたくさん作ってくれた。
とても上品で繊細な、着物がよく似合う人だった。
その後、神戸に引っ越し、分譲新築マンション一人暮らしから、ご長男一家と戸建て同居になり、最期は高齢者施設。

別の、東京の夫側親戚が海外で結婚式をあげた後、親戚同士の顔合わせの会が催された。
中間地点である名古屋に、わたしたちは、関西から駆けつけた。
それぐらいかなあ、、、
もっと行った事がない所は日本中、世界中、いっぱいある。
行った事がある地域が少ない。
つまり、あまり行き来していないということだ。
家から半径数キロの中で、じーっとしている人生。
子供と同じだ。
せいぜい、自分が生まれ育った場所(実家)と、その近くにある学校、結婚相手の生まれた場所(婚家)、全部、関西圏内。
夫の転勤で東京や浜松などには、短期間、場所を転々として住んだが、関西に帰ってからは、40年近くなる。
その間、旅行で遠距離地には行ったものの、根拠地は動かない。

祖母は、徒歩3分?ぐらいの所から嫁に来た。
毎日、里帰りしていた。
母は、徒歩20分?ぐらいの所から嫁に来た。
まあなんと、近い。

夫の母は、同じ県内のわりと近くから嫁に来た。
夫の祖母も、同じく。
4代前のお婿さんは、真隣の家から婿に来た。
まあなんと、近い。 
「実家に帰ります」と言っても、真隣。

昔は近場で縁談をまとめたようだ。
簡単、便利、近い、血縁や評判などよく知っている、、、お見合い結婚。
好きだ嫌いだは、あまり強固に言い張らない。
選択肢がない、他を知らないのは、ある意味、幸せかも知れない。
突き詰めても、良いところに行き着けるかどうかは、わからない。

だが、競争しない環境は、競争力が落ちてくる。停滞に繋がる。煮詰まる。
何ごとも、スクラップ&ビルドの繰り返し。

あまり色んなところに行った事がない話から、ずいぶん、脱線した。
しかも、唐突に、名古屋。
わたしにいつも、キラキラを届けてくださる映像プロ・ブロガーさんが名古屋を紹介されていたものだから、つい、、。

、、、で、話を元に戻す。
今は交通も発達し、便利になった。
時空を飛ぶインターネットは、もっと便利だが。
情報の海。知る機会がものすごく増えた。
が、幸せかというと?
追い求めるほどに、幸せが指の間から溢れ落ち、虚しさが漂う。
腹八分目、足るを知る、身の丈を知るのが、幸せへの近道だと思う。
向上心を持つな、目標を持つな、努力するなとは言わない。
頃合い、バランスが大事ってことだ。

今日は、なかなか着地しない。
こんな日もある。
こんな日ばかりだけど。
全部スクロールして下さい。 
て、最後に言っては手遅れ。ごめんなさい。

※写真は記事とは関係ありません。
先月の鳥羽湾。




休日は嫌いだ

2024-07-21 | 暮らし
わたしは、旅行記は、読む側。
書かない。面倒なので。
誰かが書いたブログを写真と共に眺める。
つい最近行った場所だったりすると、全く同じコースで、おさらい、復習になって良い。
地理や交通機関、地元歴史背景など、記事の記述が正確でなければならないため、文責を考えると、サボりなわたしは、どうも後退りする。
ただし、撮った写真はブログに記事内容とは無関係に使う。
関係ないイメージイラストみたいなものだ。
真面目にやり過ぎると、気分屋お遊びブログは続かない。

で、いつも読みに行く高齢ブロガーさんの、さらっとした旅日記を拝読して、ひと休み。
それとはまた別の、若いブロガーさんのかなり癖がある、こだわりのオリジナル旅は、読み応えがある。 
最近は旅はひと段落して、博物館の解説が続くが、ざざざーさささーっと目を通す。
さらに、記者目線の別のブロガーさん独自の足で見つけた、新規開拓地ではトレンドが予見できて楽しい。

