ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

幕末、祇園祭の宵々山に起こった「池田屋事変」。16日に行われる「新選組隊士等慰霊供養祭」

2019-07-17 | 京都

コンチキチ~と、京都の町に流れる祇園ばやし。7月16日にミモロは、四条通の西、「壬生寺」に出かけました。

この日、「壬生寺」では、「新選組隊士等慰霊供養祭」が。午後13:30から行われるのです。
お友達に、この慰霊供養祭のことを教えてもらったミモロは、「行かなくちゃ~」と、新選組隊士の装束で出かけることに。

「壬生寺」のそばは、幕末、新選組の屯所が置かれた場所。関東からやってきた新選組の隊士たちは、ここで京都守護職である会津藩の松平容保のお預けとなり、京都の治安を守るお役目に就きます。

当時京都は、倒幕を目指す、薩摩、長州などの勤王派佐幕派の志士と、幕府側の衝突など、治安の乱れが京の人々を不安にさせていました。
そんな状況の中でも、祇園祭は行われ、『元治元年(1864)旧暦6月5日に、倒幕派浪士が、三条池田屋に集い、6月20日前後の風の強い日に京都の町に火をつけ、その混乱の中、天皇を奪い倒幕する』という情報を得た「新選組」は、京都の町を守るために、出動。これが「池田屋事変」です。

「へぇ~池田屋事変って、祇園祭の時だったんだ~知らなかった~」というミモロ。

つまり、この日は、「新選組」にとって、歴史を動かした記念すべき日であり、その存在を広く知らしめた日でもあるのです。
この「池田屋事変」で、明治維新は、1年遅れたといわれるほどのものだそう。

明治という新しいシステムの時代を目指す勤王佐幕派・・・、長く続いた徳川幕府体制を死守しようとする幕府側の「新選組」、共に日本の将来を考え、行動した人たちです。

この「新選組隊士等慰霊供養祭」は、等という文字があるように、幕末維新に、命をかけた人々を共に慰霊供養するものです。

ミモロが到着したとき、本堂の前には、ズラリと新選組の装束の人たちが並んでいました。そこで、この日の意味などのお話が。
 
ミモロも、一緒に、そばで…すでに新選組の一員のよう。

この慰霊供養祭は、昭和51年に発足した一切政治色がない「京都新選組同好会」の方々が参加し、壬生寺が主催し行われます。
つまり、幕末の京都で、日本の平和を願った人たちへの思いを、伝え続けたいという会なのです。

「あの~写真一緒にお願いします~」と、ミモロは恐る恐る隊士の方々に近づきます。
「あ、小さな隊士・・・よくいらっしゃいました~」と、皆さん、とても優しくミモロを受け入れていただきました。
 
時代の大きな流れを知りつつも、己の志を貫いた隊士たち。その若き人々への思いを募らせる方々なのです。


屯所のあったそばにある「壬生寺」には、新選組隊長、近藤勇の銅像がある「壬生塚」があり、その前で慰霊供養祭が行われます。
  
尺八の奉納に続き、壬生寺貫主の松浦さんの供養文奉納。そして参列した人全員が、次々に焼香を行います。
この日、全国から「新選組」を崇敬する多くの人々が参列。「すごいね~」と驚くミモロでした。

ミモロも、焼香します。
 
三条河原に首を晒された近藤勇。「新選組」には、多くの関東出身の士族などが名を連ねます。東京出身のミモロは、京都でも、このように慰霊供養してもらえてよかった・・・と、そっと思うのでした。

この慰霊供養祭には、島原の太夫も参列。
「あれ、小さな隊士さん・・・」とやさしく抱っこしてもらいました。

すっかり新選組の隊士のように、凛々しく立つミモロ。
 

慰霊供養祭の後は、剣舞などの奉納も。
「このあと、歌謡ショーもあるんだって~」というミモロですが、すでに15時近く、戻る時間になりました。
残念ながら歌謡ショーは、見ずに戻りました。

境内には、蓮の花も咲く「壬生寺」です。


ちなみに「新選組隊士等慰霊供養祭」には、だれでも参加自由です。

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