京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

佛光寺特別拝観

2010-11-14 23:52:39 | まち歩き

秋の特別拝観は、今日まで。ぎりぎりになってやっと昨日、佛光寺の聖徳太子像を見に行った。佛光寺。真宗佛光寺派、本山。『名探偵コナン』の映画でいっとき有名になったけれど、今回が初めての特別公開。

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高倉通に面し、門が4つ並んでいる。北から玄関門、勅使門、御影堂門、阿弥陀堂門。上の写真は御影堂門。この正面には御影堂、左側には阿弥陀堂がある。

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西本願寺や東本願寺と同様、両堂形式で、しかも本堂(阿弥陀堂)よりも、御影堂の方が大きく立派。御影堂の方は、前に2基の燈籠もある。そういえば、この寺も、両寺と同様、東に門があり、お堂も東を向いている。これは、宗祖親鸞の眠る大谷廟を向いているのだろうか。

さて、拝観すべき聖徳太子像は本堂に。建物はM.37年の再建。内陣中央には阿弥陀如来立像、左右に法然上人坐像と聖徳太子像、法然上人のさらに左にはインド・中国・日本の六高僧(竜樹・天親など)、聖徳太子像の右には後醍醐天皇位牌が並んでいた。 後醍醐天皇の厨子扉と本尊の扉には菊紋、それ以外の扉や花台、香炉などには下がり藤紋。ロウソク立てには真っ赤な和ロウソクが置かれ、特別な趣があった。

10_016 太子像は1320年作で、寄木造の玉眼。S.41年、重文に指定されている。美豆良に結った髪、ふっくらとした頬の、少年の姿。玉眼のせいかもしれないが、目元は鋭く、厳しい表情だった。右手に錫、左手に柄香炉を持つのは「初期真宗教団で特に好まれた形式(同寺HP)」なのだそうだ。

さて、この佛光寺、由来は『都名所図会』から引いてみよう。

「汁谷山佛光寺ハ五条坊門通にあり 初ハ興正寺と号す 宗旨ハ親鸞上人の弘法にして 佛光寺派と称す 本堂には開山親鸞聖人自作の御影を安置す 坐像にして長二尺余なり 阿弥陀堂本尊は立像の阿弥陀佛を安置す 長三尺一寸八歩 慈覚大師の作なり 此本尊ハ後醍醐天皇の御宇に、盗賊寺内に乱入し尊像を奪ひ逃るといへども、重くして詮方なく二条河原に投棄て去ぬ 其夜より瑞光を放て帝闕を映照し百官これをあやしむ 帝光の行衛を尋させ給ふに弥陀の光明なり 勅使驚て尊像を帝に奉り宮中に安置す 其後興正寺に遷座し寺号を佛光寺と改て勅額を賜ふ 又宸筆を染られて親鸞聖人の絵詞傳を書し給ひ 専修念佛の棟梁たる綸旨を賜ハる 阿弥陀堂の脇壇にハ聖德太子自作の木像 法然上人自作の像を安置す 餘間を存覚間といふ 本願寺第三代覚如上人の息存覚上人こゝに寓居し 六要抄四部九帖等を撰し給ふ 夫當寺の草創は親鸞聖人四十歳の時 山州山科郷東野村に建立し興正寺と號し 徒弟の上足真佛上人に附属し給ひ 其後五条西洞院九條殿下兼實公の別荘花園亭を 聖人に寄附して花園院と号し 興正寺の院號となせり 九十四代の帝花園院の御時園を恩に改む 後醍醐帝の御宇元應元年に 當寺を以て今比叡竹中庄汁谷に移す 東ハ阿弥陀峯を限り西ハ柳原に至り 今七条河原をいふ 南ハ菅谷を限り北ハ汁谷大路に至る 其後足利尊氏公の祈願寺として佛供田を寄附し給ふ 是より宗門繁昌し尊信の僧俗諸国に充満し 塔頭四十八坊に及べり 然に文明年中當寺十四世の住職経豪上人 山科本願寺蓮如上人に属し 寺僧四十二坊其外国々の門徒数輩随順す 故に経豪上人の舎弟経誉上人當寺の住職とし十四世を相続す 所在の六坊今寺内にあり 秀吉公の時大佛殿建立によりて此地に移す」