読むのは楽でよい。何の責任もない。跡が残らない。
書くのも何の責任もないのだが、自分の記事が残るから、あまりにヒドいと、後で自分で恥ずかしい思いをする。
たいして校正しないので、その場でアタマに浮かんだことを書きっぱなしのことがほとんどだし。

ちなみに、、、
連日、猛暑が続くが、「エアコンをつけた涼しい部屋でお過ごしください」とテレビでは毎日、言っている。
「夜通し、エアコンを消さずにお願いします」
とも。
さて、今日は仕事オフ、日曜日で家に居る夫。
(休日はゴルフに行ってくれると大変よろしいのだが)
わたしが居る部屋(ダイニング)の室温が30度を越えると、エアコンをつけろとうるさい。
扇風機や時折、通り抜ける風で十分だ。
が、「高齢者はそうやってエアコンをつけないで倒れるんだ」と、まあうるさいこと。
30度なんて、たいしたことはない。
汗が出ることの、何が悪い?
日本中の各家庭のエアコン稼働を全国民に推奨して益々、地球温暖化が高まる。
負のスパイラル。
どこがSDGsなワケ?

夫はダイニングと仕切り一枚隔てたリビングルームで、エアコンをつけ、カナダ。
仕切り一枚、こちら、ダイニングは、インド。
それなら、リビングルーム・カナダに二人で居たら良いではないか。
イヤなのだ、わたしは。
夫と同じ部屋で、大嫌いなTV番組が。

だが、正午になり益々太陽は高く上がってくるとダイニング・インドの室温は高まる。
絶対に夫は何か言ってくる。

地球温暖化防止対策のために夫と同室か、はたまた、ダイニングはインドのまま、諍いを起こすか、それとも、穏便に、地球温暖化対策に背を向けて、ダイニングもエアコンを付けて、続き2部屋ともカナダにするか。
へんに選択肢があるために、しなくてもよいバトルをしている。

エアコンのない、テレビがある1部屋しかないなら、どうなる?
(今時、エアコンがない部屋はあるのか?
いや、エアコンのない部屋に住む人を一人、知っている)
バトルの内容が変わって来る。
テレビを消せ、消すな、おまえが出て行け、アンタが出て行け、、、
モノが飛んでくるか、刃物が飛んでくるか、、、
鬼の形相か、能面のようにのっぺりした感情のない顔になっているか、、、はたまた、、、

と、苦悩のブログを書いていて、ふと。
仕切りの扉を少しスライドして、リビング・カナダの冷気を、ダイニング・インドに流せば良いのではないかと思いついた。
ブログは、家庭の諍いを減らし、地球を救う。
壮大だ。

なんて書くと、皆さんからの冷た〜い視線を勝手に感じるわたし。







暑い

2024-07-06 | 暮らし
暑い夏、スタート。
家庭内エアコンバトルも同時スタート。
「暑い暑い暑い暑い」と、わたしに言う夫。
暑さ倍増である。
人に言って暑さが軽減されるのか。
発散して少しでも温度が下がるならまだしも、言われるほうは、耳、聴力も正常なので、聴きたくなくても聴こえる。
これは、わたしは、一種のハラスメント認定している。
先日、お会いしたある人が言っていた。
夫婦は離れて暮らすのが仲良く行く秘訣、と。
これには全く賛同している。

ただ、別居したくても出来る人と、出来ない人がいる。
出来ない人もいるので、あまり理想を声を大にして叫ぶのは控えたい。
別れるわけではなく、離れて暮らすことを推奨している。
近すぎると、良いものでも悪く思えることがあるから、少し距離を取るとよい。
育児サポート、病気や介護で、夫婦臨戦の危機どころではない状況もある。
夫婦間以外の外的緊張感は夫婦の緊張感を和らげる。パラドックス。

