訪問日:令和3(2021)年2月21日
本州と下蒲刈島とを結ぶ安芸灘大橋(有料)平成12年1月開通・長さ1,175m 大津泊庭園から
久しぶりに広島県呉市を訪ねました。一番の目的地は、大崎下島の御手洗(みたらい)です。
訪ねるのは、橋で陸続きとなってから2度目です。自宅からの所要時間は2時間半、距離にして146kmでした。
ナビを信じて進むと何と、安芸津港にやってきました。フェリーでの案内でした。これには少々慌てましたが、気を取り直して185号線を海岸沿いに走っていると、海には牡蠣筏が並び、さすが牡蠣の生産高日本一の広島だと思いました。
そしてやっと安芸灘大橋までやってきましたが、通行料金730円とその高額にびっくりです。ここから、さらに蒲刈大橋、豊島大橋、豊浜大橋を渡らなければなりません。安芸灘大橋から御手洗までの所要時間は、24km40分でした。
豊浜大橋 平成4年11月開通・長さ543m 豊島と大崎下島を結ぶ
(歴史の見える丘公園)
御手洗で最初に訪ねたのは「歴史の見える丘公園」です。公園への案内表示があったので迷わず進みました。細いくねった山道です。対向車が来ないことを祈りながら走らせること5分ほどで駐車場に到着しました。
展望台からの眺望は素晴らしいものでした。ベンチには静かに海を眺める老夫婦の姿があり印象的でした。眼下に御手洗の町を俯瞰することができます。さて、この公園の一角に「おいらん公園」があるはずなのですがよくわかりません。ちょうど下から登ってきた若い男性に道を尋ねると、「この下の方にありましたよ」とのことでした。
また戻ってくるのは大変だなと思いながら真下に続く階段を下ると、おいらん公園と書かれた石碑がありその下に墓地がありました。
墓地は、海が見下ろせる高台にあります。そこには100基以上の遊女の墓が整然と並んでいました。
駐車場から展望台につづくスロープ
御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて、地区を見下ろせる高台に設けられた公園。御手洗や来島海峡、四国の山々が一望できる。まさに天然の良港。
眼下に広がる御手洗の町並み。千砂子波止も見える。
高燈籠のアップ
ベンチで静かに海を眺めるご夫婦
(おいらん公園)
展望台から急な階段を下る
御手洗における遊女に関する最も早い記録は、元禄5(1692)年にドイツ人医師ケンペルが著した「江戸参府旅行日記」と考えられています。そして、公式にはじめて認可されたお茶屋は、享保9(1724)年に開業した若胡屋(わかえびすや)です。その後3軒のお茶屋が開業し、最も栄えたのは宝暦期(1751~63)と推測されています。宝暦5(1755)年には、若胡屋/46名、藤屋/27名、海老屋/27名で計100名の遊女がいた(豊町史)と記録され、全国の花街番付にも載るほどでした。実に町の住人の2割が遊女だったといいます。
その遊女の数も江戸末期には41名に、そして近代以降も御手洗の花街は存続し、最終的に売春防止法が施行された昭和33(1958)年まで継続していました。
急傾斜防止工事の際、享保15(1730)年頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓が百墓に余って発掘された。
墓石が整然と並ぶ
若胡屋の文字が見える
この御手洗の花街は、他と違い周辺地域から隔絶された存在ではありませんでした。地域住民との密接な繋がりを持ちながら維持されてきたのです。2003年、土に埋もれ忘れられていた墓石を海の見えるこの地に移す中心的な役割をした今崎仙也さんは、NHK「日本風土記・北前船の旅人たち」の番組の中で、少年の頃の記憶を懐かしみながら次のように語っています。
「御手洗には銭湯が3軒あって、一番風呂は遊女なんですよ」
「夕方、化粧を早くしなきゃならんということでね」
「遊女たちも学校に勉強にいく子もおるし、一緒に町民運動会にも参加する子もいる」
「あまり違和感もない状況で私たちは接してきました」
墓石を移して整備したことについて
「江戸時代から非常に御手洗を支えてくれた人たちということでね」
「感謝の気持ちを込めて景色のいいところに移設してあげようじゃないかということになったんです」
「遊女たちは自分の出身地の船が港に入ると、あの船に乗って帰りたいと思ったんじゃないでしょうか」
関連ブログ 前回の記事「遊女たちの悲しい物語があった」
参考文献:「大崎下島御手洗における花街の景観と生活」加藤晴美
NHKBS新日本風土記「北前船の旅人たち」