日文研HP(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_100.html) 

ここには、「後醍醐天皇の夢枕に現れた光によって阿弥陀如来が見つかった(同寺HP)」という話はない。帝は、皆が気づいているこの光はなんぞやと聞いたに過ぎない。ただ、これが「佛光寺」という名称の由来であることは間違いない。

昨日の学生さんによる解説では、もとの寺号を「興隆正法寺」とのことだった。これを縮めて「興正寺」。そういえば、西本願寺の続き、すぐ南にある寺も興正寺だった。こちらの方は、さきの引用文最後にある経豪上人が蓮如上人に帰依して山科に建てた寺が、洛中に移転してきたものである。佛光寺十四世住職が別の寺を創建し、そこに佛光寺の旧称を使用した、ということになる。

また「汁谷」とは東山・阿弥陀峯麓の、今の「渋谷道」の辺り(旧称:久々目路・馬町通)。これは『保元物語』にもある東国から京へと続く古道だが、山越えの際、落ち葉が沢の水に濡れて滑りやすい道だったことから、元は「滑谷」と呼ばれていたらしい。「五条坊門通」は、今の仏光寺通。

『都名所図会』の絵には、なぜだか御影堂を「本堂」と記してあった。当時は、そう考えるのが普通だったのか、それとも著者(あるいは絵師)が単に間違っただけなのか・・・・・・。

日文研HP(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_100.html)

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*11/23追記:「通りがかりの者」さんよりコメントを頂き、浄土真宗佛光寺派では「御影堂」を通常「大師堂」と呼ぶことを知りました。ありがとうございました。

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御射山自転車駐車場

2010-11-14 00:13:35 | まち歩き

話題のLAQUE、コトチカに行くなら、御射山自転車等駐車場が便利。東洞院通六角下る御射山町の、御射山(みさやま)公園地下にある。

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写真は、東洞院通に面した入口。

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システムは先斗町や富小路六角の駐車場と同様で、料金も同じく一日150円。収容数は、両者のほぼ倍で、自転車887台+原付121台。

出かけるため調べてみるまで気づかなかったのもそのはず、つい9ヶ月前にできたばかりらしい。

京都市情報館(http://www.city.kyoto.lg.jp/kensetu/page/0000075579.html

京都市駐車場案内(http://www.kyotopublic.or.jp/annai/annai2/index.html#misayama

「御射山」という地名が珍しく、読み方がわからない(京都ではよくある)と思って検索してみたら、諏訪大社にゆきあたった。諏訪大社で御射山祭(狩猟神事)を行うため、上社・下社に設けた場所を「御射山」と称したらしい。諏訪大社を勧請して江戸時代には「御射山町」と呼ばれたことが『拾遺都名所図会』で確認できる。

「御射山諏訪大社:東洞院通六角の南、御射山町人家の奥にあり。信州諏訪明神を勧請す。鎮坐の年記詳ならず、毎歳七月廿七日祭式を修す。(『拾遺都名所図会』1787年)」

日文研HP(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyotosyui/page7t/km_01_114.html

また、諏訪の神を勧請し江戸時代に「諏訪町」と名づけられた場所も、五条南にある(今の上諏訪町・横諏訪町・下諏訪町)。

「諏訪社ハ五條の南二町諏訪町ニあり。祭所信濃の国諏訪の社と同神なり。〔獣肉を喰ふもの此社の神箸をうけて食す、汚穢なしとぞ〕(『都名所図会』1780年初板・資料は1786年再板)」

日文研HP(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7t/km_01_110.html

現在、龍谷大付属平安高・中のすぐ西には諏訪神社があり、一帯を諏訪開町という。諏訪の神は、人気だったのだ。

LAQUEもコトチカも一通り見、コトチカの成城石井でベーグルやパウンドケーキをいくつも買って帰った。オリジナルのプレミアムチーズケーキが美味しかった。

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