知り合いには、仕事で週の半分は別々に暮らしているという夫婦が2組。
リタイアして無職だけれど、離れて暮らしている老夫婦が1組。
その他は、夫は仕事が夜勤、という老夫婦1組。
妻が仕事で家にいないという老夫婦が1組。
あと、3組は夫が毎日、どこかに出かける老夫婦。
なんだ、老夫婦ばかりではないか。
あ、わたし自体がシニア、前期高齢者だった。
わたしの知る人々は、似たような年齢の人ばかりだから、皆んな老夫婦。
四六時中、顔を合わせず、どうにか仲良くやっている。

亭主達者で留守がよい、と言われても、リタイアして毎日、家にいる夫には夫源病になる妻もいるようだ。
不思議と、妻は苦痛でも、夫側は同居を苦にした病気にはならないようだ。
理由は簡単に推測出来る。

それにしても、暑いだけで、ケンカになるのでは身体が持たない。


自然に抱かれて暮ら、、、せない。

2024-07-01 | 暮らし
日曜夜は、TV番組「ポツンと一軒家」。
いつも山奥に暮らす人々の生活を見て、ため息が出る。
素晴らしい景色、自然に囲まれた暮らしであるが、過酷な厳しい自然でもある。

昨日の足腰シッカリのご主人(70代なかば)は、「なんでもなさるんですね」とスタッフの柔な一言に、「しないと、生きていけないから」と、重いお答え。
小さい頃から山道を往復1時間かけて歩いて毎日学校に通うと、足腰が鍛えられる。
鍛えようとして山道を歩いたわけではなく、歩いたら鍛えられた、逆に、強い足腰がないと歩けない、通えない。
目的は生きること、生活すること。
そのあとから、色々な結果が付随して付いてくる。
迷いながらやっていては、とても力が入らない。
選択肢はない。
迷いはなく、この道しかない、と腰を据え、肝を座らせ、地に足着いて真っ直ぐに生きていくのは、あっぱれだ。
多くの中から選んだわけではなく、選択肢がなく結果的にそうなった、としても。
芯が通り、ブレがない。

わたしには、絶対に出来ないから尚更。
もし、多額の結納金を積まれて嫁入りを望まれても(あり得ない設定)、生ぬるいわたしには、あの山生活は出来ない。
奥さんも農家の出だったり、共通の環境があったり、やはり小さい時からの積み重ねがあってこそ。

虫が苦手、なんて言っていたら、5分で退散、逃げ去ることになりそう。
まだ、山に遊びに来るお孫さんたちチビッコのほうがずっと逞しい。
わたしは、田舎生まれではあるものの、街育ちだから。
自然に囲まれた生活は、リゾート地や、誰かが運営している別荘なら行けるが、自分が、薪から割って、、、などとは不可能。
一本目の薪割りで、腰を痛めそう。
乾燥させた薪も、なかなか火が着かなかったり。
ひとりキャンプも、ファミリーキャンプも、絶対に苦手。
海も苦手。
邸宅内プライベートプールならどうにか、いけるか?なんていうと、まわり一同シラけて、槍が飛んで来そう。
軟弱にも程がある。

そういう自分の特質をよく知っているので、自然の中で暮らしている人には、ただただアタマが下がる。
たまたま、わたしのファミリーメンバーたちは、アウトドア嗜好ではない。
登山が趣味の新メンバーは一人いるが、(たぶん)山仲間と登ると思われる。
仕事でくたくたになるので、オフの時は、身体には極力刺激を与えないような、快適な舗装された道路を、快適な乗り物で動きたいようだ。
わたしは、ろくに仕事もせず、全然くたくたにならないのに、やはり虫嫌いは、行動の選択肢を狭める。

人の幸せなど誰も興味がない

2024-06-30 | 暮らし
夏。
湿った暑苦しい空気を一瞬、真ん中を切る風が流れる。
切る、というよりは、もっと優しい。
そよそよ、だけど爽やか。
その風を皮膚に心地良く感じる度に、子供の頃の光景が蘇る。

