蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

枯山水からのメッセージ

2024-12-03 | オトコとオンナ
今日はなぜか、「オトコとオンナ」のテーマで書きたくなった。
枯山水のわたしが、書けるか?
書くのは自由。

蝶ブログの過去記事。
どなたかが引っ張り出して読まれた形跡ありの、「恋のお値段」というものがあり、読んでみた。
前半は全く無意味、無駄、意味なし内容だった。
我ながら情けない。 
助走に時間がかかっている様子が伺える。
温まるのに時間を要するスロースターター。
が、後半、本題の「恋」は面白かった。
なんでもお金に換算して考えるわたし、、、これをゲンキンと言うのだろうか。

それはいいとして。
枯山水になると、余裕が出て来て、墨汁モノクロから天然色、総カラーを楽しめる。
もちろん、がっつり参加する側ではなく、視聴者参加型イベントみたいな、いや、実際にスタジオで参加するのではなく、TVやインターネットの向こうから参加するかんじか。
ではあるものの、やはり臨場感がないと、造花では、プリザーブド・フラワーにもならない。
しかし、瀬戸内寂聴さんをわたしは理想にはしていない。
実物のビジュアルにこだわるところがある。
(「よく言うよ」と。ビジュアルに耐えないわたしが言う)

若い頃は、皆さんの若い頃と同じ。
かなりマグマは熱かった。
今は予熱で生きている。
淡々とした枯山水仲間たちとは、落ち着くことは落ち着くが、、、
今は少しだけ私より若い男性がいい。
ほんの少し。
あらっぽく「わたしと同世代」とくくってしまってもいいが、やっぱりまだ枯山水でないほうがいい。
熱く一心不乱に登って来た道を、頂上からの景色を胸に、下山を感じながら、丁寧に心して、降りようとしている、そんな枯山水一歩手前の人に魅力を感じる。
抗えないものに抵抗しようと、いずれ足掻くにしても、まだ直面していない現状が、わたしには若く映る。
渡っている桟橋が、渡ってきた背後側が切れて、必死で向こう側に走り切る、そういう迫力に、臨場感あふれるかんじ。
わたしは、こっち側、前方にもう渡ってしまったので、安全な場所から渡って来ている人を見ている。
手を差し伸べ、ガンバレ!と応援しているかと言えばそうではない。
渡り切るのではなく、いつまでも、桟橋の上を走って欲しい!と、願ったりする。
熱さ、若さが伝わり、応援とかそういうものではなく、また別の感覚、、、漢字や英単語で書けるが、やめておく。
羞恥心が邪魔をする。
恋心とか、そんな美しいものではなく、もっと土臭い、汗臭いもの。
臭いフェチか?
(いえ、実際の臭いは遠慮します)
絵に描いた餅ではない、肉厚感、リアル実在感、生き生き躍動感が、心臓の鼓動が、肌感覚で伝わるようで、心身共に共鳴する。
(この文章、描写表現、ダサすぎて伝わらないと思いますが)
あ、ChatGPTに作ってもらったら完璧だろうけれど、そこは手作り感を大切にしたい。
無骨、素朴、朴訥、素直、愚直、ストレート直球。
(もはや、何を言ってるのか、わからない状態)
と、わけのわからないことを書いているが、これはある意味、メッセージでもあります。
もっとはっきり、突っ込んで書きたいところだが、広告チラシの裏にでも書いて、スレッダー処理します。

ブログはいいなあ。
蝶ブログのような、何の影響も与えない無名人ブログは、宇宙の星屑ぐらいたくさんある。
自己満足、自己責任で、たった1人の人にでも伝わればいいと願いを込めて書いている。