本州と下蒲刈島とを結ぶ安芸灘大橋(有料)平成12年1月開通・長さ1,175m 大津泊庭園から
久しぶりに広島県呉市を訪ねました。一番の目的地は、大崎下島の御手洗(みたらい)です。
訪ねるのは、橋で陸続きとなってから2度目です。自宅からの所要時間は2時間半、距離にして146kmでした。
ナビを信じて進むと何と、安芸津港にやってきました。フェリーでの案内でした。これには少々慌てましたが、気を取り直して185号線を海岸沿いに走っていると、海には牡蠣筏が並び、さすが牡蠣の生産高日本一の広島だと思いました。
そしてやっと安芸灘大橋までやってきましたが、通行料金730円とその高額にびっくりです。ここから、さらに蒲刈大橋、豊島大橋、豊浜大橋を渡らなければなりません。安芸灘大橋から御手洗までの所要時間は、24km40分でした。
豊浜大橋 平成4年11月開通・長さ543m 豊島と大崎下島を結ぶ
(歴史の見える丘公園)
御手洗で最初に訪ねたのは「歴史の見える丘公園」です。公園への案内表示があったので迷わず進みました。細いくねった山道です。対向車が来ないことを祈りながら走らせること5分ほどで駐車場に到着しました。
展望台からの眺望は素晴らしいものでした。ベンチには静かに海を眺める老夫婦の姿があり印象的でした。眼下に御手洗の町を俯瞰することができます。さて、この公園の一角に「おいらん公園」があるはずなのですがよくわかりません。ちょうど下から登ってきた若い男性に道を尋ねると、「この下の方にありましたよ」とのことでした。
また戻ってくるのは大変だなと思いながら真下に続く階段を下ると、おいらん公園と書かれた石碑がありその下に墓地がありました。
墓地は、海が見下ろせる高台にあります。そこには100基以上の遊女の墓が整然と並んでいました。
駐車場から展望台につづくスロープ
御手洗地区の重要伝統的建造物群保存地区の選定にあわせて、地区を見下ろせる高台に設けられた公園。御手洗や来島海峡、四国の山々が一望できる。まさに天然の良港。
眼下に広がる御手洗の町並み。千砂子波止も見える。
高燈籠のアップ
ベンチで静かに海を眺めるご夫婦
(おいらん公園)
展望台から急な階段を下る
御手洗における遊女に関する最も早い記録は、元禄5(1692)年にドイツ人医師ケンペルが著した「江戸参府旅行日記」と考えられています。そして、公式にはじめて認可されたお茶屋は、享保9(1724)年に開業した若胡屋(わかえびすや)です。その後3軒のお茶屋が開業し、最も栄えたのは宝暦期(1751~63)と推測されています。宝暦5(1755)年には、若胡屋/46名、藤屋/27名、海老屋/27名で計100名の遊女がいた(豊町史)と記録され、全国の花街番付にも載るほどでした。実に町の住人の2割が遊女だったといいます。
その遊女の数も江戸末期には41名に、そして近代以降も御手洗の花街は存続し、最終的に売春防止法が施行された昭和33(1958)年まで継続していました。
急傾斜防止工事の際、享保15(1730)年頃から江戸時代末期に至るまでの遊女・童子それにかかわる人たちの墓が百墓に余って発掘された。
墓石が整然と並ぶ
若胡屋の文字が見える
この御手洗の花街は、他と違い周辺地域から隔絶された存在ではありませんでした。地域住民との密接な繋がりを持ちながら維持されてきたのです。2003年、土に埋もれ忘れられていた墓石を海の見えるこの地に移す中心的な役割をした今崎仙也さんは、NHK「日本風土記・北前船の旅人たち」の番組の中で、少年の頃の記憶を懐かしみながら次のように語っています。
「御手洗には銭湯が3軒あって、一番風呂は遊女なんですよ」
「夕方、化粧を早くしなきゃならんということでね」
「遊女たちも学校に勉強にいく子もおるし、一緒に町民運動会にも参加する子もいる」
「あまり違和感もない状況で私たちは接してきました」
墓石を移して整備したことについて
「江戸時代から非常に御手洗を支えてくれた人たちということでね」
「感謝の気持ちを込めて景色のいいところに移設してあげようじゃないかということになったんです」
「遊女たちは自分の出身地の船が港に入ると、あの船に乗って帰りたいと思ったんじゃないでしょうか」
関連ブログ 前回の記事「遊女たちの悲しい物語があった」
参考文献:「大崎下島御手洗における花街の景観と生活」加藤晴美
NHKBS新日本風土記「北前船の旅人たち」
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