夏には家の中の風通しが良いように、祖母か母によって、夏用の建具に取り替えられている。
透ける生地、ブルーの波を形取った、涼しげなのれんが、風が吹く度に細長に揺れる。
玄関周りに、打ち水がされている。
風鈴チリンチリンは、あまり記憶にはないが。
夏の風を受けると、田舎の家での、あの気持ちいい風が、瞬時に子供の頃に時を戻す。
ベルを鳴らすとヨダレを垂らすパブロフのワンチャンのごとく。
条件反射的、反応か。

その部屋は、冬には掘り炬燵。
テレビが置いてある。
高い天井には明かり取りの窓。
そこでわたしは、テレビを祖母と観ていた。
兄、姉、両親の姿はテレビを観ていたわたしの思い出の中にはない。
わたしが幼すぎて、当時の印象が薄くて記憶にないのか。

現在もその部屋は同じ位置にテレビが置いてあるが、部屋の役割としては、隣の部屋に行くための通過across部屋のようになっている。
昔の田舎の家は、「田」の字のように和室が四つ並んでいた。
そのうちの一つの部屋は後に洋室に改装されたが、建具はそのまま。
和室にも洋室にもマッチする、重厚な木の引き戸はそのまま使われている。
昔の田舎の実家の光景を思い出すと幸せな気分になるところから推測すると、わたしはどうも、実家愛が、強い、、、。
四季折々に身体いっぱいに季節を感じていた。
頭脳ではなく、精神でもなく、受けるのは体感。

「過去は消せない」とよく耳にする。
確かに。実感する。
隅々まで染み込んでいる。
過去は、自分の体の一部になっている。
過去の栄光や成功体験が染み付いている人もいるだろう。
過去の不幸な体験からまだ抜け出せない人もいるだろう。
過去と今を比べるのではなく、過去は今に至るまで切れずに続いているもの。
過去を消したい人もいるだろうけれど、わたしの場合は消したら何も残らない。

今、幸せなら、過去はなんだってよい。
未来は今から始まる。
だが、今まで続いた幸せに固執すると、囚われの身となる。
出来れば幸せを継続したいけれど、ままならぬこともある。
毎日毎日、平凡に平穏無事に完結するのが明日への幸せにつながる。


ちなみに。
もうここまで書いてきて、ナンなんだが、、、
人は不幸話が大好き。
他人の幼少期のまったり風物詩の思い出なんぞ、まったく、まったく、まったくどうでもいい。
が、それはわたしはわたし、、、一旦、蝶ブログは横に置いておいて、、、
なんであんなに不幸話が好きなんだろう。
ゴシップや噂話が好きなのと同じで、心理的共通の特徴なのか。
向上心を掻き立てられたい人は、立派な人に擦り寄って行き、人生の極意を学び、自分に活かそうとする。
人間には2タイプあるようだ。
不幸ネタに喰らいつくと、自分は幸せだと思うような気になる。
が、、、人の不幸を、同情するのではなく、自分の優越感を満たすために用いる。
コメントを見ると皆さんの反応が手に取るようにわかる。
努力せずに、満足感を得る手っ取り早い方法だ。が、、、
自分の本性と向き合うことになる。
そんな大袈裟なことはないかも知れないが。
世の中には色んな人がいる。

自分の自虐ネタも謙遜も卑下も、実は違う面が見えることがある。
それをわかって読むのも面白いが、根っから暗い人は、人を呼び込む力があるから要注意。
暗さではなく、「パワー」を得るものをわたしは欲する。
そういう意味では、プロ作家の著書はさすがに面白い。

今日の記事は後半は、爽やかではない流れとなった。








フードは安いらしいが、ピンとこない

2024-06-28 | 暮らし
1ドル161円台突破!
えらいことになっている。
1986年以来、37年半ぶりらしい。
なんだか未来がハッキリ見えなくなってきているかのようで不安だ。

しかし、どれぐらいの日本人がドルの価格に興味があるのだろう?
パンや野菜、卵、牛乳の値段には敏感ではあるが。
人件費は上がりつつある。
とは言え、日本は物価が安い、とインバウンド観光客は外食の安さに驚いているらしい。
現地の住民も利用する「タイの屋台が安い」とはまた別モノだと思う。

若い時にバックパッカー的な冒険型、体験型旅をあまりしなかったので、ちょっと悔いが残る。
今はシニアになった自分の胃腸や体調、トイレ事情が気になって屋台だとか、現地の食をダイレクトに堪能できなくなっている。
中年の頃に、ラオスで氷に当たった(下痢)記憶はまだわたしの中では新しい。
村のお土産屋さんのトイレもなかなか風情ある、水瓶に溜めてある水を汲んで、手動式水洗だった。
今なら、風情と感じず、ふうふうぜいぜいいっていることだろう。







矛盾がいっぱい

2024-06-25 | 暮らし
わたしは受動的人間である。
自分から光を発する太陽では決してなく、太陽の光を浴びて自転する地球だ。
地球のまわりをぐるぐる回る、生真面目にルーティンをこなす月でもない。
マイペースでちょっと軸を傾けて、365日かけてゆっくり回る。

自発的に何かをしたい衝動や欲求は、なかなか現れない。
ひとの人生や行動、ブログなどで蓄積された他からの影響がどんどん膨らみ、やがて動き出すまで、時間がかかる。
胎内時間が長い。
突然、突発的に、オリジナルの何かに突き動かされることはない。
過去の経験の中の何かが、何かを見た時、何かの行動をした時に、瞬間的に誘発される。
なので、自分では気づかない間にインスパイアされている。
「経験」とは、今まて生きて来た時間の積み重ねだ。

そのインスパイアされるものは、人によって様々だと思う。
犯罪行為にまで発展する人もいるだろうし、仕事とはまた別に、趣味が深まることもある。
好き嫌いは、感性による。
道徳心や倫理観にも左右される。
好きな興味あることは、追い求め、情報を積極的に取りに行く。
嫌いなことには目を背ける。
「好きなこと」は、どんどん精錬されていく。
その場限りのものもあれば、無意識にこころに残っているものもある。
枝分かれし、主流から派生していることもある。
ある日、知らない間に自分の中にあるものが、突然、呼び起こされ、引き出されることがある。
引き出しがたくさんあると、呼び起こされる頻度が多くなり、広がり、深まり、濃くなる。
が、自分で整理していないと混乱するだけとなる。

真横で同じものを見て、同じことをしても、何も考えず、何も感じず、何も見ない人もいる。
人それぞれの価値観、感性である。
同じ価値観、、、は、なかなかぴったり一致するのは難しいから、合っている部分だけを共有する。
感性や考え方も然り。
ボール(球)のように全ての面々で接するのは困難だが、多面体で、一面が小さければ小さいだけ、接するところが多い。
ただし、球は転がって安定しない。
何にでも一長一短があり、表裏一体。

何も見ない、見えない人は、それはそれで安定して幸せである。
何でも見える人は、自分が定まりにくい。
選択肢は少ないほうが、幸福感が上がるらしい。
なんでも選べる人は幸せかというと、これまた一長一短である。

上を見ると、キリがない。
下を見ると、キリがない。
横を見ると、ざわつく。
何も見ないと、生きている意味がない。
でも、無の境地。
それも幸せかも知れない。

生きているのに、生きていない無の境地を目指すのは、矛盾している。
「人間は矛盾で出来ている」
この結論、カンタン便利。
だが、摩擦を生み、ビジネスや争いの世界では通用しない。
矛盾をぐるぐる回ると、いつまでもエンドレス。
そうしていると、お腹が減る。
食べて満腹になると眠くなる。
そうやって毎日が繰り返される。


※先月のウブド。
このショップの入り口では、履き物がきちんと揃えられている。
ショップのスタッフによって性格はさまざま。
だけど、入り口の外にビーチサンダルを脱ぐのは同じ。

専業主婦。

2024-06-12 | 暮らし
長女が最近、仕事に終われている。
夜中まで仕事、プライベート時間も仕事、食事中も仕事、休日も仕事。
今、まさに働き盛り、重要な役割りを担っているようだ。
想像するには蝶番(ちょうつがい、ヒンジ)のような位置か?
同じ蝶でも、わたしの愚蝶ブログとは全く違う。
仕事のことは、愚母(わたし)に言っても、理解されないか、へんに間違って解釈して他人に話されたり、また説明を何度も重ねるのが面倒なのか、娘たちは、わたしには一切言わない。
なので、想像するのみ。
(娘婿は、自分の仕事の一部を親切に丁寧に優しく、わかりやすく説明してくれるが。
義理の間柄は、ワンクッションあるから気遣いしてくれる)

私、長女、次女、おんな3人の会話。
「このごろ、(おねえちゃんは)仕事、大変らしいよ」
と、わたしが次女にため息混じりで、一言、漏らした。
次女が言った。
「おねえちゃん、仕事、やめたら?」

長女が答えた。
「仕事やめて、何するの?」
わたしが、口を挟んだ。
「専業主婦!」
・・・
気まずい空気は、、、流れなかった。
即座に長女が勢いよく言った。
「専業主婦の仕事って何?!」
・・・
が、わたしは、しどろもどろ、、、にはならなかった。
待ってました!とばかりに、元気に言った。

料理、家事、育児!
3つの単語を並べた。
長女、次女、2人から流れる冷た〜い気流。

その後、ほんの2、3言、なにかを発したが、会話は全く発展しなかった。
全員、3人共、流した。
建設的意見を交わす気、ゼロ。
この話題、終了!と、時間の無駄だと言わんがばかりに、各人、忙しなく別の事柄に移った。
討論、議論する価値、意義がないのか。

かつて、ちゃんとした就労経験なしのママ友が言っていた。
主婦は色々用事があって大変だ、と。
家事はさておき、銀行に行ったり、と。
今なら銀行に行かなくてもインターネットで用は足りる。
(現場に足を運び対面でしか出来ないこともあるようだが)
彼女は子供が帰ってきた時に家にいて迎えたいそうだ。
自営業なら可能。
家事や子育ての合間に出来る仕事を探していた女性もいたが、「合間」の定義が難しい。
確かに、合間に出来る仕事もある。
働き方、人それぞれ。
30年以上前とはだいぶん、状況が変わってきている。

ちなみに。
コップの一つも洗わない、食べ終わった食器を下げない、いつもトイレは汚しっぱなし、(汚している意識もない)、お風呂は入浴事前事後ノータッチ、ゴミの分別をしない、ゴミ収集日がいつか知らない、家事を全く微塵もしない、一切関わらない夫は、40年前のまま。
(しかし、これは家事と言えるのか?当たり前の身の回りのこと。
もし1人住まいなら、メディアで紹介される、足の踏み場もないゴミが山積みされた汚部屋住人になることだろう)
自分で動くのはお酒とジャンクフードを買いに行くことぐらい。
生まれてから一度も家事をしたことがない。
そういう男性はまだいる。
家父長制度の成れの果て。
(大正生まれの父は、家事はしていたが)
ノーベル賞受賞者やお偉い権威者、政治家、実業家、有名なスポーツマン、俳優、優れた人々でも、家で家事しないんだろうな、、、と想像すると、どんな素晴らしい成果が世に出ても、その人の家族にはなりたくないなあと思ったりする。
別居という手があるが。

身の回りの家事をする、家事能力を身につけさせなかった、当たり前の躾が出来なかったわたしが悪いのだろう。
ペットでもトイレトレーニングの躾がされている。
わたしは、ブリーダー失格だ。

躾トレーニングに失敗し、その結果、毎日具体的な形となって目の当たりにして接すると、ストレスが頭の上から大岩のようにドカンと降って来て、わたしの神経を蝕んでいる。
て、頭に大岩直撃だと即死だ。
毎回、即死を繰り返している。
いったい何回、即死したのだろう。
我が家における専業主婦とは、、、魂が抜けた抜け殻。
病んでいる状態は過ぎ、生体反応のないロボットになっている。ルンバちゃん。
丸く掃除が終われば、自分で元の位置に戻ってチャージ。益々更に進化中ルンバ。
だから、長女も次女も、専業主婦には決してならない、、、か、あるいは、ビジネスと割り切るかも。
わたしは身を挺して見本となったわけだ。反面教師。
わたしは、これだけ即死を繰り返しても、今だに神経がヒリヒリして、壊れてもまた蘇り、中途半端でなかなか死なない。
その度に苦しむ。悶絶する。
魂を切り売りし、自分の羽根を抜いて旗を織るかのように、生活のために少しずつ身を削って生きている。
ま、自分のためなので。
他ならぬ自分が生きていくため。
まだまだ生には執着しているようだ。

時は止まることなく僅かずつ進む。
進み続ける。
やがて最後はどうなるのか、だいたいは想像できる。


最後に。文末で、今更遅いですが。
真面目でまともで正当な専業主婦の方は、閲覧注意。
読まないでください。

矛盾

2024-01-06 | 暮らし
今夜はお泊まり。
イレギュラー・ナイト。
普段は家では付けないエアコンを付けている。
一晩中ではなく、お休みモードに。(2時間後に切れる)

とある介護付き老人ホームのゲストルーム。
そこに泊まっている。
快適、この上ない。
快適な理由は、、、まず、部屋に1人で泊まっていること。
部屋が広々して、最低限の便利なもの以外は余計なものは置かれていないこと。
我が家もこんな風にしたい。
が、無理。
わたしのモノを捨てられない性質が邪魔をしている。
こんなにスッキリ何もなければ、さぞや気持ち良いだろう。
ではあるものの、、、。

1ルーム、プラス、ミニキッチン、シャワー、トイレ付き。
水回りとベッドルームの間には、明かりが通る可動式のスライドドアがある。
ベッドルームは、12畳以上ある?もっと?
ミニキッチンの前にシャワー、トイレがあり、その間のスペースは十分確保されてあるる。
ここに長く滞在したい、、、が、、、
老人ホームの介護棟のため、要介護ではないわたしは、入居条件にまだ達していない。
自立棟もあり、その棟ならわたしも入居できる。
逆に自立できない人は、自立棟には入れない。
自立している人は介護棟に入りたくても入れず、自立していない人は自立棟に入りたくても入れない。

あるいは、自立している人は介護棟に入りたければ入れるかも知れない。
介護棟の意味がないだけで。
だが、介護棟の居室がとても居心地が良い。
わたしは介護される人の予備軍なんだろう。

生活感がないところが、わたしの気持ち良さを生み出しているのだろう。
自立していない人が入る部屋なので、片付けられている。
わたしが、へんに自分らしさを出すと、きっと部屋がモノでいっぱいになるだろう。
こだわりのモノが所狭しと並ぶに違いない。

しかし、何も老人ホームの介護棟の居室でなくても、普通のマンションの一室でも良いではないか。
いや、生活し始めると、生活臭がし始める。
当たり前だ。
生活感なく暮らしたいという、ありえないことを望んでいる。
生活🟰暮らし
しかしながら、生活臭のしない暮らしは、それを維持するには、きっとわたしにとっては、息が詰まり、めんどくさいだろう。

自立しているわたしが、老人ホームが快適だなんて、、、
ではあるものの、何日も何日もこの部屋で過ごすと、おそらく飽きてきて嫌になってくるだろうと想像する。 
でも出られない恐怖、悲劇が待ち構えている。

それはそうと、なんでこんなに快適なのか?
明日には、さよならだけど。
この快適の理由を究明して、自分の普段の生活にぜひ取り入れたい。

と、今、ひらめいた。
快適な室温で、ベッドで横になりながらTVを観て夜更かししているからだ。
自宅だと絶対無理。
寝室にはTVを入れない主義だし、居室には床暖房はしてもエアコンは付けない。
自分の方針とは違う部屋だから、非日常だから、心地よいのだ。
では、日常もそうして快適な状態にすれば良いものを、、、。
何なんだろう???
ひたすら矛盾している。